第10話 ちゃんと、効いた
午後。
森の空気は、朝よりも少しだけ湿り気を帯びていて、葉の匂いと土の匂いが混ざり合いながら、静かに部屋の中へ流れ込んでいた。
窓から差し込む光も、どこかやわらかく、ゆるやかで、時間がゆっくりと進んでいることを感じさせる。
「ザーラ、いる?」
扉の向こうから、聞き慣れた声がする。
「……いるわよ」
ザーラが短く応える。
すぐに扉が開く。
そこに立っていたのは——ミーナ。
でも。
いつもと、違う。
「ちょっと……ごめん、急ぎで」
息が少し上がっている。
腕の中には、小さな包み。
大事そうに、でも焦るように抱えられている。
「……」
ルティが、そっと顔を上げる。
「熱が出ててね、さっきからぐったりしてるの」
ミーナの声は、いつもの明るさを少しだけ失っていて、焦りと不安がそのまま滲んでいる。
布にくるまれた子ども。
見たことのない子。
でも。
その顔を見た瞬間、ルティにもわかる。
——つらい。
苦しい。
「……見せて」
ザーラの声が、ほんの少し低くなる。
空気が、変わる。
すぐに場所を空ける。
寝かせる。
「……」
額に、手を当てる。
「熱いわね」
指先で確かめるように。
呼吸を見る。
喉の動き。
肌の色。
まぶたの重さ。
「……」
ルティは、少し離れたところで、じっと見ている。
胸の奥が、ざわざわする。
落ち着かない。
「……」
あの子。
苦しい。
「……」
理由はわからないのに。
胸が、ぎゅっとなる。
ザーラが、棚に手を伸ばす。
瓶を取る。
小さな、あの瓶。
「……!」
ルティの体が、ぴくっと揺れる。
それ。
それは——
「……これ」
ザーラが言う。
「さっきのやつ」
「……!」
ルティの目が、大きく開く。
時間が、ほんの一瞬止まる。
「……ほんと? 助かる……」
ミーナの声が、かすかに震える。
「水で薄めて、少しずつ飲ませる」
「うん……」
ルティは、動けなかった。
ただ、見ていることしかできない。
「……」
ザーラが、薬を水に溶かす。
ゆっくりと。
慎重に。
さっき自分が作ったものが、形を変えていく。
「……」
それを、子どもの口元へ運ぶ。
「……ほら」
少しずつ。
無理をさせないように。
ほんの少しずつ。
「……」
飲んだ。
ほんの一口。
ほんの少しだけ。
沈黙が落ちる。
部屋の中が、しんと静まり返る。
「……」
何も、変わらない。
まだ。
「……」
ルティの手が、ぎゅっと強く握られる。
スプーン。
いつもより、ずっと強く。
「……」
もし。
もし——
効かなかったら。
「……」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
苦しい。
息が浅くなる。
「……大丈夫」
ザーラが、静かに言う。
落ち着いた声で。
「もう少ししたら、下がる」
「……うん」
ミーナが、うなずく。
でも、その手は。
子どもの手を、離さない。
ぎゅっと。
祈るみたいに。
時間が、ゆっくり流れる。
とても長く感じる。
誰も、ほとんど喋らない。
「……」
ルティは、じっと見ている。
瞬きも忘れるくらいに。
ただ、そこに集中している。
やがて。
「……あ」
ミーナが、小さく声をもらす。
「……?」
ザーラが視線を向ける。
ルティも、はっとして見る。
「……」
子どもの呼吸が、変わっている。
さっきより、ゆっくり。
少し、深く。
「……」
ザーラが、もう一度額に触れる。
確かめるように。
「……下がってきてる」
「……っ」
ミーナの肩が、小さく震える。
「ほんと……?」
「ええ」
「……っ」
その場に、へたりこむ。
力が抜けたみたいに。
「よかった……ほんとに……」
ぽろぽろと、涙がこぼれる。
止まらない。
「……」
ルティは、動けない。
今の。
今、起きたこと。
「……」
子どもを見る。
さっきより、少しだけ楽そうな顔。
「……」
ザーラを見る。
ミーナを見る。
「……」
それから——
自分の手。
スプーン。
「……」
さっき。
自分が、作った。
「……」
ゆっくり。
本当に、ゆっくり。
理解が、追いついてくる。
「……!」
目が、大きく開く。
息が、止まる。
「……」
それ。
あれ。
「……」
自分が、やった。
「……」
この子。
楽になった。
「……っ」
涙が、こぼれる。
ぽたり。
ぽたり。
「……」
声にならない。
でも。
止まらない。
「……っ」
胸がいっぱいになる。
苦しいくらいに。
でも——
あたたかい。
とても。
とても、あたたかい。
「……ルティ」
ザーラが呼ぶ。
「……っ」
顔を上げる。
涙で、ぐちゃぐちゃのまま。
「……」
ザーラが、少しだけ目を細める。
「……ちゃんと効いたでしょ」
静かに。
確かめるように。
「……」
ルティは、何度も、何度も頷く。
止められないくらいに。
「……」
ミーナが、顔を上げる。
涙を拭きながら。
でも、まだにじんでいる。
「……ありがとう」
まっすぐに。
迷いなく。
「この子、あんたが助けたのよ」
「……!」
その言葉が、胸の奥に落ちる。
深く。
まっすぐに。
「……っ」
首を振る。
違う。
全部は、わからない。
でも——
「……」
スプーンを、ぎゅっと握る。
「……」
ザーラが、そっと言う。
「一人じゃない」
「……」
「一緒にやったでしょ」
「……っ」
こくん。
強く。
何度も。
部屋の中は、静かだった。
でも。
その静けさは、朝のものとは違う。
そこにあるのは。
張りつめたものじゃなくて。
やわらかくて。
あたたかくて。
ほどけていくような——
安心。
ルティは、スプーンを見つめる。
それから。
そっと、胸に当てる。
それはもう、
ただの“宝物”じゃない。
誰かを助けた証であり、
そして——
ここにいていい理由になった。




