第14話 できてないのに、できている
朝。
白樺亭の中には、まだ客の姿は少なかったが、厨房の奥ではすでに火が入り、温め直したスープの匂いと焼き直したパンの香りが、少しずつ店の中へ広がり始めていた。
「よし、今日はもう少し任せるぞ」
宿の男が、腕を組んで言う。
「……」
ルティは、じっと男を見上げた。
「皿洗いと、あと配るのもだ。昨日よりは人が来るからな。落とすなよ。食うなよ。勝手に増やすなよ」
「……」
ルティは、言葉をひとつずつ受け取るように少しだけ間を置いてから、こくんと小さくうなずいた。
「ほんとに分かってんのか、それ」
「……うん」
「……まあ、いい。やってみろ」
男はそう言って、桶の方を指した。
最初は、皿洗いだった。
「……」
ルティは桶の前に立ち、昨日教えられた通りに布を持つと、皿の表面をごしごしとこすり始めた。
昨日よりも少しだけ力が入っている。
泡もちゃんと立つ。
水をかけるだけでは洗ったことにならない、ということは覚えたらしい。
「……」
一枚。
もう一枚。
同じ動きを繰り返す。
けれど途中で、ルティの手がぴたりと止まった。
「……?」
首をかしげる。
目の前にあるのは、もうきれいに見える皿だった。
それでも、ルティはそこから目を離さない。
「……」
もう一度、こする。
ごし。
ごし。
さらに、もう一度。
「おい」
男が声をかける。
「もういいだろ、それ」
「……」
ルティは手を止めない。
「……まだ」
「何がだよ」
「……のこってる」
「……?」
男が近づき、皿を覗き込む。
皿には何も残っていない。
油も、汚れも、見えるものはきれいに落ちている。
「……どこだよ」
「……ここ」
ルティは皿の端を指でなぞる。
何もない場所。
だが、その表情は真剣だった。
「……いや、ねえよ」
「……ある」
「……」
男は少しだけ黙る。
それが汚れを見ているのか、別の何かを感じているのかは分からない。
ただ、昨日からこの子が時々、誰にも見えないものを見るような顔をすることだけは、なんとなく分かってきていた。
「……まあ、いいや」
男は手をひらひら振った。
「気が済むまでやれ。ただし、皿を削るなよ」
「……」
ルティは、もう一度だけ皿をこする。
それから、こくんと小さくうなずいた。
「……できた」
「……そうかよ」
男は呆れたように言いながらも、それ以上は何も言わなかった。
やがて、店に客が入り始める。
最初に来たのは、大きな荷を肩に担いだ男だった。
濃い髭を生やし、上着の肩には道の土がついている。
「おう、バルド。今日も開いてんな」
「開けてなきゃ飯が出せねえだろ、グレン」
男、バルドはそう返しながら、カウンターの奥でパンを切る。
グレンと呼ばれた荷運びの男は、ルティに気づくと、少しだけ目を丸くした。
「お? 昨日のちっこいの、まだいたのか」
「……」
ルティはパンのかごを持ったまま、じっと見る。
「……るてぃ」
「おう、ルティか。俺はグレンだ。荷運びやってる。荷物が重いと飯がうまい。覚えなくていいぞ」
「……ぐれん」
「覚えたのか。えらいな」
グレンは大げさに笑い、近くの席へ腰を下ろした。
次に入ってきたのは、年配の女だった。
丸い頬に、しっかりした目つき。
手には小さな包みを持っている。
「バルド、昨日の子は大丈夫だったのかい」
「見ての通りだ、マルタ。朝から皿を磨きすぎてる」
「磨きすぎるくらいなら上等じゃないか」
マルタはそう言って、ルティの方へ近づく。
「お嬢ちゃん、ちゃんと食べたかい」
「……」
ルティは少し考える。
「……ぱん」
「そうかい。パン食べたのかい。えらいねえ」
「……」
褒められた意味を全部は分かっていないのに、ルティはほんの少しだけ背筋を伸ばした。
それから、無口な男も入ってきた。
背は高く、歳は五十を越えているように見える。
歩き方は静かだが、どこか兵士のような雰囲気が残っている。
「オットー、いつものか」
バルドが聞く。
オットーは短くうなずくだけだった。
そしてルティを見る。
「……」
「……」
ルティも見る。
しばらく、何も言わない時間が流れた。
先に目を逸らしたのは、バルドだった。
「なんで無言で通じ合ってんだよ」
