第13話 にんげんのせかい
朝の光の中で、ルティはまっすぐ歩いていた。
昨日と同じように町の外へ向かって、何かを探すでもなく、誰かに別れを告げるでもなく、ただ当然のように足を進めている。
「……」
止まらない。
迷わない。
暗くなったから眠り、朝になったから歩く。
ルティの中では、それだけのことだった。
「おーい!」
後ろから、慌てた声が飛んでくる。
「……?」
ルティは、足を止めて振り返った。
宿の男が、こちらへ走ってくる。
昨日の夜、ルティを部屋に入れて、ベッドで寝ろと言った男だ。
「待て、待てって!」
男は息を切らしながら近づいてきて、ルティの前で立ち止まると、しばらく肩を上下させた。
「……なんで普通に出ていこうとしてんだよ」
「……?」
ルティは、首をかしげる。
「……いく」
そのまま答える。
男は一瞬だけ口を開けたまま固まり、それから額に手を当てた。
「いや、“いく”じゃねえんだよ。昨日泊まっただろ。飯も食っただろ」
「……うん」
「じゃあ、金だよ」
「……?」
「金。払ってねえだろ」
「……」
ルティは少し考える。
それから、昨日と同じように、大事に持っていたスプーンを取り出した。
「……すぷーん」
差し出す。
「いらねえ!」
即答だった。
「それはもう分かった。大事なのも分かった。でも違う。それじゃ泊まれねえし、飯も食えねえ」
「……?」
ルティは、困ったようにスプーンを見る。
昨日は、これを出しても駄目だった。
今日も、駄目らしい。
男はその顔を見て、勢いのまま言い切ろうとして、それから少しだけ言葉を飲み込んだ。
小さな子どもが、何も分からないまま立っている。
怒鳴っても、たぶん意味がない。
「……いいか」
男はしゃがみ込み、ルティと目線を合わせた。
「ここはな、人間の世界だ」
「……」
ルティは、じっと見る。
「食うなら金がいる」
男は指を一本立てる。
「寝るなら金がいる」
もう一本立てる。
「何か欲しいなら、勝手に持っていくんじゃなくて、金を払う。分かるか」
「……」
ルティは、言葉を追う。
食う。
寝る。
金。
分かるものと、分からないものが混ざっている。
「……ない」
正直に言う。
「だよな」
男は深くため息をついた。
「だから、働くんだよ」
「……?」
「働く。手伝う。そしたら、その分だけ食えるし、寝られる」
男は、今度はできるだけゆっくりと言った。
「動く」
「……」
「手伝う」
「……」
「そうしたら、食える」
「……たべる」
「そうだ」
「……ねる」
「そうだ」
ルティは少しだけ考えた。
働くという言葉の形は、まだよく分からない。
けれど、動いて、手伝って、そのあと食べて、眠れる。
それなら、少しだけ分かる気がした。
「……できる」
小さくうなずく。
「よし」
男は立ち上がる。
「じゃあ、まず戻れ。人間の世界は、勝手に出ていって終わりじゃねえんだ」
「……にんげんの、せかい」
ルティは、小さく繰り返した。
言葉の意味は、まだ半分も分からない。
それでも、何か大事なものの名前みたいだった。
店の裏には、大きな桶と水、それから食べ終わった皿が積まれていた。
朝の冷たい空気の中で、水面だけが少し揺れている。
「まずこれだ」
男が皿を指す。
「洗え」
「……」
ルティは近づき、皿を見る。
水を見る。
それから、自分の手元のスプーンを見る。
少し考えてから、皿に水をかけた。
ばしゃ。
もう一枚にも、水をかける。
ばしゃ。
それを、横へ置く。
「おい」
男の声が飛んだ。
「……?」
ルティが振り向く。
「洗えって言っただろ」
「……」
ルティは皿を見る。
水は、ついている。
「……あらった」
「違う。そうじゃねえ」
男は頭を抱えた。
「汚れを落とすんだよ。水をかけただけじゃ、汚れは残るだろ」
「……よごれ」
「こうだ」
男は一枚皿を取ると、布を使ってごしごしとこすって見せた。
皿の表面についていた油の跡が、少しずつ消えていく。
「見ろ。こうやって落とす」
「……」
ルティは、それをじっと見る。
ただ見ているだけではなく、手の動き、力の入れ方、皿を支える角度まで、まばたきも少なく追っている。
「……」
それから、自分でも真似をする。
ごし。
ごし。
最初は弱い。
布が皿の上を撫でるだけで、汚れはあまり動かない。
「もっと力入れろ」
「……」
ごし、ごし。
少し強くなる。
「そうだ。割るなよ」
「……」
ごし、ごし。
泡が立った。
「……!」
ルティの目が、少しだけ開く。
白い泡が皿の上にできて、汚れが少しずつ消えていく。
それが不思議だった。
「……」
もう一枚。
ごし、ごし。
さっきより、少しだけ上手い。
さらにもう一枚。
同じ動きが、少しずつ体に入っていく。
男はその様子をしばらく見ていた。
