第26話 触れられない距離 【挿絵あり】
森へ向かう朝の道は、静かだった。
白樺亭の前を吹き抜ける風はやわらかく、昨日の騒ぎなど最初から存在しなかったかのように、町はいつもの朝を始めている。
店が開く音。
遠くで鳴る荷車の軋み。
パンを焼く匂い。
人の声。
すべてが、昨日までと変わらない。
それなのに。
「……」
ルティだけが、立ち止まっていた。
白樺亭の入口の前。
足は外へ向いている。
もう行くと決めている。
それでも、すぐには歩き出さない。
「……どこ行く」
後ろから、低い声がした。
振り返る。
バルドが、扉にもたれたままこちらを見ている。
眠そうな顔。
ぶっきらぼうな声。
いつも通り。
けれど、その視線だけが少し違った。
「……あそこ」
ルティは、小さく答える。
短い言葉。
だが、迷いはない。
バルドは、ほんの一瞬だけ目を細める。
「……教会か」
「……うん」
「……」
短い沈黙が落ちる。
止めるべきか。
行かせるべきか。
そんなものを、一瞬だけ測るような間。
けれど結局、バルドは小さく息を吐いただけだった。
「……一人で行く気か」
「……うん」
即答だった。
「……」
また、沈黙。
それから。
「……勝手にしろ」
ぶっきらぼうに言う。
「……ただし」
少しだけ声が低くなる。
「戻ってこい」
「……」
ルティは、その言葉を聞いて、小さく目を瞬かせる。
全部は分からない。
でも。
「……うん」
今度は、少しだけはっきりとうなずいた。
バルドは、それ以上何も言わない。
ただ、視線だけで送り出す。
その奥では、ミーシャが心配そうに顔を覗かせ、ミコがじっとルティを見ていた。
「……ルティ」
ミコが、小さく呼ぶ。
「……へんなの、まだいる」
「……うん」
ルティは答える。
「……でも、いく」
ミコは、少しだけ迷うような顔をしたあと、小さくうなずいた。
「……きをつけて」
「……うん」
それだけ交わして、ルティは歩き出す。
町の外へ。
森の方へ。
背中を見送る視線が、いくつもあった。
それでも、振り返らない。
理由は分からない。
ただ、行かなければいけないと思った。
⸻
森へ続く道は、静かだった。
風も弱く、鳥の声も少ない。
歩くたびに、自分の足音だけが小さく響く。
「……」
ルティは、前を見て歩いている。
考えているわけではない。
けれど、止まらない。
胸の奥で、何かが引いている。
あの場所へ。
あの感覚へ。
「……ある」
小さく、つぶやく。
見えなくても分かる。
そこに、まだ繋がっている。
⸻
その少し後ろ。
森の奥。
「……」
ガイルが、静かに木々の間を進んでいた。
姿は見せない。
気配も消している。
だが、視線だけは離さない。
「……」
昨日よりも、濃い。
教会の側の歪みが、確実に強くなっている。
それを、ガイルは感じ取っていた。
「……間に合うか」
低く、誰にも聞こえない声でつぶやく。
答える者はいない。
⸻
さらに、その外側。
もっと遠く。
森の影の中に、もうひとつ気配があった。
「……」
フードを深くかぶった男。
リオン。
静かに、教会の方向を見ている。
「……呼ばれたか」
低い声。
感情は薄い。
けれど、その目だけがわずかに細められる。
「……早いな」
本来なら、もっと後だった。
もっと時間をかけて開くはずだった。
だが。
「あの子が、押し戻した」
その事実が、流れを変えている。
閉じたことで、逆に“向こう側”がルティを認識し始めている。
「……境界が、見返している」
リオンは、静かに目を伏せた。
⸻
やがて、木々の奥に教会が見えてくる。
崩れかけた壁。
ひび割れた石。
静かに佇むその姿は、以前と変わらない。
それなのに。
「……」
ルティは、入口の前で立ち止まる。
空気が違う。
重い。
前よりも、ずっと濃い。
まるで建物そのものが、静かに息をしているみたいだった。
「……」
ゆっくりと中へ入る。
足音が、広い空間に響く。
誰もいないはずの場所。
それでも。
「……」
見える。
床に、線がある。
淡く、しかし確かに。
円の形。
以前よりも、ずっとはっきりと。
まるで、最初からそこに刻まれていたみたいに。
「……」
ルティは、その中心へ向かって歩く。
迷いはない。
止まる理由もない。
一歩。
また一歩。
そして。
