第23話 ここにいる理由
店の中には、まだざわめきが残っていた。
倒れた椅子。
割れて床に散らばった皿。
踏まれて形を崩したパン。
さっきまで穏やかだった白樺亭の空気は、確かに一度壊れている。
誰も、“何が起きたのか”を説明できない。
けれど。
何かがおかしかったことだけは、全員が理解していた。
「……大丈夫か」
バルドが、低く声をかける。
いつものぶっきらぼうな調子に似ている。
だが、その声には、ほんのわずかに慎重さが混じっていた。
ルティは、ゆっくりとうなずく。
「……うん」
小さな返事。
それ以上は続かない。
自分でも、何をどう説明すればいいのか分からない。
「……」
バルドは、しばらくその顔を見ていた。
問い詰めるべきか。
黙っておくべきか。
その境目を測るみたいに。
けれど結局、何も聞かなかった。
代わりに、ぐるりと店の中を見回す。
「おい、怪我したやつはいねえか」
声を張る。
「あ、ああ……」
「皿が飛んできただけだ」
「腰抜けるかと思ったぞ……」
常連たちの声が、少しずつ返ってくる。
みんな顔色は悪い。
だが、誰も致命的な怪我はしていない。
「……ならいい」
バルドが、小さく息を吐く。
その横で。
モリーが、割れた皿を拾いながら、ちらちらとルティの方を見ていた。
視線が止まるのは、ルティの左手。
指先。
そこに残る、薄い黒い痣。
「……」
モリーの喉が、小さく動く。
怖い。
正直、怖い。
でも。
それ以上に。
さっき、ルティが“止めた”ことも見ていた。
「……ルティ」
小さく呼ぶ。
ルティが、顔を上げる。
「……いたい?」
視線は、指先へ向いている。
ルティは、自分の手を見る。
「……へん」
ぽつりと言う。
「……ちょっと、つめたい」
その言葉に。
近くにいた常連の空気が、少しだけ固くなる。
「おい……」
低い声。
木こりのガンズだった。
大柄な男で、いつも昼から酒を飲んでいる常連。
「その手、大丈夫なのか」
警戒している。
だが、敵を見る目ではない。
“何か悪い病気じゃないのか”と心配している目だった。
「……わからない」
ルティは、正直に答える。
「……」
ガンズが、黙る。
すると今度は、奥の席から別の声が飛んだ。
「でもよ」
鍛冶屋のデンツが、腕を組んだまま言う。
「さっき、この嬢ちゃんが止めたんだろ」
「……」
「見えてねえけど、何か出てきたのは分かった」
店の空気が、少し静まる。
みんな、同じことを考えていた。
“見えていない”。
けれど。
確かに、“いた”。
「……ああ」
別の常連も、小さくうなずく。
「空気、変だった」
「息が詰まったみてえだった」
「頭の奥が、ぞわっとした」
口々に出てくる。
断片的な感覚。
だが、それだけで十分だった。
“普通じゃない何か”が起きたことだけは、みんな理解している。
「……」
バルドが、ゆっくりルティを見る。
昨日までとは、明らかに違う目だった。
変な子ども。
面白いガキ。
そういう見方じゃない。
もっと重い。
“この場を変えた存在”を見る目。
「……お前」
低く言う。
「怖くねえのか」
ルティは、少しだけ考える。
「……こわい」
正直に言った。
「……でも」
そこで、言葉が止まる。
みんなが、続きを待つ。
ルティは、ゆっくりと床を見る。
さっき円が浮かんでいた場所。
「……ほっとくと、だめ」
小さな声。
でも。
店の中には、はっきり届いた。
「……」
空気が、少し変わる。
モリーが、そっと息を吐く。
ガンズが、頭を掻く。
誰も、もう笑わない。
そのとき。
入口の扉が、静かに開いた。
風が、流れ込む。
「……来たか」
低い声。
ガイルだった。
その姿を見た瞬間。
バルドの目が、少しだけ鋭くなる。
「……お前、知ってんだな」
確認するみたいに言う。
ガイルは否定しない。
真っ直ぐ、ルティへ歩く。
そして。
その指先を見る。
黒い痣。
薄く。
けれど、確実に広がろうとしている。
「……触れすぎたか」
小さく、つぶやく。
「……?」
ルティが、首をかしげる。
ガイルは答えず、そっとルティの手を取った。
「……っ」
周囲の空気が、わずかに張る。
ガイルは、目を閉じる。
意識を探るみたいに。
「……まだ浅い」
静かな声。
「今なら戻せる」
「戻す?」
バルドが、眉を寄せる。
「何をだ」
ガイルは、ゆっくり目を開く。
「侵食だ」
店の空気が、止まる。
「……あれは、触れたものを少しずつ引き込む」
「境界の向こう側へ」
その説明に。
モリーの顔色が、さっと変わった。
「……待って」
小さく言う。
「じゃあ、この子……」
「……まだ、大丈夫だ」
ガイルが遮る。
「完全には繋がっていない」
「だが」
そこで、一度言葉を切る。
視線が、床へ落ちる。
「……次は、もっと大きく開く」
その言葉に。
白樺亭の空気が、重く沈んだ。
「……」
バルドが、黙ったまま腕を組む。
考えている。
逃げるか。
閉めるか。
関わらないふりをするか。
普通なら、そうする。
だが。
視線の先には、ルティがいる。
小さな体。
まだ、パンを運ぶことくらいしか知らないような子ども。
それでも。
さっき、この店を守った。
「……はぁ」
深く息を吐く。
「……めんどくせえな」
ぶっきらぼうに言う。
その声に、少しだけ空気が緩む。
「バルド……」
モリーが、不安そうに見る。
バルドは、頭を掻いた。
それから。
ルティの隣へ立つ。
「……いいか」
低く言う。
「次に何か出たら、勝手に触んな」
「……?」
「お前一人でやるなってことだ」
ルティは、少し考える。
それから。
こくん、と小さくうなずいた。
「……わかった」
「……ほんとか?」
「……たぶん」
「おい」
店の奥で、何人かが吹き出した。
緊張の切れ目みたいに。
ガンズが、大きく笑う。
「ははっ……なんだよ、それ」
「たぶんじゃ困るだろ!」
デンツも笑う。
さっきまで凍りついていた空気が、少しだけ戻る。
「……」
ガイルだけは、笑わなかった。
静かに、店の外を見る。
その視線の先。
通りの向こう。
屋根の影。
そこに、別の気配があった。
「……見ているな」
小さく、つぶやく。
⸻
少し離れた建物の屋根の上。
フードを被った影が、静かに町を見下ろしていた。
リオン。
その指先には、黒い痣の痕を吸わせた布切れ。
風が吹くたびに、それがかすかに揺れる。
「……閉じたか」
低い声。
だが、その目には驚きが残っていた。
「……まだ未熟なはずだ」
普通なら。
あれほど開いた境界を、子ども一人で押し戻せるはずがない。
それなのに。
「……白樺亭」
静かにつぶやく。
視線が、店の窓へ向く。
その奥にいる、小さな影。
「……集まり始めているな」
町が。
人が。
境界が。
すべてが、あの子の周りへ寄り始めている。
「……時間がないか」
風が吹く。
リオンは、ゆっくりと目を細めた。
その視線は、もう完全に。
“観察者”のものではなくなっていた。




