第35話 連れて行かせない
白樺亭の中は、静まり返っていた。
ついさっきまで響いていた皿の音も、人の話し声も、今はどこか遠い。
誰もが、入口に立つ旅人を見ている。
けれど。
視線を向けているはずなのに、うまく輪郭を掴めない。
そこにいる。
確かにいる。
それなのに、意識が滑る。
「……」
ルティだけが、まっすぐ相手を見ていた。
胸の奥が、ざわざわする。
嫌な感じ。
でも、それだけじゃない。
引っ張られる。
どこか、深い場所へ。
「……っ」
無意識に、指先を握る。
黒い痣が、じわりと熱を持った。
「……」
旅人の目が、そこへ落ちる。
ほんの一瞬。
その視線だけで、空気が冷えた気がした。
「……やはり」
静かな声。
男とも女ともつかない、妙に柔らかい響き。
「順調に進んでいますね」
「……」
ルティは、意味が分からない。
けれど。
その言葉は、聞きたくなかった。
「……おい」
低い声が割って入る。
バルドだった。
カウンターの奥から出てくる。
ゆっくりと。
だが、その目は笑っていない。
「誰だ、お前」
旅人は、ゆるやかに視線を向ける。
「通りすがりですよ」
「……そんな空気じゃねえな」
短く返す。
その瞬間。
店の空気が、わずかに張った。
常連たちも、無意識に立ち位置を変えている。
リックは出口側へ回り込み。
オットーは黙ったまま、ルティと旅人の間へ半歩出る。
ミーシャは、ミコをそっと後ろへ引いた。
誰も相談していない。
でも。
自然に動いていた。
「……」
旅人が、その様子を見る。
わずかに、目が細くなる。
「守るのですか」
「当たり前だろ」
バルドが即答する。
迷いはなかった。
「ここにいるガキだ」
「……」
旅人は、静かに首を傾ける。
不思議そうに。
本当に理解できないものを見るみたいに。
「不思議ですね」
ぽつりと言う。
「その子は、すでに境界へ触れている」
「……」
「人ではなくなり始めているのに」
空気が、止まる。
ミーシャが、小さく息をのんだ。
リックの顔が引きつる。
「……てめえ」
バルドの声が、低く沈む。
「今、なんつった」
旅人は、穏やかなままだった。
「事実です」
「その痣は、境界病の初期段階でしょう」
視線が、ルティの手へ落ちる。
「閉じるたびに進行する」
「境界へ近づくたび、身体が向こう側へ馴染んでいく」
「完全に定着すれば――」
「やめろ」
鋭い声。
ガイルだった。
いつの間にか、店の奥に立っている。
空気が変わる。
今までとは違う。
静かな怒気。
「それ以上喋るな」
旅人は、少しだけ口元を緩めた。
「あなたも知っているはずだ」
「止められない」
「……」
ガイルは答えない。
代わりに、一歩前へ出る。
「帰れ」
短い言葉。
だが、その場の空気を押し返すほど重い。
「ここは開かせない」
旅人は、しばらく黙っていた。
それから。
「……遅いのですよ」
静かに言った。
その瞬間。
ルティの視界が、ぶれる。
「……!」
床。
壁。
窓。
全部が、一瞬だけズレた。
空間が重なる。
白樺亭の向こうに、別の景色が見える。
暗い。
深い。
知らない場所。
「……っ」
ルティの呼吸が止まる。
旅人の声が、近くなる。
「聞こえるでしょう」
「向こう側が」
「あなたは、もう繋がっている」
「やめろ!」
バルドが怒鳴る。
その声で、ルティがはっと顔を上げた。
「……」
バルドが、前に立っている。
完全に。
ルティを庇う位置に。
「うちのガキに、変なこと吹き込むな」
低い声。
怒っている。
はっきりと。
「……」
旅人が、初めてわずかに沈黙した。
理解できないものを見るように。
「なぜ、そこまで」
小さく問う。
「ただの子どもでしょう」
「……」
バルドは、鼻で笑った。
「だからだろ」
ぶっきらぼうに言う。
「子どもが怖がってんなら、大人が前に出るんだよ」
「……」
その言葉で。
空気が、少し変わる。
ミーシャが、ゆっくり立ち上がる。
まだ顔色は悪い。
それでも。
「……そうよ」
小さく言う。
「ルティちゃんは、うちの子みたいなもんだし」
「……」
リックも、ぎこちなく頷く。
「まあ……放っとけねえよな」
オットーは何も言わない。
でも。
無言のまま、さらに半歩前へ出た。
「……」
旅人が、静かに周囲を見る。
そして。
初めて、少しだけ目を細めた。
「なるほど」
ぽつりと言う。
「だから、中心になった」
意味の分からない言葉。
けれど。
ガイルだけは、表情を変えた。
「……気づいたか」
低く、つぶやく。
旅人は、再びルティを見る。
「あなたは、ひとりでは開かなかった」
「……」
「人に繋がったから、ここまで来た」
ルティは、じっと相手を見る。
怖い。
でも。
「……」
後ろが、あたたかい。
バルドがいる。
ミーシャがいる。
ミコがいる。
白樺亭のみんながいる。
「……」
小さく、息を吸う。
それから。
「……いかない」
はっきりと言った。
旅人の目が、わずかに止まる。
「……ここにいる」
その瞬間。
ルティの指先の黒い痣が、ほんの少しだけ薄くなった。