危なっかしい。
遅い。
けれど、見て覚えるのは早い。
「……まあ、いいか」
小さくつぶやく。
店の中では、朝の支度が続いていた。
本当なら、もう一人くらい人手が欲しい。
そう思いながら、男は空いた席を見た。
昔は、そこに妻がいた。
厨房の奥で手を動かしながら、こちらへ文句を飛ばしていた。
娘はその足元をうろちょろして、手伝うと言いながら余計な仕事を増やしていた。
今は、その声がない。
店を開けているだけで、どこか半分眠ったような毎日が続いていた。
「……」
男は、桶の前で真剣に皿をこするルティを見る。
小さな背中。
何も分かっていないようで、言われたことは一生懸命やろうとしている。
「……厄介なの拾ったな」
そう言いながらも、声には昨日ほどの重さはなかった。
少しして、男はパンの入ったかごを持ってきた。
「次はこれだ」
「……」
ルティは、かごを見る。
丸いパンがいくつも入っている。
いい匂いがする。
「客のところに運べ。落とすな。食うな」
「……」
ルティは、かごを両手で持つ。
思ったよりも重い。
体が少しだけ、ふらりと揺れた。
「おい、落とすなよ」
「……」
こくん、と頷く。
一歩。
また一歩。
ゆっくり歩く。
「……」
パンを見る。
いい匂い。
あたたかそう。
「……」
手が、ほんの少しだけ動く。
「食うなよ」
「……」
止まる。
ルティはパンを見て、それから男を見る。
「……」
前を見る。
歩く。
ちゃんと、運ぶ。
「……」
男はそれを見て、少しだけ口元を緩めた。
「危ねえな、ほんと」
言い方は呆れているのに、どこか楽しそうだった。
昼になる頃には、ルティは少し疲れていた。
皿を洗い、パンを運び、言われた場所に水を置き、何度も間違え、そのたびに男に呼び止められた。
人間の世界は、思っていたよりも決まりが多い。
勝手に食べてはいけない。
勝手に出ていってはいけない。
水をかけるだけでは、洗ったことにならない。
パンは、いい匂いがしても途中で食べてはいけない。
「……」
ルティは椅子に座って、ぼんやりと手を見ていた。
そこへ、パンが差し出される。
「ほら」
「……」
受け取る。
「働いた分だ」
「……はたらいた」
「そうだ」
男はカウンターに肘をつきながら言う。
「動いた。手伝った。だから食える」
「……」
ルティはパンを見る。
それから、一口かじる。
「……!」
やっぱり、おいしい。
朝のパンとも、昨日のパンとも、少し違う。
自分で動いたあとに食べるパンは、なぜかもっと体の奥まで届くような気がした。
「……」
もぐもぐ食べる。
止まらない。
少しだけ考える。
「……はたらく」
ぽつりと、言う。
「おう」
男が答える。
「そういうもんだ」
ルティは、もう一口パンを食べる。
人間の世界。
働く。
食べる。
寝る。
まだ全部は分からない。
けれど、ほんの少しだけ、つながった気がした。
その様子を、少し離れた場所から見ている影があった。
「……」
ガイルは、屋根の上に座っていた。
またそこか、と言われそうな場所だったが、見晴らしはいいし、下の気配も拾いやすい。
何より、あの宿の周りで目立たずにいるには、そこが一番都合がよかった。
少女が働いている。
皿を洗い、パンを運び、途中で食いそうになって止められている。
「……」
小さく息を吐く。
「順応、早えな」
ぽつりとつぶやく。
危なっかしさは変わらない。
だが、完全に何も分かっていないわけではない。
あの子なりに、見て、覚えて、少しずつ世界の形を拾っている。
「……」
ガイルは視線を外し、周囲を確認する。
町の通り。
市場へ続く道。
森の方角。
不自然な気配は、今のところない。
「……」
少なくとも、今は大丈夫だ。
そう判断してから、ガイルは屋根の影に身を沈める。
見えない場所へ戻る。
ルティは、パンを食べ終える。
手を見る。
スプーンがある。
「……」
こくん、と頷く。
それから、もう一度、小さく言った。
「……にんげんのせかい」
覚えたばかりの言葉。
まだ意味は広すぎて、うまくつかめない。
でも、そこには決まりがある。
知らないことがある。
そして、少しだけ、食べるものもある。
「……」
ルティは、手の中のスプーンを握り直した。
それから、男の方を見る。
「……つぎ」
「……は?」
「……つぎ、なに」
男は一瞬だけ目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「働く気か」
「……うん」
「なら、まだ山ほどあるぞ」
そう言われて、ルティは少しだけ首をかしげる。
山ほど。
どこに山があるのかは分からない。
でも。
「……できる」
小さく言った。
男は、呆れたように笑いながら、次の皿を指さした。




