4. 見張りの鐘
八日目。若い隊長が、冷気を背に奥の間の戸口に立った。背が高く、外套の襟は霜で白い。敷居を跨がず、境を守るようにそこにいる。表の兵がここへ来るのは、初めてだ。
「綱、一本。見張り台の鐘の綱が古びて、切れかけです。麻は奥にあると聞きました」
家令が、帳越しに低く言う。
「表の物は、表の帳でございます。……ふん」
「表の帳には、綱の欄が無い、と殿が仰いました」
若い隊長は、それだけで口を閉ざす。言葉の数からして、余分を足さない人らしい。家令が、帳へ重く手を置いて、隊長に問う。
「殿が、奥へ行けと仰せに?」
「いえ。麻は奥にある、とだけです。行けとは仰いませんでした」
「……ふん。では、誰の考えで来た?」
「自分の考えです。綱が切れれば、鐘は鳴りません」
家令が、こちらを向く。
「表の兵が、奥の敷居で待っておりますぞ」
「では、敷居の内へ。切れ目の話は、入ってからします」
隊長は足元の敷居を見てから、静かにそれを跨いだ。霜の付いた靴が、奥の冷えた板を一度だけ鳴らす。
兵と巡視と国境は殿の領分で、表の印が動かす。屋敷と村の暮らしは女主人の預かりで、奥印が動かす。その間は紙に墨の線として引かれ、鐘の綱はちょうどその線の上に落ちていた。王都の伯爵家では、表も奥も一つの帳だ。ここで分けるのは、兵を持つからである。それを持たなかった家の娘は、境の線を今日初めて見る。若い隊長に、訊く。
「鐘は、何を報せるためのものですか?」
「国境からの報せです。鳴れば、屋敷も村も動きます」
「切れかけたまま、鳴らしたことはありますか?」
「一度。綱が伸びて、音は半分でした」
「では、切れ目です」
隊長の答えを聞いて、家令が、帳の新しい行へ目を落とす。
「……ふん。奥の帳に、鐘の行を設けるのでございますか?」
「鐘は、屋敷と村を一度に繋ぐ綱です。奥の帳なら、いちばん近い行です」
家令が帳をぱたりと閉じ、鼻を鳴らす。
「奥の麻を、表の綱に。……先代の奥様なら、黙って綯われたことでしょうな」
「では、わたしは黙らずに綯います」
麻はまだ残っている。昨日より慣れた指で綯うあいだ、薪の匂いが立ち、炉の熱が背を温める。細い筋は昨日より素直に揃う。針の先ほどの痛みは同じだが、その場所を手が覚えている。若い隊長は机の脇に立ち、綯い上がる長さを測る。
「見張り台は、どれほどの高さですか?」
隊長が、台のほうへ目を上げて答える。
「綱で、あの台の倍と。余りが要ります」
「では、余りを長めに用意します」
隊長は伸ばしかけた手を引き、両手を背に回す。
「……鐘の高さから落としても、切れませんか?」
「切れないように綯います。もし切れても、綯い直します」
昼、閣下が来た。今日は冷えた戸口を越え、机の前に立つ。
「これは……。鐘の綱は、奥の領分か?」
「切れ目に、表も奥もありませんわ」
「……表の帳には、綱の欄が無い」
「では、切れ目の帳に載せます」
閣下が、綯い上がった綱へ目を落とす。
「……その綱を、表へ持って行くのか?」
「鐘の下まで運びます。受け取るのは、隊長殿です」
閣下の目が、紙の上を往復する。表の帳に無い欄が、奥へ一行ずつ増えていくさまを、この人はじっと数えている。やがて口を閉ざし、綱から麻へ、そこから赤くこわばったわたしの指へと視線を移す。それから若い隊長へ顔を向ける。
「受け取りは、お前がやれ」
「はっ」
閣下は自分では綱に触れず、出て行く。若い隊長が、綱の端を両手で受け取る。
「重さ、二本分。井戸の綱より太いです」
「鐘のためです。切れては困りますので」
「……奥様。兵にも、綯い方を教えていただけますか?」