グレンが笑い、マルタも口元を緩める。
オットーは、ほんの少しだけ目元を柔らかくした。
それから、朝来ていたミコもまた顔を出した。
九つくらいの町の子で、白樺亭に慣れている足取りのまま、戸口から中を覗く。
「おじちゃーん、パンまだある?」
「あるけど、今日は買って帰るだけにしろよ。中でうろちょろすんな」
「はーい」
ミコは返事をしてから、ルティを見つけてぱっと笑う。
「ルティ、お仕事?」
「……うん」
「すごいね」
「……」
ルティは少しだけ考えて、パンのかごを持ち直した。
すごいのかは分からない。
でも、今はこれを運ぶことになっている。
「テーブルに置くだけだ」
バルドが言う。
「頼まれた分だけ置け。いいな。頼まれた分だけだ」
「……」
ルティはこくんとうなずいた。
そして、ゆっくりと歩き出す。
最初の席は、グレンのところだった。
「……これ」
ルティはパンを一つ置く。
「おう、ありがとよ」
グレンが受け取る。
「……」
ルティは少しだけグレンの顔を見る。
それから、もう一つ置いた。
「おい」
グレンが笑う。
「一個多いぞ」
「……?」
ルティは首をかしげる。
「俺が頼んだのは一個だ」
「……」
ルティはパンを見る。
グレンを見る。
それから、パンを少し押し出す。
「……たべる?」
「いや、食えるけどな。食えるけど、そうじゃねえんだ」
グレンが笑いをこらえながら言う。
「バルドに怒られるぞ」
「……?」
ルティは振り返る。
カウンターの奥で、バルドがすでにこちらを見ていた。
「戻せ」
「……」
ルティはパンを戻す。
しかし、戻したパンをかごに入れず、そのまま隣のマルタの席へ持っていった。
「……これ」
「私はまだ頼んでないよ」
マルタが笑う。
「……」
ルティは少しだけ考える。
「……あとで?」
「あとで食べるかもしれないけどねえ」
「……」
ルティは、パンを置いた。
「先に置いとくのかい」
マルタは声を上げて笑った。
「まあ、いいよ。もらっておこうか」
「よくねえよ」
バルドが奥から言う。
「注文って言葉を覚えさせてる最中なんだよ」
「いいじゃないか。あたしは食べるよ」
マルタはパンを手に取り、ルティに向かって笑う。
「ありがとね、ルティ」
「……」
ルティは、少しだけうなずいた。
次に、オットーの席へ行く。
「……これ」
ルティはパンを一つ置く。
オットーは、黙って受け取る。
「……」
ルティはじっと見る。
オットーもじっと見る。
「……」
もう一つ、置こうとする。
オットーは、静かに首を横に振った。
「……?」
「……一つでいい」
低い声。
短い言葉。
「……ひとつ」
「……ああ」
「……」
ルティは、その言葉を少しだけ考える。
それから、置こうとしたパンをかごへ戻した。
「お」
バルドが少しだけ驚いた声を出す。
「今のは分かったのか」
「……おっとー、みじかい」
ルティは、真面目な顔で言った。
「俺は?」
「……むずかしい」
店の中に、小さな笑いが広がる。
「ほら見ろ、バルド。おまえは難しいんだとよ」
グレンが肩を揺らす。
「うるせえ」
バルドはそう言いながらも、本気で怒っているようには見えなかった。
そのあとも、ルティの配り方はなかなか安定しなかった。
頼んだ席には遅れて置き、頼んでいない席にはなぜか先に置き、嬉しそうな顔をした客には少し多めに置こうとする。
「おい、それは二つじゃない。一つだ」
「……でも」
「でもじゃねえ」
「……たべる」
「食べるけど、金払った分だけだ」
「……にんげんのせかい」
「そうだ。人間の世界だ。都合よく覚えんな」
ルティはそのたびに首をかしげ、それでも少しずつ戻し、置き直し、覚えていく。
完璧にはほど遠い。
けれど、客たちは不思議と怒らなかった。
グレンは余分に置かれたパンを見て「これは試練だな」と笑い、マルタは「子どもが配るパンはうまいんだよ」と言い、オットーは必要な分だけ静かに受け取り、ミコは店の隅でそれを見ながら何度もくすくす笑っていた。
「ルティ、そこはあっち」
ミコが小さく教える。
「……あっち」
「うん、そのおじさんのところ」
「……おじさん」
「違う違う、今のは言わなくていい」
