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5. 初雪の夜、薪を一本

 十日目、初雪の夜。奥の間で紙を繰る。切れ目の帳は、綴じ目まで指に冷たい。頭には、誰にも頼まれていない一行がある。殿の朝の湯、一杯。その下に給金、薪の道、陳情、食卓、井戸の綱、鐘の綱。繋いだ行には線がある。橋の板の行だけが、口を開けている。火が細ると、紙面は青白く見え、墨の言葉がその白さの底へ沈んでいく。


 窓の外では、初雪が音もなく落ちている。それは声を持たず、闇が白く薄まる気配を目の端で拾うだけだ。炎は細く、石の冷えが足もとから上がり、紙の白さばかりが目につく。戸が開いて夜気が入り、閣下が暖炉へ薪を一本足す。乾いた木はすぐに爆ぜ、赤い火の粉と森の匂いを部屋へほどく。


「繋ぎに、これは含まれるか?」


 薪が、もう一度爆ぜる。舌に乗った答えは、その音を待たずにこぼれる。


「含みます。切れ目ですから」


「……切れ目か」


「はい。今夜は、火が細っていました」


 閣下は椅子に座り、炎を見ている。明かりが横顔をなぞり、頬の影を静かに揺らす。外套は脱いでいない。長居をしない者の浅い座り方なのに、腰は上がらない。薪の一本が、炉の中で赤く割れる。その手は、木を足したときの曲がりを残したまま、膝の上に伏せられている。赤く割れた一本が、帳の切れ目に見えた。頼まれてもいないのに、この人は空いたところを繋ぎに来たのだろうか。わたしが置く朝の湯と、同じ形をしている。


「……雪は、初めてか?」


「北の雪は、初めてです」


「王都の雪とは、違うか?」


「音がしません。王都の雪は、通りの声と一緒に降ってきます」


「王都から嫌々来た女に、務めまで負わせる気はなかった。……母は、一人で家を回していた人だ。頼み方は、教わっていない」


 母は、一人で家を回していた人だ。その一言の奥に、閣下が過ごした一年の重さが沈んでいる。家を回す手が失われ、やり方を知らない息子が一人で、冷えた屋敷の全部を抱えた一年。自分でやる、と口にした言葉が、帳に載らない払いとなって積もっている。


「教わっていなくても、務めは回ります」


「……ああ、回っているな」


 火がまた爆ぜ、その音が、言葉の置かれない間を埋めていく。


「閣下が、印をくださいましたから」


「使い方も知らん物を、渡しただけだ」


「使い方を知らない物を、渡してはいけません。渡された側が覚えるだけです」


「……返せとは言わん」


「そう言われても、お返しするのは妹が着いてからです」


 閣下の目が、机の端の印箱へ滑る。蓋の縁に、炎の色が細く宿る。


「……印は重いか?」


「重いです。渡された日と同じ重さで、軽くはなりません」


 閣下の目が帳へ落ちる。炎の色を受けた紙の上で、乾いた墨の行だけが静かに浮き、こちらへ重さを返してくる。


「これは何の帳だ?」


「切れ目の帳です。繋いだら線を引きます」


「……誰に見せた?」


「誰にも。閣下が初めてです」


 閣下の指が、帳の頭の行で止まる。紙を押さえる腹に、かすかな力がこもる。


「湯、と書いてある」


「巡視の前の一杯です。切れ目でしたから」


 最初の行を、閣下は長く見ている。炎が揺れるたび文字の影はぶれるのに、その視線だけは動かず、紙の上へ留められたようだ。


「頼んだ覚えは無い」


「頼まれた覚えもありません。ただ、切れ目がそこにありました」


「……冷めていたことは、一度も無いな」


「巡視にお出になる前に置いています。冷めない間に、お出になりますから」


 火が、小さく鳴る。ほどけた樹の匂いが、言葉の途切れたところへ満ちる。


「……いつまで置く?」


「切れ目が無くなるまで。閣下が、ご自分で置かれるまでです」


 湯が冷めていなかったことを、この人は覚えている。誰が置いたかは訊かず、その温度だけを、確かめるように口にした。


 閣下は帳の行を、指の腹でなぞる。墨はもう乾き、紙の細かな毛羽が皮膚を押し返している。わたしは薪を一本、炉の脇から取り、先ほど足された木の隣へ置いた。足すのではない。手が届く場所へ、置いておくだけだ。


