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6. 橋の板

 十二日目の朝、下の村の者が門に来た。荷車は無い。帽子を胸に当て、坂を上って乱れた呼吸を整えている。白い息の向こうで、縁に残った霜が薄い日差しを鈍く返す。


「橋の板が、三枚落ちただで。荷車が通れんで」


 下の村の橋は、川を越えて屋敷へ来る往来に掛かり、その先は峠を越えて王都へ通じる。王命が兵糧の道と呼ぶ道筋も、ここを使う。人は残った板を伝って渡れるが、荷は無理だと、男は帽子の布を拳に食い込ませたまま告げる。使われていた材は、上の村から出たものだという。


 切れ目の帳を開く。橋の板の行は、五日目からずっと空いている。陳情の三つ目だ。


「板が落ちてから、荷は?」


「担いで渡っとるだで。薪は一荷ずつ、背中で。……奥様の割符が、背中の分しか付かんで」


「では、荷車の分だけ薪が遅れているのですね。割符は、荷の分だけ付きます」


 男は深く頷き、握っていた帽子を被り直す。縁から離れた指には、布の跡が白く残る。


 昼、上の村の長が薪の荷と一緒に来た。門で割符を渡すと、板の話を切り出す。帽子には白い木屑が付き、冷たい風へ材の匂いがほどける。


「板なら、うちの乾いた材だで。……割符で?」


「一荷に一枚。材も荷です」


「板を切るのに、明後日までかかるだで」


「では、明後日に。手の当ては、これから」


 長は帽子を被り直し、軋む荷車を返す。材は上の村の木、手は兵。残る釘と鉄の帯は屋敷の蔵になく、買い入れねばならない。橋は表の物だ。帳のどちら側へ置くか、その行だけ紙の白さが冷たい。


 表の執務室へ行く。閣下は地図の上に両手を置いていた。窓の薄い光が国境の線を白くし、その中で指だけが止まっている。


「橋の板の当てが付きました。上の村の材、兵の手。表の帳から出るのは、釘と鉄の帯の代だけです」


「橋は、表だ」


「川は、どちらの帳にも載っていません」


 閣下は地図から目を上げ、わたしが差し出した切れ目の帳へ視線を移す。橋の板の行。その横は、空いている。


「……板を、兵に運ばせるのか?」


「架けるのは、兵の手が一番早いと聞きました」


「誰に聞いた?」


「下の村の者に。先代の奥様がおられた頃までは、兵が架けていたそうです」


 閣下の指が、地図の上で一度止まる。爪の先は国境の線に触れたまま、動かない。


「……母の頃までは、か」


「去年は、架かりませんでした。板は、去年から痛んでいたのだと思います」


 閣下は帳を見たまま、しばらく黙る。それから机の抽斗を開け、表の印を取り出す。奥印より一回り大きく、朱の色も濃い。持ち慣れない重さを測るように、指先が軸を探り、そのまま紙の上へ構える。


「表の印は、俺が押す」


 帳の橋の板の行の横に、朱が押される。淡い奥印の隣に濃い表の印が置かれ、二つの跡は同じ行に並ぶ。まだ湿った色が、窓の光を小さく返す。


「釘代は、表から出す。……材は?」


「割符で。奥から出ます」


「橋は、どちらの物になる?」


「川の物です。渡る者の物です」


 閣下の指が、地図の川の線をゆっくりなぞる。紙が、爪の下でかすかに鳴る。


「……渡る者、か」


「薪の荷も、麦を取りに来る村の者も。閣下の兵も、渡ります」


「……俺も、渡る」


「はい。閣下も、渡る者のお一人ですわ」


 閣下が、帳の上の表の印へ目を落とす。濃い朱だけが、窓の光の下でまだ濡れている。


「……川の帳に、俺の印か?」


「はい。渡る者の印です。帳の側も、閣下の側も」


 閣下は印を机の抽斗へ戻す。それから、地図の国境の線を指で押さえたまま、低く言う。


「兵を橋に回す。巡視は、その日は俺が一人で行く」


「板を架けるのは、明後日です」


「……明後日か」


「上の村の長が、材を切るのに明後日までと」


 閣下は地図を見たまま頷き、それ以上は言わない。帳の上では二つの朱がまだ乾かず、鉄にも似た匂いを静かに立てている。わたしの冷えた指には、その色だけが火種のように残る。


       ◇


 十四日目、橋。水は冬の鉄の色をたたえ、抜けた所から白い流れがのぞく。川風が裾を打つなか、兵が板を担いで坂を下りてくる。その列に閣下がいた。外套を脱ぎ、自ら一枚を肩へ載せ、冷気の中を歩いている。


 下の村の者の手から、帽子が落ちる。霜の残る土へ、小さな音が転がる。


「殿が、板を……」


 男は土のついた帽子を拾い、胸へ当て直す。縁を押さえた指が、しばらくほどけない。


「殿が担ぐなら、わしらも担ぐだで」


「では、荷は背中で、板は肩で。どちらも川を渡ります」


 閣下は何も言わず、板を橋の袂へ下ろす。兵も続き、重い音が冷えた岸に重なる。上の村の長は材を数え終え、その木口を見て頷く。


「乾いた材だで。よう持つだで」


「一荷に一枚。材の分です」


 割符を長へ渡す。厚い札がわたしの指先からその掌へ移り、角が皮膚を擦る。受け取った男は懐へ収め、板の新しい切り口を撫でた。


「先代の奥様のときは、橋は殿のお仕事だっただで」


「今も、閣下のお仕事です。板を担いでおいでですので」


 閣下が橋の袂から、下ろしたばかりの板へ目を置いたまま、短く問う。


「……釘は、誰が打つ?」


「兵が。手は、閣下がお決めになりました」


 兵が板を渡す。釘を打つ硬い響きが、冷たい川の音へ重なる。若い隊長は端を掌で押さえ、声にして数を追う。


「板、揃いました。釘は表から、材は奥から」


「では、橋は川から」


 若い隊長が、余った板の木口へ目をやり、確かめてから言う。


「奥様。板の余りは、どちらへ?」


「離れへ。乾いた屋根の下に、薪と一緒に」


 閣下は袂に立ち、打ち込まれる釘を一本ずつ見ている。手は出さない。けれど、目は最後の一本まで逸れず、外套を脱いだ肩を川風が冷たく打つ。それでも、その人は外套を取りに戻らない。


 板が渡る。最初にその上を行くのは、下の村の薪の荷車だ。車輪が新しい木を踏むたび、鈍い音と細かな震えが足裏へ伝わる。向こう岸に着くと、村の者が帽子を高く振る。


 閣下が橋の上に立ち、遠ざかる車輪の音を聞いてから、短く言う。


「……渡ったな」


「はい。切れ目は、川にもありましたので」


 閣下は袂に繋いだ馬へ乗り、外套を取りにも戻らず、一人で国境の道を上っていく。冷えた肩を冬の薄い光にさらし、巡視へ、言った言葉のとおりに。


       ◇


 夜、帳の橋の板の行に線を引く。その横には朱が二つ並び、灯の下で深い赤を返している。ざらつく紙へ指を添えると、思わず、声に出る。


「表の朱と、奥の朱が、同じ帳に」


 家令が戸口から覗き、低く言う。灯りの外では、木枠に添えた手だけがじっと動かない。


「……ふん。先代の奥様の帳には、表の朱は一つもございませんでした」


「切れ目が川にあったので、川の帳になりました」


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