第16話 見えてきたもの 【挿絵あり】
朝。
白樺亭の中には、まだ朝の光が浅く差し込んでいるだけで、客もまばらで、昨日の喧騒が嘘のように静かだった。
「ほら、始めるぞ」
バルドが声をかける。
腕を組んだまま、いつもの位置から店の中を見渡している。
「……」
ルティは、小さくうなずいた。
昨日と同じ。
皿。
水。
パン。
仕事。
ただ、それだけのはずだった。
「……」
だが、動きは違っていた。
ごし。
一度、こする。
それだけで、皿の表面がすっと澄む。
昨日のように同じ場所を何度も往復することはない。
迷いもない。
ごし。
終わり。
次。
「……」
ルティは、次の皿を手に取る。
流れが止まらない。
手の動きが、すでに決まっているかのように、自然に繋がっていく。
「……?」
バルドの眉が、わずかに寄る。
昨日とは、明らかに違う。
「……」
ルティは気にしない。
ただ、手を動かしている。
それだけだった。
やがて、店に人が入り始める。
「おう、バルド。今日は早えな」
グレンが入ってくる。
その後ろからマルタが続き、オットーも無言で席につく。
「……」
ルティは、パンのかごを持って立つ。
客の声が飛ぶ。
「こっち七つ」
「……」
ルティは、かごを見る。
パン。
ひとつひとつを、視線で確かめる。
「……」
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
六つ。
七つ。
数え終えると、そのまま運ぶ。
足取りはゆっくりだが、揺れない。
昨日のような危うさが、消えている。
「……」
テーブルに置く。
ぴったり。
過不足なく。
「おう、ありがと」
グレンが受け取る。
「……」
ルティは、小さくうなずくだけで、次の席へ向かう。
「……おい」
マルタが、パンを見て言う。
「今日、ちゃんとしてるじゃないか」
「……」
ルティは、言葉の意味を全部は受け取らない。
それでも、声の調子がやわらかいことだけは分かる。
「えらいねえ」
「……」
ほんの少しだけ、背筋が伸びる。
オットーの席でも、同じだった。
「……これ」
「……ああ」
一つだけ置く。
オットーは短くうなずく。
余分なものはない。
「……」
ルティは、そのまま離れる。
グレンが小さく笑う。
「昨日と別人じゃねえか」
「なにしたんだ、あいつ」
「さあな」
マルタが肩をすくめる。
「でも、いいじゃないか。ちゃんとできてるんだから」
「……」
バルドは、腕を組んだままそれを見ている。
何も言わない。
ただ、見ている。
「……」
違う。
昨日と。
明らかに。
そのときだった。
「おい、熱いぞそれ!」
別の席から声が上がる。
テーブルの端。
置かれたばかりの鍋が、ぐらりと傾く。
「……」
ルティの視線が、そちらへ動く。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
「……」
足が動いた。
誰よりも早く。
一歩。
踏み込む。
「……」
手を伸ばす。
鍋が落ちる、その前に。
止まる。
「お、おい!」
客が驚いて声を上げる。
「……」
ルティは、何も言わない。
ただ、静かに鍋を元の位置へ戻す。
何もなかったかのように。
それから、そのまま次の仕事へ戻る。
「……」
店の中に、一瞬だけ静寂が落ちる。
「今の……」
グレンが、ぽつりとつぶやく。
「見えたのか?」
「いや……」
マルタが首を振る。
「見えたっていうか……先に動いたね」
「……」
オットーは何も言わない。
ただ、ほんのわずかに視線を細める。
バルドは、動かない。
見ていた。
今のを、全部。
「……なんだ今の」
低く、つぶやく。
気づくのも、動くのも。
一拍、早い。
偶然ではない。
「……」
ルティは振り返らない。
何も言わない。
ただ、働いている。
そのとき、扉が開いた。
軽い音。
「おはよー、バルドさん」
明るい声。
見慣れない顔だった。
長い髪を後ろでまとめた、若い女。
動きは軽く、けれど視線はしっかりしている。
「誰だ」
グレンが小声で言う。
「今日から手伝いに来たミーシャです」
にこりと笑って、頭を下げる。
「……ああ」
バルドが短く答える。
「聞いてる。来るって話だけな」
「よろしくお願いします」
「……まあ、適当にやれ」
「適当ってなんですか、それ」
ミーシャはくすっと笑いながら、店の中を見渡す。
その視線が、ルティで止まる。
「……あの子?」
「……ああ」
「働いてるんですか?」
「見りゃ分かるだろ」
「……」
ミーシャは少しだけ目を細めた。
ただの子どもではない。
そう感じるには、十分な動きだった。
「……面白いですね」
ぽつりと、つぶやく。
「は?」
「いえ、なんでもないです」
笑って流す。
ルティは、ミーシャを一度だけ見る。
それから、また作業に戻る。
昼。
「……」
ルティは、いつもの席でパンを食べている。
もぐもぐ。
変わらない動き。
「……」
バルドは、その前に座っていた。
じっと、見ている。
「……」
ルティは気にしない。
食べる。
「……おい」
声をかける。
「……?」
ルティが顔を上げる。
「お前、昨日と違うな」
「……」
少しだけ考える。
「……おなじ」
「いや違う」
即答だった。
「……」
ルティは、またパンを見る。
一口。
「……」
バルドは、少しだけ声を落とす。
「どこ行った、昨日」
「……」
動きが止まる。
ほんの一瞬。
「……もどった」
「どこに」
「……へん、ところ」
「……あの教会か」
「……」
こくん、と小さくうなずく。
「……」
バルドは黙る。
それ以上は聞かない。
聞いても、意味がないと分かっている。
「……まあいい」
そう言って、立ち上がる。
夕方。
仕事が終わり、店の中が静かになる。
「……はぁ」
バルドは椅子に腰を下ろした。
「今日は……なんだよ、これ」
「面白かったじゃないですか」
ミーシャが笑う。
「面白いで済ませるな」
「でも、客増えてましたよ」
「……」
バルドは黙る。
事実だった。
「……」
ルティのことを思い出す。
皿。
パン。
鍋。
全部。
「……」
静かな店の中で、バルドはぽつりとつぶやいた。
「……ルティ」
名前を呼ぶ。
もう、ただのガキとは思っていない。
「……あいつは」
言葉を探す。
そして。
「……ただのガキじゃねえな」
その言葉だけが、静かに残った。
外。
壁にもたれて、ガイルが空を見ている。
「……」
全部を見ていたわけじゃない。
だが、十分だった。
「……気づいたか、バルド」
小さくつぶやく。
「……」
視線を動かす。
通りの奥。
フードをかぶった影。
リオン。
「……」
あいつも見ている。
確実に。
「……面倒だな」
だが。
ガイルは、小さく息を吐く。
「……まあいい」
「……守るだけだ」
それだけ言って、影に溶けた。