「綱が二本ある」


「井戸の綱と、鐘の綱です。麻はどちらも、同じ束から取りました」


「……母の麻か?」


「はい。先代の奥様が、秋に買い置かれた分です」


 閣下の目が、帳からわたしの手へ移る。麻に擦れて剥けた指の皮は、まだ塞がらず、炎の熱に細くひりついている。


「手が荒れている」


「麻の分です。二本、綯いました」


「……綱なら、兵に綯わせればいい」


「兵は綯い方を知りません。知っていたのは、家令殿だけです」


 閣下の視線が、わたしの手から帳へ戻る。二本の綱の行は、同じ墨の色で並び、どちらが井戸へ下り、どちらが鐘を鳴らすのか、紙の上では見分けがつかない。


「母が綱を綯っていたとは、俺は知らなかった……」


「巡視にお出の頃に、綯っておいででした。お帰りの頃には、綱はもう村に」


 知らなかった、という言葉が、火の音より低く、冷えた石へ落ちるように響く。知らなかったのは怠りではない。母が、知らせなかったのだろう。一人で回す人は、働く手を誰にも見せず、帳にも載せない。わたしにも、覚えがある。


 閣下は何も言わない。手が、綱の行の下で止まる。湯の行には、朝ごとに短い線が一本ずつ増えている。それも数えたらしく、端まで来た指先の動きが途切れ、紙がかすかに沈んだ。


「橋の板、と書いてある。線が無い」


「下の村の陳情です。板は表の物ですので、線はまだです」


「線は、いつ引く?」


「繋いだ日の夜です。今夜はまだです」


 閣下の指が、空いた行を押さえる。紙がかすかに鳴り、白い余りだけが問いの形で残る。


「線を引かない行は、どうなる?」


「そのまま残ります。切れ目が、そこにあった印です」


「……表か」


 閣下は帳から目を上げ、炎を見る。薪が崩れ、火の粉が一つ、冷えた石の上で赤さを失う。わたしは火箸で燃えさしを寄せ、乱れた形を整える。指の皮が剥けた所は熱にひりつき、鉄の柄まで重くなる。窓の向こうでは、雪が音を立てず、夜の白さを積み上げていく。


「妹御が着いたら、この帳はどうする?」


「次に印を持つ方への、覚えにします。薪は一荷に一枚。湯は巡視の前に」


「……帳も妹御に渡すのか?」


「印と一緒に渡します。帳は、印に付いて行きます」


「……妹御は、この帳を読めるのか?」


 問いは短く、答えを待つ間だけが長い。炉の音も細り、帳の縁に置かれた指は動かない。


「読めません。読めるように別に書くのが、覚えです」


 閣下の指が、帳の縁を撫でる。紙が、その腹の下でかすかに鳴る。


「……覚え、か」


「帳は、人が替わっても読めるように書く物です」


「……この家には、まだ切れ目があるのか?」


「あります。橋の板と、兵の冬着と、雪囲いです。冬は切れ目の季節です」


 閣下は覚え、という言葉をもう一度口の中で繰り返したらしく、唇だけが動いた。妹が着けば、この帳は次の手へ渡る。渡すために書く物を、今夜、この人が読んでいる。炎の明かりを受け、その指だけが縁に残っている。


「妹御は来るのか?」


「社交期が終われば、と聞いています。王都の社交期は、北の雪よりも遅く終わります」


「……そうか」


 閣下は立ち、戸の前で一度止まってから出て行く。靴音が廊下の冷えへ遠ざかっても、足した薪の分だけ部屋は明るい。その熱は、紙を持つわたしの指先へ、遅れて届いてくる。


 帳へ目を戻す。頭の行には、殿の朝の湯、一杯。頼まれずに置いたそれは載り、線も朝ごとに増えている。あの一本は、どの欄にも収まらない。給金でも薪の道でもない。頼まれた覚えも、繋いだ記しも無い。それでも、炎はもう細くない。紙を照らす赤さが、指に残る熱と同じように、消えずにいる。


 頼まれなかった湯と、頼まれなかった薪。同じ形の二つのうち、帳に載るのは片方だけだ。わたしが繋いだ切れ目は、行になる。わたしの切れ目を誰かが繋いだ分は、行にならない。線を引く手は、自分の切れ目には届かない。


 筆を取り、置く。薪の一本を書く行が、無い。


 帳を閉じかけて、もう一度開く。橋の板の行の下、何も書いていない余白を、指でなぞる。そこに書けば、行になる。書く手が、まだ動かない。


「線は、まだ引けません」

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