第11話 はじめてのよる
日が、少しずつ落ちていく。
町の色が、ゆっくりと変わり、さっきまで明るかった道も、建物の影も、人の流れも、少しずつ夜の中へ沈んでいく。
「……」
ルティは、道の途中で立ち止まった。
空を見る。
明るかった空が、暗くなっていく。
「……ねる」
ぽつりと、つぶやく。
暗くなったら、眠る。
それは知っている。
だから、寝る場所を探さなければいけない。
ただ、それだけだった。
「……」
きょろ、と周りを見る。
灯りのついた家がいくつも並んでいて、窓の奥には人の影が動いている。
知らない場所。
知らない灯り。
それでも、外よりはあたたかそうに見えた。
「……」
少しだけ考えてから、ルティは一番近くにあった建物へ向かった。
扉を押すと、がら、と少し乾いた音がした。
「いらっしゃい……って」
中にいた男が、言葉を途中で止める。
店の中は広くはないが、木の机と椅子がいくつか並び、奥には階段がある。
カウンターの向こうには鍋や皿が置かれているが、客の姿は少なく、どこか静かだった。
昔はもっと賑やかだったのかもしれない。
けれど今は、灯りだけが残っているような、少し寂しい場所だった。
「……?」
ルティは、店の中を見回す。
机。
椅子。
階段。
カウンターの奥に立つ男。
それから、男を見る。
「……ねる」
言った。
それだけ。
「……は?」
男が固まる。
「いや、えっと……泊まりか?」
「……?」
意味はよく分からない。
でも、言いたいことは変わらない。
「……ねる」
もう一度、同じことを言う。
男は頭をかき、しばらくルティを見る。
「……お金は?」
「……?」
ルティは首をかしげる。
少しだけ考えてから、大事に持っていたスプーンを取り出した。
「……これ」
差し出す。
「……」
男は、それを見てまた固まる。
「……いや、それじゃない」
「……?」
「お金。わかるか?」
「……」
ルティは考える。
でも、分からない。
だから、正直に言う。
「……ない」
「……はぁ」
男は大きくため息をついた。
「……だよなぁ」
ちら、と外を見る。
もう夜は近い。
小さな子どもを、このまま外に出せる時間ではなかった。
「……帰るとこは?」
「……?」
また分からない言葉だった。
でも、帰る場所を聞かれていることだけは、なんとなく分かる。
「……ない」
「……」
男は黙った。
その沈黙は、さっきまでより少しだけ長かった。
「……奥」
やがて、短く言う。
「とりあえず入れ」
「……?」
ルティは、言われた通りに歩いた。
奥の小さな部屋には、ベッドがひとつ置かれていた。
簡素な部屋だった。
余計なものはほとんどなく、古い棚と、小さな窓と、薄い毛布があるだけだった。
「……」
ルティはベッドの前で立ち止まる。
少し近づいて、手を伸ばす。
触る。
やわらかい。
「……」
そのまま、じっと見る。
しばらくしてから、視線を外す。
床を見る。
そして、すた、とそちらへ行くと、そのまま床に座り込んだ。
さらに、ごろん、と横になる。
「おい」
すぐに声が飛ぶ。
「なんで床だ」
「……?」
ルティは顔を上げる。
ベッドを見る。
床を見る。
それから、床を指さす。
「……ここ」
「いや、上で寝ろ」
「……」
少しだけ考えてから、ルティは小さく首を振る。
「……しらないとこ」
ぽつりと言う。
「……?」
「……ここ、ちかい」
床に手を置く。
「……だいじょうぶ」
「……」
男は言葉を失った。
意味は分かるようで、分からない。
ただ、その小さな体が床に頬をつけて、本当に落ち着いたようにしているのを見ると、何か言い返す気が少しだけ削がれた。
「……いや、意味わかんねえけど」
男は頭をかく。
それから、もう一度ため息をついた。
「……上で寝ろ。床は冷える」
「……」
ルティは少し迷う。
それから、ゆっくりと起き上がる。
ベッドを見る。
もう一度、そっと触る。
