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境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


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第27話 あったかい場所

朝の白樺亭には、いつものようにパンの匂いが広がっていた。


焼きたての生地の香りと、あたたかい湯気。

窓から差し込むやわらかな光。

木の机に落ちる、穏やかな影。


昨日までと、同じ朝。


――のはずだった。


「……」


ルティは、カウンターの横に立ったまま、じっと厨房の方を見ていた。


「……?」


首が、少しだけ傾く。


「……どうした」


奥から、バルドの声が飛ぶ。


ルティは、少し考える。


それから。


「……へん」


ぽつりと言った。


「またか」


バルドが、ため息混じりに返す。


だが、その声には前みたいな軽さはなかった。


今はもう、無視できないと知っている。


「今度はなんだ」


「……」


ルティは、ゆっくりと厨房を見る。


「……におい」


「パンだろ」


「……ちがう」


小さく言う。


「……つめたい」


その言葉と同時に。


厨房の奥で、ミーシャの手が止まった。


「……っ」


小さく、息を飲む音。


「……ミーシャ?」


バルドが眉を寄せる。


ミーシャは、焼き上がったパンを見たまま動かない。


「……今」


かすれた声。


「……したよね?」


「何がだ」


「……冷たい匂い」


店の空気が、静かに止まる。


「……」


ルティが、ゆっくりとミーシャを見る。


ミーシャもまた、ルティを見返していた。


「……」


そこには、昨日までなかったものがあった。


“分かってしまった”側の顔。


「……」


バルドが、短く舌打ちする。


「……おいおい」


低くつぶやく。


「冗談じゃねえぞ」



昼前になる頃には、白樺亭にはいつもの常連たちが集まり始めていた。


「おう、嬢ちゃん」


リックが笑いながら手を上げる。


「今日はパン落とすなよ?」


「……」


ルティは、じっと見る。


それから。


「……おとさない」


小さく返した。


「お、言うようになったなあ」


リックが笑う。


その隣では、オットーが静かに酒を飲んでいた。


だが今日は、珍しく視線が動いている。


店の中を、何度も見ている。


「……」


ルティは、その様子を見る。


「……」


分かる。


みんな、少しずつ変わっている。


見えてはいない。


でも。


感じ始めている。


「……」


その時。


扉が開いた。


からん、と小さな音。


「おじちゃーん!」


ミコだった。


いつものように元気に入ってきて――


ぴたり、と止まる。


「……」


顔が、ゆっくりと動く。


床を見る。


店の奥を見る。


それから。


「……きょう、いる」


小さく言った。


空気が、変わる。


「……何がだ」


バルドの声が低くなる。


ミコは、不安そうにルティを見る。


「……わるいの」


「……」


ルティの目が、少しだけ細くなる。


昨日より、はっきり分かる。


店の奥。


壁際。


誰もいないはずの場所。


そこだけ、空気が重い。


「……ある」


ルティが、小さく言う。


その瞬間。


店の隅の椅子が、ひとりでに軋んだ。


ぎし、と。


「……っ」


リックが立ち上がる。


「なんだ今の」


誰も触っていない。


それなのに、椅子だけが揺れている。


「……」


ミーシャが、青ざめた顔で後ずさる。


「……また来てる」


震える声。


昨日の“何か”を、体が覚えてしまっている。


「……」


バルドが、ゆっくり前へ出る。


ルティの前に立つように。


無意識だった。


けれど、完全に庇う動きだった。


「……ガイルはまだか」


低くつぶやく。


その時。


「呼んだか」


入口から声が落ちた。


「……!」


振り向く。


ガイルが立っている。


だが、その表情は昨日までより険しかった。


店に入った瞬間、空気を読んだからだ。


「……早いな」


低く言う。


「もう滲み始めてる」


「滲む?」


バルドが眉を寄せる。


ガイルは答えながら、店の奥を見る。


「境界は、一度開けば終わりじゃない」


静かな声。


「近くにいる者を、少しずつ引く」


その言葉に。


ミーシャの顔が、わずかに強張る。


ミコも、不安そうにルティの袖を掴む。


「……」


ルティは、その小さな手を見る。


あたたかい。


少し、震えている。


「……」


その瞬間。


胸の奥で、何かが変わった。


昨日までとは違う。


“怖い”じゃない。


“逃げたい”でもない。


「……」


ルティは、ゆっくりと顔を上げる。


店を見る。


みんなを見る。


パンの匂い。

木の机。

いつもの声。


好きだと思った。


理由は分からない。


でも。


なくなったら、いやだ。


「……」


小さな手が、ぎゅっと握られる。


ガイルが、その変化に気づく。


視線が、わずかに細くなる。


「……ルティ」


低く呼ぶ。


「無理に触れるな」


警告だった。


境界に近づくほど、侵食は深くなる。


指先の痣は、その証拠だ。


だが。


ルティは、小さく首を振った。


「……まもる」


はっきりと言う。


バルドが、目を見開く。


ミーシャも。

リックも。

ミコも。


みんな、一瞬だけ言葉を失う。


「……」


ルティは、自分の胸の前で、小さく手を握ったまま続ける。


「……ここ、あったかい」


静かな声。


でも。


その言葉は、白樺亭の中に、まっすぐ落ちた。


「……」


バルドが、ゆっくりと息を吐く。


それから。


乱暴な手つきで、ルティの頭をぐしゃぐしゃ撫でた。


「……っ」


ルティが少し揺れる。


「……そうかよ」


ぶっきらぼうな声。


でも。


その目は、少しだけ笑っていた。


「だったら」


バルドが、店の奥を見る。


空気の重い場所を。


「守るしかねえな」


その瞬間。


店の奥で。


“何か”が、ゆっくりと揺れた。

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