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境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


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第21話 ずれている場所

朝の光は、いつもと変わらず白樺亭の窓からやわらかく差し込んでいた。


木の床に落ちる淡い影も。

壁に反射する金色の光も。


全部、昨日までと同じはずだった。


店の中には、朝特有の静けさが流れている。


まだ客は少ない。


厨房からは、焼き始めたパンの匂いがゆっくりと漂い、水を使う音だけが小さく響いていた。


それなのに。


「……」


ルティは、店の真ん中で立ち止まったまま動かなかった。


「どうした」


奥から、バルドの声が飛ぶ。


「ぼさっとしてると、仕事たまるぞ」


いつも通りの声。


ぶっきらぼうで、少し低い。


けれど。


ルティは振り返らない。


ただ、じっと足元を見ている。


「おい」


今度は少しだけ強く呼ばれる。


その声で、ようやくルティの口が動いた。


「……ここ」


小さな声。


バルドが眉をひそめながら近づいてくる。


「ここがどうした」


「……へん」


短い返事。


それだけしか言えない。


「……」


バルドは床を見る。


何もない。


見慣れた木の床。


毎日踏み続けてきた板が、いつも通り並んでいるだけだった。


「……何もねえぞ」


そう言いながら顔を上げる。


けれど、ルティは動かない。


「……ある」


ぽつりと、言い返した。


そのまま、ゆっくりしゃがみ込む。


小さな指先が、床へ伸びていく。


触れる。


その瞬間。


空気が、ほんのわずかに揺れた。


「……っ」


バルドの眉が動く。


本当にわずかだった。


風とも違う。

熱とも違う。


何かが、一瞬だけ重なったみたいな感覚。


「……ここ」


ルティが、小さく繰り返す。


その目は、何かを見ていた。


「……」


床の上。


木目の向こう側に。


薄く、淡く。


線のようなものが浮かび上がる。


円。


途切れかけた輪。


一瞬だけ現れて、瞬きをする間に消えた。


「……っ」


ルティの呼吸が浅くなる。


「今、なんだ」


バルドの声が低くなる。


「……」


ルティは答えない。


答えられない。


ただ、胸の奥に残った感覚だけを抱えている。


「……おなじ」


ぽつりと、つぶやく。


「何がだ」


「……あそこ」


少ない言葉。


けれど、バルドには意味が分かった。


「……教会か」


ルティは、小さくうなずく。


静かな空気が落ちる。


バルドは腕を組み、しばらく黙っていた。


「……気のせいだ」


ぶっきらぼうに言う。


「床は床だ」


そう言いながらも。


その視線は、いつもより長く床へ残っていた。


「……」


ルティは、もう一度だけ同じ場所へ触れる。


けれど今度は何も起きない。


ただの床。


ただの木。


「……」


ゆっくり立ち上がる。


「……仕事しろ」


バルドが言う。


「客来るぞ」


「……うん」


小さく返して、ルティは歩き出す。


だが、その足取りは少し変わっていた。


歩くたびに、視線が揺れる。


床。

壁。

柱。

窓。


何かを探すみたいに。


「……」


店の中に、“重なっているもの”がある。


見えるときと。

見えないときがある。


はっきりしない。


それでも、確かにそこにある。


「……へん」


小さくこぼれた言葉は、パンの匂いの中へ溶けて消えた。



昼になるころには、白樺亭はいつもの賑わいを取り戻していた。


客が増え。

笑い声が響き。

皿の音が重なる。


「ルティ、こっち水!」


「パン追加ー!」


「おう、今行く!」


店の中を、忙しない声が飛び交う。


ルティも、その流れの中で動いていた。


以前よりずっと自然に。


以前よりずっと、“人の流れ”に馴染みながら。


「……これ」


パンを置く。


「ありがとな、嬢ちゃん」


鍛冶屋の親方が笑う。


「最近ちゃんと店員してるじゃねえか」


「最初なんか、俺の注文忘れて三回通り過ぎたからな」


別の常連が笑う。


「……」


ルティは、その声を聞きながら小さくうなずく。


意味は全部分からない。


でも、笑っているのは分かる。


「……はたらく」