さっきより少しだけ短い間。
「……」
慎重にベッドへ上がる。
体が少し沈む。
「……」
びくっとする。
でも、降りない。
そのまま横になり、少しだけ体を丸める。
手には、スプーンをぎゅっと握っている。
「……それは離せ」
「……」
首を横に振る。
「……いる」
「……はぁ」
男は、あきらめたように息を吐いた。
「……好きにしろ」
「……」
ルティは、そのまま目を閉じる。
すぐに、すっと眠りに落ちた。
男はしばらく、その小さな寝顔を見ていた。
あまりにも簡単に眠った。
外から来た子どもが、知らない部屋で、知らない男の前で、スプーンを握ったまま眠っている。
普通なら、もっと泣いてもいい。
もっと怯えてもいい。
それなのに、この子は床の方が安心だと言い、ベッドに乗せられたあとも、道具ひとつを握っただけで眠った。
「……なんだってんだ」
男は小さくつぶやく。
部屋を出ようとして、ふと足を止める。
小さなベッド。
小さな毛布。
そこに眠る、小さな子ども。
一瞬だけ、ずっと前の光景が重なった。
娘がいた。
今のルティより、少し年上だった。
よく笑う子だった。
食堂の椅子に座って、足をぶらぶらさせながら、焼きたてのパンを待っていた。
妻はそんな娘を叱りながらも、いつも最後には笑っていた。
この店は、昔はもっと騒がしかった。
客も多かったし、妻が厨房に立ち、娘が勝手に手伝おうとして皿を割り、常連たちがそれを笑っていた。
そういう音が、毎日のようにあった。
けれど、流行り病が町に入ってきた年に、全部変わった。
最初はただの熱だと言われた。
すぐ治ると誰もが思っていた。
けれど、妻は起き上がれなくなり、娘もそれを追うように弱っていった。
店を閉めて看病した。
薬も探した。
祈りもした。
それでも、戻らなかった。
それから、この店は静かになった。
客は来る。
料理も出す。
宿も開ける。
けれど、どこかで全部が止まったままだった。
誰かを泊めることも、誰かに食べさせることも、ただ店を閉めないために続けているだけだった。
「……」
男は、寝ているルティを見る。
スプーンを握った小さな手。
やせた腕。
まだ安心を知らないような寝方。
「……放っとけるわけ、ねえだろ」
誰に言うでもなく、そうつぶやく。
それはルティへ向けた言葉なのか、昔の自分へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ただ、今夜だけは、この子を外へ出さなかった。
それだけだった。
男は静かに部屋を出ると、扉を完全には閉めず、少しだけ開けておいた。
もし夜中に起きても、暗闇で迷わないように。
それから店の方へ戻り、ひとつだけ残した灯りを少し弱める。
誰もいない食堂に、古い木の椅子と机の影が落ちていた。
「……まったく」
小さく息を吐く。
「厄介なの拾ったな」
そう言いながらも、その声は本気で嫌がっているようには聞こえなかった。
外。
屋根の上。
「……」
ガイルが、静かに座っている。
下を見ている。
店の奥の小さな部屋に、ルティの気配がある。
乱れてはいない。
不自然な動きもない。
「……」
小さく息を吐く。
「……床かと思ったら、ちゃんと上か」
ぽつりとつぶやく。
ほんのわずかに、口元が緩む。
「……手がかかるな」
それだけ言うと、再び視線を落とした。
警戒は解かない。
夜は、まだ長い。
朝。
ルティは目を覚ました。
知らない天井。
木の梁。
薄く差し込む朝の光。
「……」
少しだけ、ぼんやりする。
それから、手を見る。
スプーンがある。
「……」
こくん、と小さくうなずく。
次に、ベッドを少しだけ叩く。
やわらかい。
昨日、少しだけ怖かった沈み方は、今はそこまで怖くない。
「……」
少しだけ考える。
「……これ、いい」
ぽつりとつぶやく。
新しく覚えたみたいに。
それだけで、少し満足した。




