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境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


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第29話 向かう場所

白樺亭の中には、重たい沈黙が落ちていた。


さっきまで聞こえていた皿の音も、人の話し声も、今はほとんど消えている。


残っているのは。


軋むような空気。


冷たさ。


そして。


「……ぁ……」


椅子に座ったまま震えている、あの男だった。


「……」


男の身体の輪郭が、ときどき揺れる。


服の裾が、煙みたいに崩れる。


影が、床へ滲む。


人の形をしているのに。


もう、人だけではない。


「……っ」


ミーシャが、息を飲む。


「……見えてる」


震える声。


昨日より、はっきり。


境界病の影響が深くなっている。


「ミーシャ、下がってろ」


バルドが低く言う。


だが、自分も男から目を離せない。


「……」


男は、苦しそうだった。


黒く染まった目が、ゆっくり動く。


誰かを見ている。


違う。


探している。


「……たす……」


掠れた声が落ちる。


「……」


ルティの指先が、ぴくりと動く。


まだ、いる。


ちゃんと。


向こうに引かれながらも。


まだ、この人はここにいる。


「……」


ガイルが、一歩前へ出る。


空気を読むように、静かに目を細める。


「……深いな」


低く、つぶやく。


「境界を内側に抱え込んでいる」


「助かるのか」


バルドが聞く。


短い声。


だが、その中には焦りが混じっていた。


「……」


ガイルは、すぐには答えない。


その沈黙だけで、十分だった。


「おい」


バルドの声が鋭くなる。


「答えろ」


「……普通なら」


ガイルが、静かに言う。


「もう戻らない」


空気が、凍る。


ミーシャが口元を押さえる。


リックが、言葉を失う。


ミコが、不安そうにルティの服を掴む。


「……」


ルティだけが、男を見ていた。


「……まだ、いる」


小さく言う。


「……」


ガイルの視線が動く。


ルティを見る。


その目は、静かだった。


「……見えるのか」


「……うん」


迷いなく答える。


「……まだ、いる」


「……」


ガイルが、ほんのわずかに目を伏せる。


そして。


「……なら、可能性はある」


低く言った。


「ただし」


その声が、少しだけ重くなる。


「引き戻すなら、お前も境界へ触れることになる」


「……」


バルドの眉が寄る。


「それがどうした」


ガイルは、ルティの左手を見る。


小さな指。


そこに浮かぶ、薄い黒い痣。


昨日より、少しだけ広がっている。


「侵食は進む」


静かな断言。


「深く触れるほど、境界はお前を覚える」


「……」


ミーシャの顔が青ざめる。


「ちょっと待ってよ……」


震える声。


「この子、まだ子供なのよ……?」


「分かっている」


ガイルは短く返す。


「だから止めている」


「なら!」


「だが」


ガイルの声が、それを遮る。


「今、この男を戻せるのはルティだけだ」


沈黙が落ちる。


誰も、すぐには声を出せない。


「……」


ルティは、自分の手を見る。


黒い痣。


冷たい。


でも。


痛くはない。


「……」


ふと。


頭の奥に、ザーラの声がよぎる。


――ひとりじゃないから。


「……」


小さく、息を吸う。


それから。


男を見る。


苦しそうな顔。


崩れていく輪郭。


怖い。


怖いけれど。


「……」


白樺亭を見る。


ミーシャ。

ミコ。

リック。

バルド。


ここは、あったかい。


なくなったら、いやだ。


「……やる」


小さく。


でも、はっきりと言った。


「ルティ!」


バルドが声を荒げる。


「お前――」


「……まだ、いるから」


ルティが言う。


男を見たまま。


「……おいてかない」


その瞬間。


男の影が、大きく揺れた。


「っ!」


床に黒い滲みが広がる。


空気が軋む。


窓ガラスに亀裂が走る。


「来るぞ!」


ガイルが叫ぶ。


同時に。


男の身体から、黒い線が浮かび上がった。


まるで血管みたいに。


全身へ広がっていく。


「……ぁぁ……!」


男が、苦しそうに喉を震わせる。


「……っ」


ルティが駆け出す。


止まらない。


「ルティ!!」


バルドが腕を掴もうとする。


だが。


その瞬間。


「――触るな」


ガイルの声が飛ぶ。


鋭く。


「今、乱せば崩れる!」


「……っ!」


バルドの手が止まる。


ルティは、そのまま男の前へ辿り着く。


黒い影が、ゆらゆらと揺れている。


冷たい。


深い。


底がない。


「……」


怖い。


でも。


「……だいじょうぶ」


小さく言う。


自分に。


相手に。


両方に。


「……もどる」


手を伸ばす。


触れる。


その瞬間。


「――っ!!」


世界が、反転した。


「……!」


ルティの視界が揺れる。


白樺亭が消える。


光が消える。


音も消える。


暗い。


深い。


冷たい。


その中に。


誰かが、沈んでいる。


「……」


男だった。


黒い水の底みたいな場所で。


膝を抱えて、うずくまっている。


「……」


ルティは、ゆっくり歩く。


足音はない。


でも、進める。


「……」


男は、顔を上げない。


「……かえろ」


ルティが言う。


男の肩が、わずかに震える。


「……むりだ」


掠れた声。


「……もう」


「……」


ルティは、少しだけ考える。


難しいことは分からない。


でも。


「……だめ」


小さく言った。


「……ぱん、たべる」


「……」


男の動きが止まる。


「……しろい、へや」


白樺亭のこと。


「……みんな、いる」


「……」


沈黙。


暗闇が、ゆらゆら揺れる。


「……」


ルティが、そっと手を伸ばす。


「……かえる」


その瞬間。


男の黒い輪郭が、わずかに崩れた。


そして。


遠くで。


「ルティ!!」


誰かの声が聞こえた。


バルドだった。

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