第12話 ミーナの視点「知らないこと、わかること」
ミーナは、湯気の立ちのぼるカップを両手で包み込みながら、そのぬくもりを掌にじんわりと移しつつ、窓際に並ぶ二人の姿を、どこか穏やかな気持ちで眺めていた。
窓から差し込むやわらかな光の中で、ザーラが静かに立っている。
そのすぐ隣には、ぴたりと体を寄せるようにしてルティがいて、小さな手で服の端をきゅっと握りしめたまま、まるでそこが自分の居場所だと確かめるように、離れる気配をまったく見せていなかった。
「……」
その様子があまりにも自然で、あまりにも当たり前みたいに見えて。
ミーナは思わず、口元をゆるめてしまう。
ザーラがこの森にやって来たのは、もう何年も前のことになる。
村の外れにぽつんと家を構え、薬を扱う人間が来たと聞いて、興味半分で様子を見に行ったあの日のことを、ミーナは今でもはっきりと覚えていた。
最初に見たときの印象は——
とにかく、きれいな人だった。
森の空気にも、この村の土の匂いにも、どこか馴染んでいないような、場違いなほど整った存在。
けれど。
それ以上の印象は、ほとんど残らなかった。
近づきにくくて、冷たくて、隙がなくて。
何を考えているのか、まるで読み取れない。
話しかけても、必要なことだけを淡々と返すだけで、そこに余計な温度はほとんどなかった。
「……」
詳しい事情は、結局いまでも知らない。
あえて聞こうとも思わなかったし、仮に聞いたとしても、あの人が素直に話すとも思えなかったからだ。
ただ——
“何かを抱えている人間だ”ということだけは、あの頃からずっと、なんとなくわかっていた。
最初の頃は、本当に必要なやりとりしかなかった。
薬の相談。
森で採れる素材のこと。
あとは、せいぜい体調の話くらい。
それ以外の会話は、ほとんどなかった。
笑うことも、滅多になかったし、こちらが冗談を言っても、返ってくるのは薄い反応ばかりだった。
「……」
それでも、関わりが途切れなかったのは——
あの人が、ちゃんとしていたからだ。
困っている人を見れば、ちゃんと手を貸すし、頼めば面倒くさそうな顔をしながらも結局は断らない。
薬の知識も確かで、何度も助けられたことがある。
だから気づけば、用事を作っては足を運ぶようになっていた。
最初は薬を分けてもらうため。
そのうち、森の素材を持っていくついでに顔を出すようになり。
気づけば、簡単な下処理を手伝ったり、重いものを運んだり——
「どうせ一人じゃ時間かかるでしょ」と言いながら、半ば勝手に居座ることも増えていった。
ザーラは文句を言いながらも、完全には追い返さなかった。
それが許されているのだと、ミーナはなんとなく理解していた。
それでも。
あの人の中には、はっきりとした一線があった。
それ以上は踏み込ませない、見えない壁のようなもの。
どれだけ通っても、どれだけ言葉を交わしても、その内側には入れてもらえない——そんな距離感が、ずっとあった。
それが。
「……」
ちらりと、今のザーラへ視線を向ける。
ルティが、くいっと服を引っ張る。
「……なに」
少しだけ面倒そうな声。
でも。
ちゃんと足を止めて、ちゃんとその子の方を見る。
「……」
ルティは何かを伝えようとして、言葉がうまく出ずに、もどかしそうに眉を寄せている。
その様子を見ても、ザーラは急かさない。
ため息ひとつつかずに、そのまま待つ。
「……」
やがて、自然な動きでしゃがみ込んで、目線を合わせる。
「……ゆっくりでいい」
静かで、やわらかな声。
「……変わったなぁ」
思わず、ぽつりと漏れる。
誰に聞かせるでもない、小さな独り言。
あの人は、こんなふうに“待つ”人だっただろうか。
こんなふうに、相手の高さまで自分を下げて、ちゃんと目を合わせる人だっただろうか。
「……」
たぶん——違う。
ルティが来てからだ。
変わったのは。
そう、はっきりと思える。
最初に見たときのルティは、ひどく頼りなくて、壊れてしまいそうなほど小さかった。
怯えきった目をして、ほとんど言葉もなくて。
正直なところ、長くはもたないかもしれないとさえ思った。
「……」
でも、今は違う。
ちゃんと食べて、ちゃんと眠って、ちゃんと笑う。
そして何より——
迷いなく、あの人に触れる。
ザーラの背中にぴたりとくっついて、当たり前のように離れないその姿を見て、ミーナは小さく笑う。
まるで親鳥のあとをついて回る、ひな鳥みたいだと。
「……でもさ」
ふと、思う。
どっちが先だったんだろう、と。
ルティが安心できる場所を見つけたから、ああしてくっつくようになったのか。
それとも——
ああして無条件にくっつかれ続けたから、ザーラのほうが変わっていったのか。
「……どっちでもいいか」
小さく肩をすくめる。
そんな順番は、たぶんどうでもいい。
今こうして、二人がそこにいることのほうが、ずっと大事だ。
ふと、ルティがこちらに気づいて顔を上げる。
視線が合う。
「……」
にこ、と少し照れたように笑う。
その笑顔には、もうあの頃の怯えはほとんど残っていない。
「……はいはい」
ミーナは軽く手を振る。
「いい顔するじゃない」
その笑顔を見た瞬間。
ミーナの中で、ひとつの確信が静かに形になる。
あの子は、もう大丈夫だ。
そして——
たぶん、あの人も。
カップを傾けて、中身を一口飲む。
さっきよりも少しだけ冷めていたけれど。
それでも。
胸の奥に広がるものは、確かにあたたかかった。




