表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

105/171

第15話 ひかりのむこう

昼。


白樺亭の裏手には、洗い終わった皿が少しずつ積み上がっていた。


水の入った桶の前で、ルティは一枚の皿を両手で持ったまま、同じ場所を何度もこすっている。


ごし、ごし、と布が陶器の上をすべる音だけが、やけに真面目に響いていた。


「おい、ルティ」


バルドが、少し離れたところから声をかける。


「それ、もういいだろ」


「……」


ルティは、皿を見たまま答えない。


ごし。


ごし。


「……まだ」


「だから、どこがだよ」


バルドは呆れたように近づき、ルティの手元を覗き込んだ。


皿は、もう十分にきれいだった。


油も残っていないし、汚れも見えない。


「ねえよ」


「……ある」


ルティは、皿の端を指でなぞる。


何もない場所。


けれど、その指先は迷っていなかった。


「……」


そのとき、ルティの動きがふと止まる。


皿を見ていたはずなのに、目はもう皿だけを見ていなかった。


指先に触れた小さな違和感が、昨日の教会で感じたものと重なる。


薄い線。


円の形。


触れた瞬間に、空気がほんの少し揺れた感覚。


「……おなじ」


ぽつりと、つぶやく。


「何がだよ」


バルドが聞く。


「……」


ルティは答えない。


答えられない。


でも、分かる。


ここにも、少しだけある。


あそこにも、あった。


残っているものが、同じように指先へ触れてくる。


「……」


ルティは、もう一度だけ皿をこする。


ごし。


ごし。


それから、こくんと小さくうなずいた。


「……できた」


「……そうかよ」


バルドは、どうにも納得できない顔のまま、それでも諦めたように手を振った。


「次。昼の分、運べ」


「……うん」


午後になると、店の中は少しずつ人の声で満ちていった。


ルティはパンの入ったかごを抱えて、ゆっくりと席の間を歩いている。


一歩。


また一歩。


昨日よりは、少しだけ安定している。


それでも、まだ見ている方は落ち着かない。


「……」


ふと、ルティの足が止まった。


パンを運んでいる途中で、床を見る。


木の床。


いつもの床。


それなのに。


「……」


ほんの少しだけ、違う。


見えるほどではない。


でも、何かが重なっているような気がする。


「……へん」


小さくつぶやく。


「おい、どうした」


カウンターの向こうから、バルドの声が飛ぶ。


「……」


ルティは、すぐには答えない。


頭の中に浮かぶのは、教会の床に残っていた線だった。


消えかけていた円。


触れると、かすかに光がにじんだ場所。


「……」


それでも、ルティはまた歩き出す。


今は、パンを運ぶ時間。


止まらない。


でも。


残っている。


どこかに。


夕方になると、店の騒がしさは少しずつ落ち着いていった。


最後の客が帰り、皿を片づけ、火を弱める頃には、白樺亭の中には疲れたような静けさが戻っている。


「……はぁ」


バルドが息を吐く。


「今日はこんなもんでいいか」


「……」


ルティは、その横に立ったまま、どこかぼんやりしていた。


「どうした」


「……」


答えない。


けれど、足が動く。


自然に。


外へ向かって。


「おい、どこ行く」


ルティは、少しだけ足を止める。


振り返らないまま、言葉を探す。


「……もどる」


「どこに」


「……」


うまく言えない。


けれど、胸の奥に残っている感覚だけは、はっきりしている。


「……のこってる」


ぽつりと、そう言った。


「は?」


バルドが眉をひそめる。


「……いく」


それだけ言って、ルティはまた歩き出す。


「おい」


止める声が背中に届く。


ルティが振り返ると、バルドは少しだけ迷った顔をしていた。


けれど、結局止めなかった。


「……すぐ帰れよ」


「……」


ルティは、こくんとうなずいた。


森へ続く道は、昨日よりも少しだけ近く感じた。


一度通った道だからかもしれない。


あるいは、足が場所を覚えていたのかもしれない。


「……」


風が揺れる。


葉が鳴る。


町の音が少しずつ遠ざかり、森の静けさが近づいてくる。


歩くほどに、胸の奥の感覚が強くなっていった。


「……」


ここにある。


まだ、ある。


そう思うたびに、足は迷わず前へ進んだ。


やがて、崩れた教会が見えてくる。


屋根は欠け、壁にはひびが入り、入口は半ば崩れたまま口を開けている。


昨日と同じ場所。


それなのに、昨日よりも静かにこちらを待っているように見えた。


「……」


ルティは、そのまま中へ入る。


ひやりとした空気が頬に触れる。


音が、少し遠くなる。


「……」


奥へ。


ゆっくりと進む。


床の消えかけた線。


円の形。


昨日、触れた場所。


「……」


その前で立ち止まる。


じっと見る。


胸の奥が、静かに鳴っている。


怖いわけではない。


けれど、軽く触れていい場所ではないことも分かっている。


「……」


息を整える。


それから、一歩近づいた。


空気が、わずかに揺れる。


差し込んでいる光が、ほんの少しだけ歪む。


「……」


手を伸ばす。


触れない。


けれど、そこにある。


何かが、確かにそこに残っている。


「……」


胸の奥の音が、前よりはっきりする。


もう一歩、踏み込む。


その瞬間だった。


「……ルティ?」


声がした。


「……!」


ルティの動きが、ぴたりと止まる。


