第22話 ひらく
昼の白樺亭は、いつもと変わらない賑わいに包まれていた。
焼きたてのパンの匂いが、やわらかく店の中へ広がっている。
皿の触れ合う音。
誰かの笑い声。
木椅子を引く音。
常連たちの気安い会話が重なり合い、店の空気は、どこまでも“いつもの昼”だった。
「おい、ルティ! こっち追加だ!」
「スープもう一杯!」
「パン焦がすなよ、バルド!」
「うるせえ、焦がしてねえ!」
そんな声が飛び交う。
その中で。
ルティだけが、動かなかった。
「……」
視線は、床へ落ちている。
昨日まで、見えたり消えたりしていた線。
けれど今日は違う。
薄く。
それでも、確かに。
床の上に、円の輪郭が浮かび上がっていた。
「……」
消えない。
目を逸らしても、まだそこにある。
「おい、ルティ」
バルドの声が飛ぶ。
「聞いてんのか」
いつもの調子だった。
だが、その目は昨日までより少し鋭い。
ただぼんやりしているわけではないと、もう気づいている。
「……」
ルティは、返事をしない。
ゆっくりと、一歩前へ出る。
円へ近づく。
「おい」
今度は、少し低い声。
「……」
それでも、止まらない。
円の縁へ足が入る。
その瞬間。
空気が、変わった。
「……っ」
息が、わずかに詰まる。
店の音が遠くなる。
笑い声が、薄く伸びる。
皿の音が、水の中みたいに鈍く響く。
「……」
中心を見る。
何もない。
なのに。
“そこ”だけが深い。
暗い穴みたいに。
空間の奥へ、何かが沈んでいる。
「……ルティ?」
バルドの声が、今度は近い。
警戒が混じっていた。
「……」
ルティは、答えない。
答えられない。
意識が、完全に引っ張られている。
「……」
円の線が、脈を打った。
どくん、と。
生き物みたいに。
「……!」
ルティの目が、わずかに開く。
次の瞬間。
空気が、裂けた。
音はない。
だが。
“重なっていたもの”が、ずれた。
「……っ」
店の中央。
円の中心から、何かが浮かび上がる。
煙のようで。
液体のようで。
影のようでもある。
輪郭が定まらない。
見ているだけで、形が変わる。
それなのに。
“いる”。
はっきりと。
そこに。
「うわっ!?」
近くの常連が椅子ごと後ろへ下がる。
テーブルが揺れる。
皿が床へ落ち、派手な音を立てて割れた。
「な、なんだ今の!?」
「風か!?」
「違う、今なんか通ったぞ!」
店の空気が、一気に崩れる。
ざわめきが広がる。
だが、誰も見えていない。
正確には、“認識できていない”。
ただ、本能だけが異常を感じている。
「……っ」
モリーが、入口近くで息を呑む。
手に持っていた盆が、小さく震えている。
「……何、あれ……」
見えてはいない。
でも、“何かいる”ことだけは分かる。
皮膚が粟立つような感覚。
「バルド……」
小さく名前を呼ぶ。
その声で。
バルドが、ようやく動いた。
「全員下がれ!!」
怒鳴る。
店中が、一瞬静まる。
「テーブルから離れろ!!」
「な、なんだよ!?」
「いいから下がれ!!」
今までにない声だった。
常連たちの顔色が変わる。
冗談じゃない。
本気だ。
「お、おい!」
「ミコ、こっち来い!」
常連の女が、小さな子を抱き寄せる。
椅子が倒れる。
人が下がる。
ざわめきが、恐怖へ変わっていく。
その間にも。
“それ”は、広がろうとしていた。
床から滲み出るみたいに。
店の中へ、ゆっくりと。
「……っ」
ルティだけが、動く。
考えていない。
ただ。
止めなければいけないと分かっている。
「……だめ」
小さく、つぶやく。
“それ”が、揺れる。
「……もどって」
もう一度。
今度は、少し強く。
「……っ」
空気が、反応した。
揺れが止まる。
ほんの一瞬だけ。
「ルティ!!」
バルドが叫ぶ。
だが。
ルティは、もう止まらない。
一歩、踏み込む。
円の中心へ。
「……!」
“それ”が、ルティへ伸びる。
煙みたいな腕。
影みたいな揺らぎ。
触れた瞬間。
冷たい。
熱い。
重い。
全部が同時に流れ込む。
「……っ」
ルティの指先が、震える。
皮膚の上に、薄い黒が浮かぶ。
痣。
侵食。
昨日、リオンが見ていたものと同じ。
「ルティ!!」
今度は、モリーの声だった。
「離れなさい!!」
半分泣きそうな声。
でも。
ルティは、離さない。
「……もどる」
言葉が、強くなる。
「……もどる」
その瞬間。
“それ”が、収縮した。
ぶわ、と広がりかけた影が、逆流する。
円の内側へ。
線の中へ。
押し込まれるように。
「……!」
空気が、軋む。
店の光が、一瞬だけ歪む。
窓ガラスが震える。
皿が鳴る。
そして――
静寂。
「……」
全部、消えた。
そこには、ただの床だけが残っている。
何事もなかったみたいに。
「……」
ルティだけが、その場に立っている。
呼吸が、少し乱れている。
指先が、わずかに黒く染まっていた。
「……ルティ」
バルドが、低く呼ぶ。
ゆっくり近づく。
その顔には、もう昨日までの軽さはない。
“変な子ども”を見る目じゃない。
もっと、深い警戒。
そして。
恐怖に近いもの。
「……今の」
声が、少し掠れる。
「……なんだ」
「……」
ルティは、少しだけ考える。
言葉を探す。
それから。
「……とじた」
小さく、そう言った。
「……」
バルドが、黙る。
周囲の常連たちも、誰も声を出せない。
ミコが、不安そうにルティを見ている。
「……ルティ、おてて……」
小さな声。
その視線で、みんなが気づく。
指先。
薄く浮かぶ、黒い痣。
「……っ」
モリーの顔色が変わる。
「それ……」
無意識に、一歩後ろへ下がる。
だが。
バルドだけは、動かなかった。
「……見せろ」
低く言う。
ルティは、素直に手を出す。
バルドは、その指先を見る。
黒い痣は、ゆっくりと皮膚の下へ滲むみたいに揺れていた。
「……」
空気が、重くなる。
そのとき。
店の扉が、開いた。
風が流れ込む。
「……来たか」
低い声。
ガイルだった。
店の奥を見る。
床を見る。
ルティを見る。
そして。
指先の痣を見た瞬間。
目が、鋭く細められる。
「……触れたな」
静かな声。
「……うん」
ルティが、小さくうなずく。
「……閉じた」
ガイルは、しばらく黙る。
それから。
ゆっくりと息を吐いた。
「……間に合っただけ、ましか」
その声には。
安堵よりも。
もっと重い、別の感情が混じっていた。




