7. 妹の手紙と、客間
二十日目の昼、家令が手紙を運んでくる。封を見ただけで、妹の字だと分かる。峠を越えた紙は、指に載せると冷たい。
『侯爵家のお話は、流れましたの。届けの期限までには着くわ。離れを用意して。お姉様は、着いたら家へお戻りなさい。父上がお待ちよ』
届けは、期日から三十日の内に出す。妹はその日を期限と呼び、父が待つのは帳を付ける手だ。折り目をなぞって手紙を畳むと、紙が小さく鳴る。
「承知しました」
「……ふん」
「では、客間を」
「……客間、でございますか?」
「はい。妹は客です。……届けが出るまでは」
家令の眉が片方だけ上がり、問いを挟むように深い皺が寄る。
「お着きになったあとは、いかがなさいます?」
「届けの名で決まります」
「客間の火は、いかがなさいます?」
「客にも火は要ります」
家令は手紙を持ったまま、冷えた廊下の奥へ首を回す。先代の頃から、あの客間に火が入ったことは数えるほどしか無いという。
「離れは、薪の蔵でございますが」
「離れは、薪の蔵です。乾いた屋根は、他にありませんので」
家令は手紙をもう一度確かめ、それから離れの方角へ、目を向ける。
「妹御は、離れと書いておいでで」
「妹は、離れに薪があることを知りません。着いたら、見ます」
「……ふん。見て、どうなさいますかな?」
「客間へ。火は入れておきます」
客間へ行き、炉を開ける。白く固まった灰を火箸で崩すと、埃が舞い、鼻の奥に古い石の匂いが刺さる。長く、熱を忘れていた色だ。料理番が薪を抱えて来るが、戸口で靴音を止める。
「奥様、客間に火を? お客が来られるんですか?」
「妹が来ます。届けの期限までに」
料理番の目が離れの方角へ動き、抱えた腕がわずかに沈む。あちらの薪を、と言いたいのだと分かる。
「離れの薪は、離れのままです。客間は、客間の薪で」
料理番は薪を炉の脇へ積む。木の匂いが、冷えた灰の上に広がる。
「妹御さまは、どんな方で?」
「寒がりです。火は、強めに」
料理番は頷き、薪をもう一本、炉の脇へ足す。木肌が石床を擦り、低く鳴る。
妹の寒がりを知っているのは、王都でも同じ家にいたからだ。冬の夜、その部屋の火を足していたのは、母が没してからずっと、わたしだった。ぬくもりが増したことにも気づかず、あの子は眠る。知らないままでいられるように手を動かすのが、わたしの務めだった。客間の炉に細い炎が立ち、冷えた石へ薪の匂いがほどけていく。
表の執務室へ行き、印箱を置く。木の底が机を打つ重い音にも、地図を見ている閣下はすぐには動かず、顔を上げるまでの間に冷えた空気が沈む。手紙のことは、家令が先に伝えてある。
「妹御から、手紙が来たそうだな」
「はい。侯爵家のお話が流れた、と」
「……流れた、か」
「王都の縁談は、流れるものです。北の薪の道より、よく切れます」
印箱を、机の閣下の側へ寄せる。木の底が地図の端を擦り、音が指へ返る。
「妹が、届けの期限までに参ります。印を、お返しします」
閣下は印箱へ目を落とすが、手を出さない。地図の上で止まった指は、どの道も選べないように、薄い紙を強く押さえている。
「……持っていろ。まだ、繋ぎの内だ」
「承知しました」
「……王都へ戻るのか?」
「父が、待っておりますので。……伯爵家の帳を」
閣下の目が、机の上の印箱へ落ち、蓋の継ぎ目に長く留まる。
「……帳を付ける手、か」
「はい。手は、家に要るものですので。名は、要りません」
閣下の指が地図から離れ、行き先を失ったように机の縁で止まる。爪の先だけが、木肌をかすかに掻いている。
「……帳は置いていけ」
「切れ目の帳は、この家の物です」
「お前が書いた帳だ」
「書いたのはわたしですが、切れ目はこの家の物です。帳は、切れ目の側に残ります」
閣下は何も言わない。視線が印箱からわたしへ移り、また地図に落ちる。窓から来る冷えが、机の上へ薄く積もる。
「客間は、どこにする?」
「表の廊下の奥です。火は、今日から入れます」
「……客間の火は、誰が見る?」
「わたしが。妹が着くまでは、切れ目ですので」
閣下の目が、また印箱の蓋に留まる。中の印から、朱がかすかに匂う。
「……妹御は、寒がりか?」
「はい。王都の冬でも、夜に火を二度足しました」
閣下の視線が窓の外へ逃げ、薄い冬の光に紛れる。
「……お前も、客だったか?」
「はい。初霜の日は、客でした。翌朝から、繋ぎです」
まだ、という一言を印箱ごと抱え直し、奥へ戻る。来た日と同じ重さが腕へ沈む。それでも角は、もう借り物のようには冷たくない。返しに行って、受け取ってもらえなかった物だ。
帳の最後の行に、わたしは自分の席を書いた。
奥の席。その横に、妹の着く日を置く。次に印を持つ者への覚えも添える。薪は、一荷に一枚。朝の湯は、巡視の前に。井戸と鐘、それぞれの綱の麻は、秋に買う。橋の板は、上の村の材。どれも、家を止めないための言葉だ。手を離れても読めるよう、紙の目に沿って細く書く。
戸口に家令が立ち、肩越しに帳を覗いている。紙を繰る音さえ立てず、わたしの筆が止まるのを待つ。
「……奥様。その行は爺が書くべき行でございます」
「わたしの席ですので、わたしが書きます」
「先代の奥様は、ご自分の席を書かれませんでした」
「先代の奥様は、退く日をご存じなかったのです。わたしは知っています」
家令の目が、帳の行から、わたしの筆を持つ手へ移る。太い指が、戸口の木枠をそっとつかむ。
「……知っておいでで、書かれるので?」
「知っているから、書けます。知らない行は、誰にも書けません」
家令が鼻を鳴らしかけ、喉の奥で音を呑んでやめる。
「……退く日を書く奥様は、爺の代で初めてでございます」
「書かない切れ目は、誰にも見えませんので」
書いているあいだだけ、指は震えない。紙のざらつきへ筆先を押しつけ、墨が乾かぬうちに帳を閉じる。厚い表紙へ触れたところで、遅れて細かな揺れが戻る。その硬さだけが、熱の抜けた手のひらを机につなぎ止めている。
「では、次は兵の冬着を。妹が着く前に」