聞こえた。


確かに。


「……」


ゆっくりと顔を上げる。


「……ルティ?」


もう一度。


今度は、さっきよりもはっきりと。


「……」


そこに、いた。


光の向こう。


ぼやけた輪郭。


形ははっきりしない。


けれど、分かる。


「……ザーラ」


迷わず、名前が出た。


「……っ」


向こうで、息をのむ気配がした。


「……ルティ……?」


「……うん」


ルティは、ちゃんと答える。


言葉が、自然に出る。


「……ここ、へん」


「……さわったら、だめ」


ザーラの声は遠く、ところどころ掠れていた。


それでも、いつものように少し強くて、どこか必死だった。


「……!」


ルティは、手を止める。


「……やっぱり……」


ザーラが小さくつぶやく。


その顔はよく見えない。


けれど、驚きと、安堵と、焦りが混ざっていることだけは伝わる。


「……ルティ、その場所は……」


声が、途切れる。


光が揺れる。


ザーラの輪郭も、揺れる。


「……時間が……」


「……?」


「……長くは……いられない……」


声が遠くなる。


「……」


ルティは、少しだけ前に出た。


「……だめ」


言葉が、こぼれる。


「……いかないで」


それは、いつもより少し長い言葉だった。


言ってから、自分でも少しだけ驚く。


でも、消えてほしくなかった。


また見えなくなるのが、嫌だった。


「……」


ザーラが、動きを止める。


「……ルティ……」


その声が、ほんの少しだけやわらかくなる。


「……また来て」


「……?」


「……そこに来れば……つながる……」


途切れながらも、声は届いた。


「……いい?」


「……うん」


ルティは、迷わずうなずく。


「……」


ザーラが、少しだけ笑ったように見えた。


「……よかった……」


その瞬間、光が大きく揺れた。


ザーラの姿が、ふっと崩れ始める。


「……!」


ルティは手を伸ばしかける。


けれど、触れない。


触れてはいけない。


「……ルティ」


最後の声が、静かに届く。


「……ひとりじゃないから」


「……」


光が消える。


音が戻る。


残ったのは、静かな教会だけだった。


「……」


ルティは、動かない。


しばらく、その場に立ったまま、消えた場所を見ている。


さっきまでそこにいた。


今はもういない。


それでも。


「……」


言葉は、残っている。


ひとりじゃない。


「……」


ルティは、ゆっくりと目を伏せる。


それから、こくんと小さくうなずいた。


「……うん」


ひとりで、答える。


外。


少し離れた場所で、ガイルが教会を見ていた。


「……」


空気が揺れた。


確かに。


ただの風ではない。


中で何かがつながった。


「……今のは……」


低くつぶやく。


目を細める。


「……始まったか」


その声は、森の静けさに溶けるように消えた。






同じ頃。


森の外縁、教会からは直接見えない位置で、リオンは足を止めていた。


町から少し離れたその場所は、風の流れが素直で、余計な気配が混ざりにくい。


だからこそ、わかる。


「……今のは」


小さく、つぶやく。


指先を、わずかに空気へ向ける。


触れているわけではない。


だが、確かに“何か”をなぞっている。


「……繋がったな」


低い声。


確信を含んだ言い方だった。


教会の方向から、ほんの一瞬だけ歪みが強くなった。


閉じかけていたものが、内側から押し開かれたような揺れ。


それは自然のものではない。


誰かが、触れた。


誰かが、応じた。


「……」


リオンは、ゆっくりと目を細める。


あの場所には、まだ残っていた。


消えきらなかった痕跡が。


だが、それだけでは動かない。


残っているだけなら、“ただの残滓”だ。


だが今のは違う。


「……応答があった」


ぽつりと、言う。


それはつまり。


片側ではなく、両側が“意識している”ということ。


「……先に触れたのは、あの子か」


ルティの姿が脳裏に浮かぶ。


町の中で、皿を磨き続けていた小さな背中。


パンを配りながら、違和感に足を止めた視線。


「……」


もう一つ、重なる。


教会の奥で、かすかに残っていた“向こう側”。


「……いや」


わずかに首を振る。


「両方だな」


どちらが先かではない。


互いに引き寄せている。


そういう繋がり方だ。


「……厄介だ」


静かに言う。


だが、その声に焦りはない。


むしろ、ようやく形が見えたという感覚に近い。


「……」


視線を、教会の方向から町へ戻す。


白樺亭のある方角。


あの子は、もう戻る。


戻るしかない。


今のままでは、長く留まれない場所だからだ。


「……時間の問題か」


誰にともなくつぶやく。


あの“繋がり”が安定する前に、もう一度動きが来る。


今度は、外からか。


それとも、内側からか。


「……」


リオンは、ゆっくりと踵を返す。


森の奥へではなく、町へ向かって。


音を立てずに、しかし迷いなく。


「……少し近くで見るか」


その一言は、決断だった。


遠巻きに観測する段階は終わった。


次は、干渉の距離。


白樺亭。


教会。


そして、あの少女。


三つが、ひとつの線で結び始めている。


「……面白くなってきたな」


かすかに、口元だけが動いた。


そのまま、リオンの姿は人の気配へ溶けるように消えていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