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境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


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第30話 帰りたい場所

白樺亭の中には、張り詰めた沈黙が重く落ちていた。


ついさっきまで響いていた怒鳴り声も、皿の割れる音も、人のざわめきも、今はもう消えている。


誰も動かなかった。


いや――動けなかった。


「……ルティ」


バルドの声だけが、低く響く。


その声には、今まで見せたことのない焦りが混じっていた。


ルティは、男に触れたまま動かない。


小さな身体が、その場で静かに止まっている。


目は閉じられ、呼吸は浅く、肩すらほとんど動いていない。


まるで、そのまま眠ってしまったみたいだった。


けれど。


「……っ」


ミーシャが、小さく息を飲む。


震える指が、ルティの手を指していた。


「それ……」


黒い痣。


最初は指先だけだったものが、今はゆっくりと手首へ向かって広がっている。


細い蔦のように。


黒い線が、皮膚の下を静かに這っていく。


じわり。


じわりと。


生き物みたいに。


「おい……!」


バルドの顔色が変わる。


反射的に、ルティへ手を伸ばしかけ――


「触るな」


ガイルの声が、それを止めた。


鋭かった。


今までで、一番強い声だった。


「今引けば、向こう側で崩れる」


「……っ!」


バルドの手が止まる。


歯を食いしばる。


「じゃあどうしろってんだ!」


怒鳴る。


焦りを隠せない。


「このまま見てろってのか!」


「……」


ガイルは、答えない。


答えられない。


その沈黙が、余計に空気を重くした。


ミーシャが、ぎゅっと自分の腕を抱き締める。


リックも、言葉を失っていた。


誰も、こんなものを知らない。


どうすればいいのかも分からない。


ただ、小さな子どもの身体に、得体の知れないものが広がっていく光景だけが、そこにあった。


「……」


その時だった。


「あ……」


小さく、リックが声を漏らす。


全員の視線が動く。


男だった。


黒く揺れていた輪郭が、少しずつ戻っている。


煙みたいだった影が、静かに薄れていく。


荒かった呼吸も、少しずつ落ち着き始めている。


さっきまで壊れかけていた顔色に、わずかに血の気が戻っていた。


「戻ってる……」


ミーシャが、呆然とつぶやく。


「……」


ガイルの目が、静かに細められる。


やはりだ。


ルティが、向こう側へ引き込まれたことで。


男が、こちらへ戻されている。


「……っ」


バルドが、歯を食いしばる。


意味なんか分からない。


理屈も知らない。


境界だとか、向こう側だとか、そんな話は今でも信じ切れていない。


それでも。


あの小さな子どもが。


誰かを戻すために、ひとりで暗闇へ落ちていっている。


それだけは、嫌でも分かってしまった。


「……ルティ」


低く、名前を呼ぶ。


返事はない。



暗い。


静かだった。


音がない。


風もない。


どこまでも、冷たい。


「……」


ルティは、ゆっくりと瞬きをした。


自分がどこにいるのか、分からない。


黒い。


下も、上も、遠くも近くもない。


ただ、暗い。


境目すら分からない。


「……」


少しだけ、胸が苦しい。


寒い。


ひとり。


「……」


男は、少し前にいた。


膝を抱えて座り込んでいる。


でも。


さっきより、少しだけ輪郭が戻っていた。


崩れかけていた身体が、ゆっくり形を取り戻している。


「……」


ルティは、ゆっくり近づく。


足音はない。


でも、歩ける。


「……かえる」


もう一度、言う。


男が、ゆっくり顔を上げる。


目は、まだ暗い。


でも。


少しだけ、人の目に戻っていた。


「……帰れない」


掠れた声。


「もう……どっちか、分からない」


「……?」


ルティは、少し首をかしげる。


難しいことは分からない。


でも。


「……だめ」


小さく言った。


「……みんな、いる」


「……」


男の目が、わずかに揺れる。


「……しろいへや」


白樺亭。


「……ぱん、ある」


「……」


「……あったかい」


その瞬間。


暗闇が、少しだけ揺れた。


「……」


ルティが、ゆっくり振り返る。


遠く。


本当に遠く。


小さな光が見えた。


あたたかい色。


「……」


パンの匂いがした気がした。


焼きたての、やわらかい匂い。


「……」


誰かの声も聞こえる。


遠く。


かすかに。


「ルティ!!」


バルドだった。


怒鳴るみたいな声。


でも。


震えている。


「戻ってこい!!」


「……」


ルティの目が、少しだけ開く。


帰る。


その言葉が、胸の中へ落ちる。


「……」


今までは、なかった。


どこへ行っても同じだった。


森も。


教会も。


道も。


ただ、その場所にいるだけだった。


でも。


「……」


白樺亭を思い出す。


ミーシャ。


ミコ。


リック。


オットー。


バルド。


パンの匂い。


木の机。


あたたかい声。


怒る声。


笑う声。


「……」


帰りたい。


初めて、そう思った。


「……かえる」


小さく、言う。


その瞬間。


遠くの光が、大きく揺れた。


暗闇に、裂け目みたいに広がっていく。


「……!」


男が、息を飲む。


「お前……」


「……」


ルティは、男へ手を伸ばす。


「……いく」


男の手が、震える。


迷っている。


怖がっている。


でも。


「……」


ルティは、待つ。


急かさない。


ただ、じっと見ている。


「……」


やがて。


男の手が、ゆっくり伸びた。


触れる。


その瞬間。


暗闇が、大きく揺れた。



「――ルティ!!」


白樺亭。


バルドの声が響く。


その瞬間。


「っ!」


ルティの身体が、大きく震えた。


黒い痣が、ぶわりと手首まで広がる。


「ルティ!」


ミーシャが叫ぶ。


次の瞬間。


ルティが、激しく咳き込んだ。


「――っ、げほっ……!」


目が開く。


呼吸が戻る。


空気が、一気に肺へ流れ込む。


「……っ」


バルドが、息を止める。


「……ルティ!」


駆け寄る。


ルティの身体が、ぐらりと揺れる。


倒れる寸前で、バルドが抱き止めた。


「……ぁ……」


ルティは、ぼんやりと瞬きをする。


焦点が、少しずつ戻っていく。


「……」


白樺亭。


みんな、いる。


「……」


小さく、息を吐く。


「……かえった」


掠れた声。


その瞬間。


バルドが、強く抱き寄せた。


「……っ」


乱暴なくらいに。


「馬鹿野郎……!」


低い声。


怒っているみたいなのに。


少し、震えていた。


「……」


ルティは、されるがまま抱えられている。


それから。


小さく、言った。


「……あったかい」


「……っ」


バルドが、一瞬だけ言葉を失う。


ミーシャが、泣きそうな顔で笑った。


リックが、深く息を吐く。


オットーは、静かに目を閉じている。


「……」


ガイルだけが、静かに男を見ていた。


戻ってきた男。


その目は、完全に人のものへ戻っている。


だが。


男は、震えながら、小さくつぶやいた。


「……いた」


「……?」


誰も動かない。


男の顔から、血の気が引いている。


「……向こうに」


震える声。


「……見てた」


空気が、凍る。


「……誰かが」

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