第20話 追う者
夜の町は、昼間とはまるで別の顔をしていた。
昼には人の声で満ちていた通りも、今は静かで、石畳の上を抜けていく風の音だけが細く残っている。
白樺亭の窓から漏れる灯りだけが、その暗さの中でやわらかく揺れていた。
厨房では、まだ片づけの音がしている。
皿の触れ合う小さな音。
水の流れる音。
誰かの足音。
その灯りの外側。
通りの影の中に、ひとりの男が立っていた。
「……」
ガイル。
壁に背を預けたまま、通りの先をじっと見ている。
目は動かない。
呼吸も浅い。
ただ、静かに気配を探っている。
昼間の光景が、頭の中で何度も繰り返されていた。
白樺亭。
奥の席。
フードを深くかぶった男。
そして――
空気の歪み。
「……境界に触れている」
低く、つぶやく。
それは、疑いではなかった。
確信だった。
あれは偶然じゃない。
教会で起きた揺らぎと、同じ質を持っていた。
しかも今回は、昼間の町中で、それを自然に扱っていた。
「……だが」
ガイルの眉が、わずかに寄る。
「……なぜ、ここだ」
この町は、小さい。
人は集まるが、ただの中継地だ。
大きな神殿もない。
古い祭壇もない。
“向こう側”に近づくための土地では、本来ない。
少なくとも、表向きは。
「……」
けれど、教会はあった。
壊れたまま放置されている、あの場所。
そして、ルティはそこへ辿り着いた。
まるで最初から、引き寄せられていたみたいに。
「……」
ガイルは、ゆっくりと目を閉じる。
思い出すのは、あの夜の光景だった。
床に広がった、黒い痣のようなもの。
細い腕を這うように広がっていた、あの模様。
普通の病じゃない。
傷でもない。
もっと別のもの。
「……共鳴が始まっている」
静かに、言葉を落とす。
それを理解できる者は、この町にはほとんどいない。
だが。
あの仕立て屋――モリーだけは違った。
昼間、ルティの腕を見たとき。
一瞬だけ、顔色が変わった。
あれは、“知らない顔”じゃなかった。
「……気づいてるな」
ガイルの目が、わずかに細くなる。
モリーは、おそらく普通の町人ではない。
隠している。
だが、隠し慣れている。
あの視線は、“初めて見る反応”じゃなかった。
風が、通りを抜ける。
木の看板が、かすかに揺れた。
その音に紛れるように。
「……来る」
ガイルの声が、低く沈む。
気配があった。
通りの奥。
灯りの届かない場所。
夜の影が濃く溜まる場所に、何かが立っている。
「……」
フード。
昼間と同じ外套。
同じ、輪郭の薄さ。
まるで、夜そのものが人の形を取っているみたいに。
「……遅いな」
ガイルが、わざと声を投げる。
相手の反応を見るために。
「……追っていたか」
低い声が返る。
昼と同じ声。
感情の温度が薄い。
「当然だ」
ガイルは、距離を詰めない。
一定の間合いを保ったまま、相手を見据える。
「お前みたいなやつを放っておけるほど、この町は広くない」
短い沈黙。
夜風だけが通り抜ける。
「……守るつもりか」
フードの男が問う。
「……」
ガイルは、すぐには答えない。
代わりに、ゆっくりと腕を下げる。
いつでも動ける位置に。
「……あの子は、すでに触れている」
男の声が続く。
「あそこにも。
こちら側にも」
「知っている」
ガイルが短く返す。
「なら、時間の問題だ」
「……」
その瞬間。
空気が、ほんのわずかに重くなる。
見えない圧が、通りを満たしていく。
遠くの犬が、低く唸った。
「……お前は、どちらだ」
ガイルの声が低く沈む。
「観測か。
それとも干渉か」
フードの奥で、何かがわずかに揺れる。
笑ったようにも見えた。
「……どちらでもない」
「……ただ」
一歩。
男が前に出る。
その瞬間。
空気が、裂けるみたいに揺れた。
「“開く”のを待っている」
ぞわり、と。
夜の景色が歪む。
ほんの一瞬。
通りの奥に、裂け目のような揺らぎが浮かび上がる。
向こう側に、何かがある。
見えないはずなのに、分かる。
深い。
暗い。
落ちていくような感覚。
「……っ」
ガイルの目が鋭くなる。
「ここでやるな」
一歩、踏み込む。
その瞬間。
歪みが消えた。
まるで最初から存在しなかったみたいに。
静寂。
フードの男は動かない。
「……干渉する気はない」
淡々とした声。
「まだ、な」
「……信用できると思うか」
「する必要はない」
即答だった。
その短い会話だけで、空気が張りつめる。
「……あの子に近づくな」
ガイルが低く言う。
「……それは無理だ」
男は迷いなく返す。
「向こうが、こちらを見ている」
その一言で。
ガイルの動きが、ほんのわずかに止まった。
「……やはり、か」
ルティ自身が、“見始めている”。
それはもう、隠せない段階に入っていた。
男は、それ以上語らない。
一歩。
また一歩。
影の中へ下がっていく。
「……また会う」
昼間と同じ言葉。
そして、そのまま夜の闇へ溶けるように消えた。
「……ちっ」
ガイルが、小さく舌打ちする。
しばらく、その場を動かない。
気配を探る。
だが、もう何も残っていない。
「……面倒なことになったな」
低く、つぶやく。
そのとき。
背後で、店の扉が開いた。
「……ガイル?」
静かな女の声。
振り返ると、白樺亭の入口にモリーが立っていた。
どうやら帰るところだったらしい。
仕立て用の布を包んだ細長い包みを抱えたまま、通りの空気を静かに見ている。
肩には、夜避けの薄い布が掛けられていた。
「……」
ガイルは答えない。
だが、モリーはそれだけで十分だった。
通りの空気を見て。
残っている気配を感じて。
ゆっくりと目を細める。
「……来てたのね」
「ああ」
短い返事。
「……あの子を見に?」
「たぶんな」
モリーは、小さく息を吐く。
「……早すぎるわ」
その声には、はっきりとした緊張が混じっていた。
ガイルが視線を向ける。
「お前、どこまで知ってる」
「……全部じゃない」
モリーは静かに首を振る。
「でも、“開き始めた子”くらいは見たことがある」
「……」
ガイルの目が細くなる。
「腕の痣も?」
「……あれは境界熱の初期症状に近い」
モリーが低く言う。
「普通は、もっと遅い。
もっと弱い」
「だが、あの子は違う」
「……ええ」
短い沈黙。
白樺亭の灯りだけが、静かに揺れている。
「……ザーラ、だったかしら」
モリーが、ぽつりと呟く。
ガイルの目が、わずかに動く。
「聞いてたのか」
「少しだけ」
モリーは苦笑する。
「眠ってる間、何度も名前を呼んでた」
「……」
「誰なの、あの子にとって」
ガイルは、しばらく答えなかった。
夜風が通り過ぎる。
そして。
「……繋いでるやつだ」
低く、それだけ言う。
モリーは静かに目を伏せる。
「……なら、本当に時間がないのね」
白樺亭の二階。
小さな部屋。
「……」
ルティは、眠っていた。
小さな手の中には、いつものスプーン。
その腕には。
薄く、黒い模様が残っている。
まるで、何かが静かに広がるのを待っているみたいに。