「では、次の麻が来たら教えます」
◇
九日目、見張り台。表の門へ着くと、兵が重い戸を開けて脇へ寄る。冷えた蝶番が軋み、家令が後ろから言う。
「奥様が表へ。……ふん。先代の奥様は、表のこの門をくぐられませんでしたぞ」
「くぐらなくても屋敷が回るなら、くぐりません。今日は、鐘がこちらにあります」
見張り台は屋敷の東の端にあり、石の階段が冷気の中へ伸びている。上には鐘が一つ、灰色の空を背に黙る。兵が登り、古びたものを新しい麻の綱へ掛け替える。下から見上げれば、その淡い色だけが雲の下に明るい。風は高く、外套の裾を乾いた音で打つ。
「掛かりました。上を締めます。……新しい綱は、まだ手に馴染みません」
登った兵の声が、風を縫って落ちてくる。若い隊長が、下から短く返す。
「一度。締めたら、馴染むまで鳴らせ」
見張り台の下で待つあいだ、若い隊長が横に立つ。風に揺れる綱が柱を打ち、新しい麻の音が、小さく降ってくる。頬を刺す冷気の中、若い隊長の合図の手が高く上がる。
「鳴らします!」
「では、聞きます。鐘の音は、初めてですので」
試し打ち。鐘がガガァァァンと深く鳴る。
一つ目の音は短く、二つ目は長い。鐘の声は石壁に当たって返り、屋敷の窓が一枚、細かく震える。その余韻は坂を転がるように下り、村の屋根まで落ちていく。消えたあとの静けさは、鳴る前より深い。耳の奥には、まだ揺れの形が残っている。見張り台の下に、兵が並んだ。五十。若い隊長は数え終えると、こちらを向く。
「五十。全員、聞きました」
「では、次に鳴るときが、本当の報せです」
「はい。綱は切れません」
そう返した若い隊長は鐘を仰ぎ、垂れる麻を目で追って声を落とす。
「鐘の綱は、殿が替えるものと決まっていました」
「では、今年からは、切れ目を見つけた者が替えます。……隊長殿。次に鳴るとき、兵は何をしますか?」
「国境へ走ります。屋敷は門を閉じます」
「では、門の内の切れ目は、わたしが繋ぎます」
坂の下から、荷を担いだままの上の村の長が、白い息を切らして駆け上がってくる。
「奥様、鐘が! 国境に何か……」
「試し打ちです。綱を替えたので」
長は帽子で額の汗を拭き、鳴ったら村じゅうで走る決まりだ、と乱れた息の下で言う。
「では、決まりは切れていませんね」
坂の下では、村の者が戸口から走り出て、冷えた道をまた戻っていくのが見えた。鐘の音が届く所まで、屋敷の切れ目は細い綱のように繋がっている。
閣下は並んだ兵の前で何も言わず、鐘を見上げていた。靴の底を冷えた石に縫い止められたように、動かない。兵が一人、また一人と持ち場へ散っても、その背中だけが台の下に残る。母の麻が、風に揺れるあの高さに掛かっている。手を出さなかった人が、目だけは、そこから離さずにいる。
夜、帳の鐘の綱の行に線を引き、長く伸ばす。井戸の綱の行の、すぐ下だ。同じ麻から出た二本が、ざらつく紙の上でも並ぶ。窓の外には雪雲が低く、家令が戸口で暗い空を見る。
「殿は、日暮れまで鐘の下を動かれませんでしたな」
「見上げておいででした。見上げた分は、帳に載りません」
「帳に載らぬ分が、いちばん重うございます」
「載らない分は、数えずに覚えておきますわ」
家令が、雲を見たまま低く言う。
「……ふん。先代の奥様の麻が、あの上に掛かっておりますので。鐘が鳴る日は、来ないほうがようございます」
「鳴らない綱は、切れ目です。鳴る日が来なくても、綱は繋いでおきます」
家令は先代のことをそれ以上は口にせず、低い雲を見つめる。
「初雪が、近うございますな」
「では、奥の間の薪を。初雪が来る前に」




