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境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


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第36話 ここにいる理由


白樺亭の中には、まだ静かな緊張が残っていた。


旅人は、もういない。


扉は閉じられ、昼の光だけが窓からやわらかく差し込んでいる。


外では、人が歩き、荷車が通り、いつもの町の音が聞こえていた。


まるで、何事もなかったかのように。


けれど。


店の中だけは、少し違う。


倒れた椅子。

端の欠けた皿。

乱れた空気。


そして、誰もが抱えたまま飲み込めずにいる“違和感”。


それが、確かに残っていた。


「……」


ルティは、自分の手を見ていた。


指先。


黒い痣。


さっきまで、じわじわと広がっていたそれは、今は少しだけ薄くなっている。


完全には消えていない。


でも、違う。


確かに、さっきより軽い。


「……」


小さく、指を握る。


まだ少し熱い。


皮膚の奥に、何かが残っている感覚もある。


けれど。


あの旅人が近づいたときみたいな、強く引っ張られる感じは弱くなっていた。


「……なんで」


ぽつりと、つぶやく。


自分でも分からない。


何か特別なことをしたわけじゃない。


ただ。


「……ここにいる」


そう言っただけだった。


「おい」


バルドの声が飛ぶ。


ぶっきらぼうな、いつもの声。


けれど、どこか少しだけ硬い。


「突っ立ってねえで座れ」


「……うん」


ルティは、小さく返事をする。


言われた通り、近くの椅子へ座った。


その瞬間。


ことん、と目の前にカップが置かれる。


湯気が、ふわりと立ち上がった。


「……のむ?」


ミーシャだった。


まだ少し顔色は悪い。


けれど、無理にでもいつも通りにしようとしているのが分かる。


「甘くしてあるから」


「……」


ルティは、カップをじっと見る。


それから、両手で持って、そっと口をつけた。


あたたかい。


少しだけ、とろりとしている。


「……あまい」


小さく言う。


「でしょ?」


ミーシャが、ほっとしたように笑う。


「疲れたときは、甘いの飲むと少し楽になるのよ」


「……」


ルティは、もう一口飲む。


よく分からない。


でも、少し落ち着く。


「……」


その様子を見ていたミーシャが、ふっと息を吐く。


「……よかった」


本当に小さな声だった。


「……」


ルティは、顔を上げる。


意味は全部分からない。


でも。


その声のやわらかさだけは、ちゃんと伝わった。



店の奥では、常連たちが小声で話している。


「……見えたか?」


「いや……見えてねえ」


「でも、あったよな」


「……ああ」


誰も、うまく説明できない。


何が起きていたのか。


あれが何だったのか。


まるで分からない。


それでも。


“普通じゃなかった”。


それだけは、全員が理解していた。


リックが、乱れた椅子を立て直しながら顔をしかめる。


「なんなんだよ、あれ……」


「知らねえよ」


隣の男が答える。


「でもよ」


そこで、ちらりとルティを見る。


小さな背中。


湯気の立つカップを持っている。


いつもの、ぼんやりした顔。


それなのに。


「……あの子、止めたんだよな」


その言葉に、誰も否定しなかった。


店の空気が、少しだけ静かになる。


「……」


リックが、頭をかく。


「正直、まだ信じられねえ」


「……」


「でも」


小さく息を吐く。


「助かったのは、本当だ」


その言葉に、オットーが静かに目を閉じた。


無言のまま、うなずく。



少し離れた壁際で。


ガイルが、静かにもたれていた。


腕を組み、目を細めている。


視線は、ルティの手。


黒い痣。


「……」


確かに薄くなっている。


あれほど急速に侵食していた境界病が、戻った。


普通なら、ありえない。


境界病とは、本来“侵食”だ。


向こう側へ近づいた者が、少しずつ人間側からズレていく現象。


一度進めば、戻らない。


少なくとも、ガイルの知る限りでは。


「……」


静かに、目を閉じる。


昔、同じ痣を見たことがある。


助からなかった者たち。


戻れなかった者たち。


境界へ引かれ、そのまま消えていった者たち。


「……」


だが。


あの子は違う。


「……押し返しているのか」


低く、つぶやく。


しかも無意識に。


人へ繋がることで。


向こう側へ引かれながら、それでもこちらへ戻ろうとしている。


そんな例は、聞いたことがなかった。



そのとき。


「……ガイル」


小さな声。


ミコだった。


いつの間にか、すぐ近くまで来ている。


「……なんだ」


ガイルが視線を向ける。


ミコは、少しだけ迷う。


それから、小さな声で聞いた。


「……ルティ、だいじょうぶ?」


「……」


ガイルは、すぐには答えなかった。


視線をルティへ向ける。


ミーシャと話している。


その横で、バルドが険しい顔のまま皿を片付けている。


リックは割れた皿を集めている。


誰も帰っていない。


誰も、ルティを遠ざけていない。


「……」


ガイルは、小さく息を吐いた。


「分からん」


正直に答える。


「だが」


そこで、少しだけ目を細める。


「……ひとりでいるよりは、ずっといい」


ミコは、その言葉を聞いて静かにルティを見る。


それから、小さくうなずいた。


「……うん」



その頃。


町の外れ。


人通りの少ない細い路地。


「……」


旅人は、静かに立っていた。


フードの奥に隠れた顔は、まだ見えない。


けれど。


その口元だけが、わずかに歪んでいる。


「……予想以上ですね」


低い声。


誰へ向けたものでもない。


「境界へ引かれながら、人側へ戻るとは」


普通なら、ありえない。


侵食は戻らない。


それが理だった。


だが。


「あれは、“繋がり”を核にしている」


ぽつりと、つぶやく。


「……だから、崩れない」


静かな沈黙。


そのあと。


旅人の後ろで、空気がわずかに揺れた。


「……観測は終わったか」


別の声。


低く、冷たい。


「……ええ」


旅人は振り返らない。


「確信できました」


「彼女は、鍵ではない」


「……」


「境界そのものを、“選び直している”」


その瞬間。


空気が、ぴたりと止まる。


「……そんなことが可能か」


「本来なら、不可能でしょう」


旅人は、静かに笑った。


「ですが――」


ゆっくりと、白樺亭の方角を見る。


「だからこそ、価値がある」



白樺亭。


「……」


ルティは、カップを持ったまま窓の外を見ていた。


遠く。


何かが、動いた気がした。


「……?」


小さく首をかしげる。


でも。


今はもう、あの冷たい感覚は近くない。


代わりに。


後ろから、声が飛ぶ。


「ルティ!」


バルドだった。


「パン焦げるぞ!!」


「……!」


ルティの目が少し開く。


慌てて立ち上がる。


「……いく!」


ぱたぱた、と小さな足音が響く。


その姿を見て。


ミーシャが、くすっと笑った。


「ほんと、普通の子よね」


「……」


ガイルは、何も言わなかった。


ただ。


ほんの少しだけ。


目を細めていた。

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