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境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


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第32話 ガイル、久しぶり

「久しぶりね、ガイル」


その声が落ちた瞬間。


白樺亭の空気が、静かに張り詰めた。


「……」


誰も動かない。


ミーシャも。

リックも。

バルドでさえ、無意識に息を止めていた。


ただひとり。


ガイルだけが、女を見ている。


「……来るのが早いな」


低い声だった。


歓迎の色はない。


女は、肩をすくめる。


「そっちが派手にやりすぎたのよ」


「境界を二度も開けば、嫌でも気づく」


「……」


その言葉に、店の空気がわずかに重くなる。


バルドが、ゆっくり眉をひそめた。


「おい」


低い声。


「誰だ、お前」


女は、その問いにすぐには答えなかった。


代わりに、店の中をゆっくり見回す。


割れた床。

削れた机。

まだ消え切っていない、“昨日”の痕跡。


そして。


その視線が、ルティで止まる。


「――」


ルティの肩が、小さく震えた。


見える。


女の周囲だけ、空気が揺れている。


薄い霧みたいな黒。


昨日感じたものと、よく似た気配。


「……っ」


左手の痣が、じわりと熱を持つ。


その瞬間。


女の目が細くなった。


「……へえ」


ほんの小さな声。


けれど、その反応だけで十分だった。


ガイルの声が、鋭く落ちる。


「その子を見るな」


空気が、ぴり、と鳴る。


女は数秒だけ黙っていた。


それから、小さく息を吐く。


「……相変わらず過保護」


「違う」


「じゃあ何?」


「巻き込みたくないだけだ」


その返答に。


女の笑みが、ほんの少しだけ消えた。


「……もう巻き込まれてるわ」


静かな断言だった。


「その痣、まだ残ってるんでしょう」


「……」


ルティが、反射的に左手を隠す。


女は、その様子を見ながらゆっくり言った。


「境界へ深く触れた者は、“向こう側”に覚えられる」


「一度繋がったものは、簡単には切れない」


ミーシャが、小さく息をのむ。


リックの顔からも、笑みが消えていた。


「……待てよ」


かろうじて軽く言おうとした声が、少しだけ震える。


「それって、どういう意味だ」


女は、静かにルティを見る。


「放っておけば、境界は近づいてくる」


「音が聞こえるようになる」


「気配を見るようになる」


「そして最後には――」


「やめろ」


ガイルが遮った。


短い言葉だった。


けれど、それ以上言わせない圧があった。


「……」


数秒の沈黙。


やがて女は、視線を外す。


「……まあいいわ」


それ以上は続けなかった。


だが。


白樺亭の空気は、もう完全に変わってしまっていた。


昨日までの日常には、戻れない。


誰もが、それを感じている。


「……今日は泊めてもらうわ」


女が静かに言う。


「話は明日にしましょう」


「……」


バルドは露骨に嫌そうな顔をした。


けれど、ガイルは止めない。


その時点で、断れない相手なのだと分かる。


「……勝手にしろ」


ぶっきらぼうに返す。


女は、小さく笑った。


その笑みの意味を、ルティだけが少し怖いと思った。


翌朝。


朝の白樺亭には、いつも通りの匂いが広がっていた。


焼きたてのパンの香ばしい匂い。


煮込みの湯気に混じる、やわらかな野菜の甘い香り。


磨かれた木の机と床に染みついた、長い時間のぬくもり。


窓から差し込む朝の光も、開け放たれた扉から入り込む風も、何ひとつ変わっていない。


客の声が聞こえる。


椅子を引く音がする。


皿の触れ合う音が、小さく重なる。


表面だけ見れば、昨日までと同じ朝だった。


けれど。


「……」


店の空気は、どこか静かだった。


誰も、昨日のことを口にはしない。


だが、忘れてもいない。


白樺亭の中にいた全員が、あの瞬間を覚えている。


床に現れた円。


空気の歪み。


見えないはずなのに、確かにそこに“いた”何か。


そして。


ルティが、向こう側へ引き込まれていった光景を。




夜も更けて。


白樺亭の灯りが、一つ、また一つと落ちていく。


静かになった廊下を。


ひとつの影が、ゆっくり歩いていた。


灰色の外套。


音を立てない足取り。


「あら」


女が、小さく目を細める。


廊下の先。


壁にもたれたまま、ガイルが立っていた。


「……やっぱり起きてた」


「お前こそ、どこへ行く」


低い声。


女は、小さく肩をすくめる。


「少し、確認をね」


「……」


数秒の沈黙。


ガイルは止めない。


止める意味がないと知っているみたいに。


「……森か」


女は、答えない。


ただ。


「勘は鈍ってないみたいね」


小さく笑う。


そのまま、横を通り過ぎる。


白樺亭の扉が、静かに閉まった。


ガイルだけが、暗い廊下に残る。


「……」


小さく、息を吐く。


その目だけが、静かに険しかった。


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