ぽつりと返すと、周囲からまた笑いが起きた。


「おう、働いてる働いてる」


「バルドより真面目かもしれねえな」


「うるせえ」


カウンターの奥から、バルドが不機嫌そうに返す。


けれど。


その目は、笑っていなかった。


「……」


視線が、何度もルティへ向く。


朝のあれが、頭から離れない。


空気が揺れた。


確かに。


ほんの一瞬だけだったが。


「あいつ、本当に見えてんのか……?」


小さく、誰にも聞こえない声でつぶやく。


そのとき。


ルティの足が、また止まった。


「……」


壁。


入口近くの柱。


そこに、違和感がある。


ゆっくり近づく。


「おい、ルティ?」


モリーが声をかける。


だが、返事はない。


小さな手が、壁へ伸びる。


触れる。


その瞬間。


ぞわり、と空気が歪んだ。


「……っ」


今度は、はっきり見えた。


線。


壁の奥に重なる、もうひとつの輪郭。


黒い線が、円を描くみたいに浮かび上がる。


「……!」


ルティの呼吸が止まる。


その向こうに、何かがいる。


見えない。

けれど、いる。


“向こう側”が、近い。


「ルティ!」


バルドの声が飛ぶ。


次の瞬間。


すべてが消えた。


ただの壁。


ただの昼の店。


「……」


ルティは、ゆっくり振り返る。


バルドが立っている。


その顔には、明らかな警戒が浮かんでいた。


「何やってた」


低い声。


以前みたいな軽さがない。


「……」


ルティは、少しだけ迷う。


言葉を探す。


「……なんでもない」


小さく、そう答えた。


初めてだった。


“隠す”みたいな答え方をしたのは。


「……」


バルドの目が細くなる。


「……そうか」


短く返す。


それ以上は聞かない。


けれど。


その視線は、完全に変わっていた。


“変な子ども”を見る目じゃない。


何か、自分の知らないものに近づいている存在を見る目だった。



夕方。


店の賑わいが落ち着き始める。


常連たちも帰り始め、白樺亭の中には静けさが戻りつつあった。


「じゃあな、ルティ」


「また明日なー」


「……また」


小さく返事をする。


その声に、客たちが少し笑う。


「ちゃんと返せるようになったな」


「最初、目しか合わせなかったのにな」


「……」


ルティは、少しだけ首をかしげる。


でも。


その言葉は、嫌じゃなかった。



そして。


店の中に、人がいなくなったころ。


ルティの足が、また止まる。


「……」


店の中央。


朝と同じ場所。


静かな空気。


「……ある」


小さく、つぶやく。


次の瞬間。


床に、線が浮かび上がった。


今までよりも、ずっと濃く。


はっきりと。


円。


途切れのない、完全な形。


「……っ」


ルティは動けない。


空気が沈む。


音が遠ざかる。


時間だけが、ゆっくり伸びていく。


その中心に、“何か”が集まっている。


見えない。


けれど、確かにそこにある。


開く。


胸の奥へ、言葉じゃない感覚が落ちてくる。


開こうとしている。


「……」


ルティの目が、わずかに揺れる。


怖い。


でも、それだけじゃない。


何かが、呼んでいる。


その瞬間。


「ルティ!!」


バルドの怒鳴り声が響いた。


はっとして振り返る。


同時に。


円が消えた。


音が戻る。


空気も、光も、全部元通りになる。


「……」


ルティは、その場に立ち尽くしたまま動けない。


バルドが近づいてくる。


いつもより速い足取りで。


「……今、何があった」


低い声だった。


怒っているわけじゃない。


だが、はっきりと緊張している。


「……」


ルティは答えない。


答えられない。


ただ。


小さく、口が動く。


「……くる」


その一言に。


バルドの背筋が、ぞくりと冷えた。



その夜。


町の外れ。


崩れた石壁の近くで。


「……やはり始まっている」


リオンが、静かに目を細めていた。


指先には、薄く黒い痣を移した布切れが挟まれている


昼間、町で回収したものだった。


「……白樺亭」


低く、名前を落とす。


風が吹く。


その目は、まっすぐ町の方を向いていた。


「……中心は、あの子か」


静かな声。


だが、その奥には。


はっきりとした警戒が滲んでいた。

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