第33話 境界の呼吸 【挿絵あり】
夜は、深く静まり返っていた。
白樺亭の灯りも、もうほとんど落ちている。
遅くまで飲んでいた客たちの声も消え、通りを歩く人影も、今はほとんどない。
町全体が、ゆっくりと眠りへ沈み始めていた。
けれど。
その静けさの中でも、止まっていないものがある。
人には見えない場所で。
音もなく、確実に。
何かが動いている。
森。
白樺亭から離れた、木々の深い場所。
夜風が、葉をかすかに揺らしている。
その闇の中を、ひとつの影が静かに進んでいた。
足音は、ほとんどしない。
枝を踏む音もない。
夜そのものが形を持って歩いているみたいに。
自然に闇へと溶け込んでいる。
「……」
リオンだ。
藍色を帯びた黒髪が、風にわずかに揺れる。
整った横顔は、月明かりの中でも静かだった。
だが、その金色の目だけが、鋭く周囲を見ている。
一瞬たりとも、気配を逃さないとでも言うように。
「……」
やがて、足が止まる。
視線が、森の奥へ向いた。
教会のある方向。
「……濃いな」
低く、つぶやく。
空気が違う。
以前とは比べものにならないほど、境界が近い。
見えない膜が、何層も重なり始めている。
普通の人間なら、何も感じない。
ただ“寒い”とか、“気味が悪い”とか、その程度で終わる。
けれど。
リオンには分かる。
今、この森は。
向こう側へ引かれ始めている。
「……」
ゆっくりと右手を上げる。
指先が、空間へ触れる。
その瞬間だった。
――じわり。
夜の闇の中に、淡い線が浮かび上がる。
円。
幾重にも重なった紋様。
人の世界には存在しないはずの“境界線”。
「……」
リオンの目が、細くなる。
「……完全に繋がり始めている」
静かな断定だった。
冗談でも、予測でもない。
確信。
「……」
その中心にある気配を探る。
小さい。
まだ弱い。
けれど。
確実に、“向こう”へ届いている。
その感覚に触れた瞬間。
リオンの表情が、ほんのわずかだけ変わった。
「……ルティ」
ぽつりと、名前を口にする。
誰もいない夜の森で。
静かに。
まるで、自分自身へ確認するみたいに。
「……来ると思ってた」
少し離れた場所から、声がした。
岩の上。
長い外套を羽織った女が、足を組んで座っている。
灰色の瞳。
ガイルと話していた、あの女だった。
「……」
リオンは、振り返らない。
気づいていた。
最初から。
「……お前も感じているだろう」
短く言う。
女は、小さく肩をすくめた。
「ええ」
ため息混じりに答える。
「気づきたくなくてもね」
その声には、普段の軽さが少しだけなかった。
冗談で済ませられる段階ではない。
もう、そこを越えている。
「……」
短い沈黙が落ちる。
森の空気が、わずかに重い。
「……境界病の進行が早すぎる」
女が、真剣な顔で言う。
「普通なら、あそこまで一気に繋がらない」
昼間、ルティの指先に浮かんだ黒い痣。
あれは、初期段階としても異常だった。
しかも。
本人が、自力で境界を押し返している。
そんな例は、聞いたことがない。
「普通ではないからだ」
リオンが即答する。
その声には、一切の迷いがない。
「……」
女は、わずかに眉を寄せた。
聞きたくない答えが、そこに含まれている気がした。
「……やっぱり、“核”なの」
その問いに。
リオンは、すぐには答えなかった。
ただ、静かに森の奥を見る。
教会の方向。
もっと深い場所。
「……まだ断定はできない」
低い声。
「だが」
そこで、わずかに目を伏せる。
「向こうが、あの子を見つける速度が異常だ」
その言葉で、女の顔から軽さが完全に消えた。
「……最悪ね」
小さくつぶやく。
「まだ始まったばかりなのに」
「だから厄介なんだ」
リオンが言う。
「……」
女は、息を吐く。
頭を抱えたくなる。
だが、現実は変わらない。
⸻
「……ねえ」
しばらくして、女が静かに口を開く。
「本当に、守り切れると思ってる?」
その問いに。
夜風が、森を抜けた。
木々が揺れる。
葉の擦れる音だけが、小さく響く。
「……」
リオンは、長く黙っていた。
視線は動かない。
教会の方向を見たまま。
それから。
「守る」
低く言う。
迷いなく。
「それしかない」
その声は、静かだった。
けれど、絶対に折れない硬さがあった。
「……」
女は、その横顔を見る。
昔から変わらない。
不器用で。
抱え込んで。
壊れる寸前まで止まらない男。
「……ほんと、不器用」
小さくつぶやく。
リオンは答えない。
肯定もしない。
ただ、黙っている。
⸻
その瞬間だった。
「――!」
空気が、揺れた。
森の奥。
教会の方向。
「……っ」
女の顔が変わる。
「今の……!」
リオンが、一歩前へ出る。
空気を探る。
気配を読む。
「……」
ほんの一瞬だけ。
裂け目が開いた。
だが、すぐ閉じた。
小さい。
けれど。
明確な“呼吸”だった。
境界が、こちらを覗いている。
「……向こう側が、探り始めたな」
リオンの声が、さらに低くなる。
「……早すぎるでしょ」
女の声にも緊張が混じる。
「まだ子どもなのよ、あの子」
「だからだ」
リオンが言う。
「境界は、“柔らかい器”を好む」
その言葉に。
女が、言葉を失った。
聞きたくなかった。
理解したくなかった。
だが。
否定もできない。
⸻
リオンは、ゆっくりと目を閉じる。
思い出す。
草原。
小さな手。
光を見て笑っていた幼い少女。
まだ何も知らなかった頃。
ただ、綺麗だと思って笑っていた。
「……」
その記憶が、一瞬だけ揺れる。
胸の奥が、わずかに軋む。
「……遅すぎたか」
誰にも聞こえないほど小さな声。
珍しく。
はっきりとした後悔だった。
「……リオン」
女が、その声に反応する。
だが。
リオンは、もういつもの顔へ戻っていた。
感情を押し込めるみたいに。
静かに。
「……白樺亭の周囲を見張れ」
低く命じる。
「単独行動をする奴が出る」
「……ガイル?」
「いや」
リオンの金色の目が、静かに細まる。
「ルティだ」
「……」
女が、息を止める。
「……あの子、自分で動くつもりなの?」
「もう動き始めている」
即答だった。
「自覚がないだけだ」
その言葉には、妙な確信があった。
リオンは分かっている。
ルティは、誰かに言われたから動く子ではない。
自分で見て。
自分で感じて。
自分で決めてしまう。
だから危うい。
そして。
だからこそ、止められない。
⸻
風が吹く。
森が揺れる。
その奥で。
ほんの一瞬だけ。
“何か”が笑った気がした。
「……」
リオンの目が、ゆっくりと開く。
金色の瞳が、夜の奥を射抜く。
その視線は、冷たい。
まるで獣だった。
「……来るなら来い」
静かな声。
けれど。
その奥には、凍るような殺気があった。
「今度は、渡さない」
夜の森が、静かに軋んだ。