グレンが吹き出す。
「いや、俺はおじさんで合ってるけどな」
マルタが笑い、バルドが額を押さえる。
「おまえら、余計なこと教えんな」
けれど、店の空気は悪くなかった。
むしろ、ここしばらくの白樺亭にはなかった種類のざわめきが戻っていた。
食事の音。
笑い声。
誰かが誰かに声をかける音。
それらが少しずつ重なって、古びた店の中をあたためていく。
昼過ぎ。
「……はぁ」
バルドは椅子に座り、深く息を吐いた。
「めちゃくちゃだ……」
「……」
ルティは、その隣に立っている。
かごは空になっている。
予定より少し早く。
つまり、少し配りすぎた。
「……でもな」
バルドは、店の中を見回す。
「客、減ってねえ」
「……?」
「むしろ、増えてる」
「……?」
「なんでだよ」
「……」
ルティは少し考える。
でも、分からない。
それでも。
「……たべる」
ぽつりと言う。
「そうだな」
バルドは苦笑する。
「食ってるな、みんな」
「バルド」
グレンが席から声をかける。
「この子が配るなら、明日も来るぞ」
「余計なこと言うな」
「だって面白いんだよ。パンが増えるか減るか、ちょっと賭けみたいで」
「賭けにすんな」
マルタも笑う。
「でも、店が少し明るくなったじゃないか」
その言葉に、バルドは一瞬だけ黙った。
「……」
明るくなった。
それは、聞き流せない言葉だった。
昔、この店がそうだった頃の空気が、ほんの少しだけ戻った気がしたから。
「……まあ」
バルドは目を逸らす。
「皿は割ってねえしな」
「それ褒めてるのかい」
「褒めてる」
「分かりにくいねえ」
「うるせえ」
ルティは、そのやり取りを見ていた。
全部は分からない。
けれど、怒っているわけではないことは分かる。
「……」
少しだけ、胸の奥があたたかい。
理由は分からない。
でも、ここにいてもいいような気がした。
「ほら」
バルドがパンを一つ差し出す。
「今日の分だ」
「……」
ルティは受け取る。
一口かじる。
「……!」
やっぱり、おいしい。
働いたあとに食べるパンは、昨日よりも少しだけ意味がある気がした。
「……」
もぐもぐ食べる。
バルドはそれを見て、ぽつりとつぶやく。
「……まあ、いいか」
その声は、あきらめたようでいて、少しだけ穏やかだった。
外。
少し離れた場所。
リオンは、白樺亭の向かいの路地に立っていた。
昼の町は、朝よりさらに騒がしく、人の流れも多い。
その中で、白樺亭だけが妙に人を集め始めている。
理由は分からない。
いや、見ればだいたい分かる。
小さな少女が、パンを配り間違えている。
客が笑っている。
店主が怒っている。
それなのに、誰も本気で不快そうではない。
「……ずいぶん馴染むのが早いな」
リオンは低くつぶやく。
それは安心ではない。
油断でもない。
ただの事実確認だった。
「……」
視線を教会の方角へ向ける。
遠くにあるはずの場所。
そこから伸びるかすかな歪みは、まだ消えていない。
「……まだ残ってる」
小さく、空気に触れるように手を上げる。
見えないものを測るように、指先をわずかに動かす。
「……先に触れたか」
ぽつりとつぶやく。
誰が、とは言わない。
だが、その声には確かに警戒が混じっていた。
「……」
視線を、もう一度町へ戻す。
ルティのいる方向へ。
「……あの子が先か。それとも、向こうが先か」
答えは出ない。
リオンは踵を返し、人の流れに紛れないように、あえて細い路地へ入っていく。
その動きを、屋根の上から見ている影があった。
「……」
ガイルは、何も言わない。
ただ、リオンの気配が移動するのを追っている。
「……来たか」
低くつぶやく。
その声には、わずかな緊張が混じっていた。
けれど、視線の端ではまだ、白樺亭の中のルティを捉えている。
パンを食べ終えた少女が、スプーンを握って、またかごの方を見ている。
「……」
ガイルは小さく息を吐いた。
「今日はもう配るなよ」
もちろん、その声は届かない。
届かないまま、白樺亭の中からまたバルドの声が響く。
「おい、勝手に持つな!」
それに続いて、客たちの笑い声が広がった。
ガイルは少しだけ目を伏せ、それから再び町の外側へ視線を戻した。