円の内側へ足を踏み入れた瞬間。
空気が、変わった。
「――」
音が遠くなる。
光が、ゆっくり歪む。
教会の壁が、少しだけ揺らいで見える。
世界が、重なっている。
「……」
ルティは、静かに顔を上げた。
そこに、いた。
輪郭は曖昧。
光の奥に滲むような姿。
けれど。
分かる。
「……ザーラ」
名前を呼ぶ。
初めて、自分から。
はっきりと。
「……」
空気が、かすかに震えた。
応えるみたいに。
揺らぎの向こうの影が、ゆっくりと近づいてくる。
「……」
声はない。
けれど、伝わる。
そこにいる。
ちゃんと、いる。
「……」
ルティは、一歩近づく。
手を伸ばす。
触れようとする。
けれど。
届かない。
指先は、何もない空気を切るだけだった。
近い。
でも、重ならない。
まるで、薄い水の膜を隔てているみたいに。
「……」
ルティは、少しだけ首をかしげる。
もう一度、手を伸ばす。
やはり、届かない。
「……」
それでも。
「……ここ」
小さく言う。
「……いる」
言葉は少ない。
でも、それで十分だった。
ザーラの輪郭が、少しだけ揺れる。
やわらかく。
安心したみたいに。
「……」
ルティは、その場に立ったまま動かない。
何も聞かない。
どうしてこうなったのかも。
どこにいるのかも。
戻れるのかも。
聞かない。
ただ、そこにいる。
それだけでよかった。
「……」
やがて、ルティはゆっくりと床へ座り込む。
円の中心。
冷たい石の上。
視線を上げる。
そこに、ザーラがいる。
触れられない。
抱きしめられない。
それでも。
「……だいじょうぶ」
ぽつりと、言葉がこぼれる。
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
自分か。
ザーラか。
それとも。
もっと別のものか。
「……」
空気が、やわらかく揺れる。
まるで、微笑むみたいに。
「……」
ルティは、ゆっくりと目を閉じる。
一瞬だけ。
それから、また開く。
「……」
そこに、いる。
変わらない。
消えていない。
けれど。
「……」
輪郭が、少しずつ薄くなっている。
光の向こうへ、溶けていくみたいに。
「……?」
ルティが、小さく瞬く。
その瞬間。
初めて、声が届いた。
かすれるように。
遠くから。
「――ルティ」
「……!」
ルティの目が開く。
「……ザーラ」
揺らぎの向こうで、ザーラが少しだけ笑った気がした。
「……ありがとう」
声が、途切れそうになりながら続く。
「……もう、だいじょうぶ」
「……?」
「……つながりすぎる前に……離れないと」
空気が揺れる。
輪郭が、さらに崩れる。
「……いや」
ルティが、思わず前へ出る。
「……いかないで」
初めてだった。
こんなふうに、引き止めるような声を出したのは。
ザーラの気配が、わずかに震える。
「……ルティ」
やさしい声。
悲しい声。
「……あなたは、もう歩ける」
「……」
「……ひとりじゃない」
その言葉に。
白樺亭のみんなの顔が、一瞬だけルティの頭をよぎる。
バルド。
ミーシャ。
ミコ。
ぎこちなく笑う常連たち。
「……」
ルティの指先が、小さく震える。
黒い痣。
まだ消えていない。
でも。
前より、少しだけ薄い。
「……」
ザーラの輪郭が、崩れていく。
光へ溶けるように。
「……また」
ルティが、小さく言う。
「……うん」
返事は、ほとんど聞こえなかった。
それでも。
確かに、届いた。
次の瞬間。
空気が、大きく揺れる。
光が崩れる。
円が、脈打つ。
「――っ!」
教会全体が軋むように震えた。
外。
森の中で、ガイルが顔を上げる。
「……来る!」
同時に。
遠くでリオンが目を細めた。
「……境界が反応したか」
教会の中。
ルティの足元の円が、今までで最も濃く浮かび上がる。
空気が裂ける音。
光の歪み。
そして。
ザーラの姿が、完全に消える直前。
最後に、ほんのわずかだけ。
やわらかな気配が、ルティの頬に触れた。
風みたいに。
「……」
ルティは、動かない。
ただ、静かに目を閉じる。
それから。
ゆっくりと振り返った。
教会の空気が、変わっている。
今までとは、比べものにならないほど深く。
重く。
近い。
「……」
ルティは、小さく息を吸う。
そして。
「……くる」
はっきりと、そう言った。




