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境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


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第31話 残る痕

朝の白樺亭には、いつも通りの匂いが広がっていた。


焼きたてのパンの香ばしい匂い。


煮込みの湯気に混じる、やわらかな野菜の甘い香り。


磨かれた木の机と床に染みついた、長い時間のぬくもり。


窓から差し込む朝の光も、開け放たれた扉から入り込む風も、何ひとつ変わっていない。


客の声が聞こえる。


椅子を引く音がする。


皿の触れ合う音が、小さく重なる。


表面だけ見れば、昨日までと同じ朝だった。


けれど。


「……」


店の空気は、どこか静かだった。


誰も、昨日のことを口にはしない。


だが、忘れてもいない。


白樺亭の中にいた全員が、あの瞬間を覚えている。


床に現れた円。


空気の歪み。


見えないはずなのに、確かにそこに“いた”何か。


そして。


ルティが、向こう側へ引き込まれていった光景を。


「……」


ミーシャが、パン籠を運びながら小さく息を吐く。


明るく振る舞おうとしているのは分かる。


けれど、少しだけ無理をしているのも見えていた。


「……」


リックも、今日は妙に静かだった。


いつもなら朝から余計なことを喋ってバルドに怒鳴られているのに、今日は何度も店の奥や窓の外を気にしている。


オットーに至っては、最初からほとんど口を開いていない。


その重さの中心にいるのは――


「……」


ルティだった。


いつものようにエプロンをつけている。


いつものようにパンを運び、皿を並べている。


それでも。


どこか違う。


動きが少し遅い。


視線が、ときどき空中で止まる。


何もない場所を、無意識に見つめている。


「おい、ルティ」


バルドの声が飛ぶ。


「ぼーっとすんな。焦がすぞ」


「……」


ルティは、はっと顔を上げた。


目の前。


焼きかけのパンから、少しだけ煙が立ち上っている。


「……っ」


慌てて引く。


「……ごめん」


小さな声。


その場が、ほんの少し静かになる。


「珍しいな」


リックが、苦笑まじりに言う。


「お前が失敗するの」


「……」


ルティは、答えない。


ただ、少しだけ視線を落とす。


「……」


左手を見る。


そこには、まだ黒い痣が残っていた。


指先から手首へ向かって伸びていた黒い線。


昨日よりは薄くなっている。


けれど、消えてはいない。


皮膚の下に、黒い何かが静かに沈んでいる。


「……」


その痣を見た瞬間。


昨日の感覚が蘇る。


暗かった。


冷たかった。


どこまでも落ちていくみたいだった。


帰れなくなると思った。


「……」


その時。


「なあ」


リックが、無理やり明るい声を出す。


「考えすぎなんじゃねえの?」


「昨日のアレで、みんな変になってるだけだろ」


「……」


誰も、すぐには答えなかった。


ミーシャが、自分の腕をさする。


「……でも」


小さく言う。


「私、昨日から変な夢見るの」


「夢?」


リックが眉をひそめる。


「……暗いところに立ってる夢」


「誰かいる気がするのに、顔が見えなくて……」


その言葉に、空気が少しだけ重くなる。


オットーが、ゆっくりと顔を上げた。


「……俺もだ」


低い声。


珍しく、自分から話した。


「……」


リックの顔から、少しずつ笑みが消えていく。


「……おい、やめろよ」


「そういうの」


軽口のつもりだった。


でも、声が少し硬い。


「……」


その時だった。


「……よんでた」


ぽつりと。


ルティが言った。


全員の視線が向く。


「……?」


バルドが、ゆっくり聞き返す。


「何がだ」


「……おと」


ルティは、小さく答える。


「……へんな、おと」


「……」


「……よんでた」


空気が、静まり返る。


ガイルだけが、静かに目を細めていた。


「……始まったか」


誰にも聞こえないほど小さな声。


「おい」


バルドが低く言う。


「説明しろ」


「……」


ガイルは、少しだけ黙る。


それから、ルティの手を見る。


黒い痣。


「……境界へ深く触れた者は、呼ばれることがある」


静かな声だった。


「境界は、一度繋がると終わりではない」


「傷のように残る」


「……」


ミーシャが、息を飲む。


「それって……」


「昨日の人みたいになるってこと?」


ガイルは、否定しなかった。


「……完全に飲まれればな」


「……っ」


リックの顔色が変わる。


「おいおい待てよ」


「そんな簡単に言うなって」


「……」


ガイルは動じない。


「本来なら、痕は消える」


「境界を閉じ、向こう側との繋がりを断てばな」


「……本来なら?」


バルドが聞き返す。


「……」


ガイルは、少しだけ視線を落とす。


「向こう側へ深く入りすぎた者は、戻り切れないことがある」


「身体は戻っても、感覚だけが向こうへ引かれる」


「音が聞こえる」


「気配を感じる」


「境界が近づく」


「そして最後には――」


そこで、言葉が止まる。


誰も続きを聞かなかった。


聞かなくても分かってしまったからだ。


「……」


ルティは、自分の手を見ている。


痣。


黒い線。


まだ、残っている。


「……」


怖い。


……のかもしれない。


でも、それ以上に。


昨日、帰りたいと思ったことを覚えている。


白樺亭へ。


みんなのところへ。


「あったかい」と思った。


「……」


その時だった。


からん。


入口のベルが、小さく鳴った。


全員の視線が、そちらへ向く。


扉の前。


ひとりの女が立っていた。


長い灰色の外套。


旅装。


帽子を深く被っている。


細身だが、立ち方に妙に隙がない。


「……宿、空いてる?」


静かな声だった。


知らない女。


でも。


「……」


ルティの目が、ゆっくり開く。


見える。


女の周囲だけ。


空気が、少し揺れている。


薄い霧みたいなものが、身体の周りにまとわりついている。


境界の気配。


向こう側の匂い。


「……」


ルティの手が、無意識に小さく震える。


ガイルの表情が、変わった。


ほんのわずかに。


だが、明確に。


険しくなる。


「……お前」


低い声。


女が、ゆっくりと顔を上げる。


帽子の影の奥。


口元だけが、わずかに笑った。


「久しぶりね、ガイル」


その瞬間。


白樺亭の空気が、静かに張り詰めた。


そして。


ルティには見えていた。


女の足元に。


床へ滲むみたいに揺れている、細く黒い線を。

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