3. 井戸の綱
七日目の朝、薪の匂いをまとった荷に付いて、中の村の女たちが門に来た。どの背にも空の桶があり、縁は夜明けの冷えで白い。肩には天秤棒の赤黒い擦れ跡が残る。木の底が門の石をこすり、年かさの女が前へ出る。
「奥様、綱をくだされ。井戸の綱が切れちまって、川まで下りとるだで」
釣瓶の綱だという。夏の終わりに縒りがほどけて切れ、それから女たちは毎朝、坂の下の川まで水を汲みに下りている。重い桶を提げて戻る頃には朝が終わり、冬に流れが凍れば、濡れた手で氷を割る。縁の白さは、今朝の冷えが残した印だ。
「綱は、村では綯えないのですか?」
女は首を振る。麻が無い。それは屋敷から綱になって来る物だという。列の端から、家令の低い声が差し込む。
「その綱は、先代の奥様の手で。毎年、秋に」
奥の物置に、麻の束が一つ、去年の秋のまま薄暗がりへ沈んでいる。先代の買い置きだ。毎年秋に、自ら綯った綱を三つの村へ配っていたのだという。
「先代の奥様は、冬に井戸が凍らんようにって、毎年くださっただで。今年は来んかったで、屋敷に忘れられたと思うとったで」
年かさの女はそう言い、桶の縁を握り直す。忘れられたと思っていた。その言葉が、節の太い指とともに、わたしの中の古い頁をめくる。十年、伯爵家で帳を回しながら、誰の目からこぼれたかは数えないようにしている。数えれば、筆が紙の上で止まる。忘れられていたのではない。繋ぐ手が、冷えたまま動かなかっただけだ。
「忘れてはいません。では、今日のうちにお渡しします」
女の目が、桶からわたしの手へ移る。今日のうちに、とは繰り返さず、唇を結んだまま、何も握っていない指を見ている。
「麻はあります。手もあります」
戸口から、家令の低い声が届く。
「麻は、一束しかございませぬ」
「井戸一つぶんなら、それでも余ります」
家令が物置の方角を顎で示し、鼻を鳴らさずに戸を開ける。それだけだ。埃をかぶった麻の束には、乾いた草の匂いが眠っている。結ばれた荷札の紙は指にざらつき、細い字で秋の日付が書いてある。右上がりで、最後の一画だけが鋭く跳ねる。先代の筆跡だという。その主は、秋に買い、冬の前に綯うつもりでいて、綯えなかった。家令は結び目をほどかず、そのまま置く。
「先代の奥様の字は、ほかには残っていないのですか?」
「奥の間の帳と、蔵の目録にも残っております。……ふん。ほかは、爺の知るところではございません」
麻を奥の間へ運ぶ。束を解くと、乾いた草の匂いと白い埃が、薄い光の中に立つ。わたしの手は、まだ綯う動きを知らない。伯爵家では、綱は買う物だった。
「家令殿は、綯い方をご存じなのですか?」
「爺は、横で見ておりました。……ふん。手は覚えているものでございますな」
家令が麻を三筋に分け、膝の上でゆっくり撚りをかける。わたしは節ばった指を見つめ、その順をなぞる。乾いた繊維は硬く、触れるたび薄い皮を削っていく。熱い筋が爪の際から甲までじわじわと這い上がる。伯爵家では針の先を追い、筆を持ち、帳を繰ってきた。綱を綯う今になって、借り物だったこの手が初めてわたしのものになる。
「先代の奥様は、綯いながら歌っておいででした」
「では、わたしは数えながら綯います」
数えるうちに、指が撚り目で迷う。家令の手が、横から伸びる。
「奥様、そこは撚りが逆でございます」
「では、こう」
「……左様でございます。先代の奥様も、最初の年は手を切っておいででした。皮が剥けても、途中でお止めになりませんでした」
「では、わたしも止めません」
撚りを一つ戻し、熱い指で掛け直す。
「先代の奥様も、王都から来られたそうですね」
「王都から嫁いでこられ、綱は北で覚えられました」
撚りが揃い始めると、麻は自ら締まっていく。三筋が一本になる音は、紙を繰る響きより低く、膝へかすかに伝わる。
昼、巡視帰りの閣下が、奥の間の戸口で足を止める。麻の匂いが、冷たい廊下へ流れていたらしい。
「……何を綯っている?」
「中の村の井戸に使う綱です」
閣下の目が、机の綱から家令へゆっくり移る。
「母は、いつこの綱を綯っていた?」
「秋でございます。殿が巡視にお出になる頃に」
「……ヒルデグントの綱か」
先代の名を、閣下の口から初めて聞く。その響きだけが、綱より先にほどけ、冷えた床へ落ちたようだった。母を呼ぶ息子の声が、これほど固く、喉に刺さるものとは知らない。戸口の外では、巡視の続きを待つ兵の靴音が石を打つ。閣下はそれを聞いてから、机の上の綱に一度だけ目を戻す。
「その綱は、いつまでに要る?」
「今日の夕までです。女たちが待っています」
「……秋からずっと、か?」
「はい。秋から毎朝、川まで下りています」
閣下の目が、戸口の外の兵へ一度揺れ、綱へ戻る。
「……夕までに間に合うのか?」
「間に合わせます」
閣下は、綱の端に目を落とす。
「……綱一本で、村が動くのか?」
「井戸一つが動きます。村は、井戸から動き出します」
「……母は、誰に綯い方を教わった?」
「綱は北で覚えられたと伺いました。教えたのは、この土地です」
閣下の目が、皮の剥けた指へ落ちる。
「……ほかの手は、増やさんのか?」
「手は、覚える者の手しか増えません」
閣下は黙って、束のままの麻を持ち上げ、トントンと整えると綯いかけの綱の横へ置いて出て行く。置く音は、思いのほか静かだ。手は増えない。ただ、一束ぶんの重さだけが、わたしのそばへ近くなる。家令は、残った繊維を見て言う。
「……殿が、麻をお持ちになるとは」
「麻は置いていかれました。手は、置いていかれませんでしたが」
家令は麻を撫で、首を振る。
「殿は、綱の綯い方をご存じありません」
「では、この麻の分だけ、閣下の手ということにしましょう」
◇
夕、薄い光の中、門に女たちが並ぶ。綱は一本。井戸は一つで、綱も一つでいい。年かさの女が受け取り、指の腹で綯い目を確かめる。その手つきは、麻ではなく、厚い掌をいたわるように見える。
「先代の奥様の綱と、まるで同じ綯い目だで」
「綯い方は、家令殿に教わりました。先代の奥様の手が、家令殿の目に残っていたからです」
列の端で、家令が小さく鼻を鳴らす。女は綱を肩に掛け、それから、皮の剥けたわたしの指先へ目を移す。しばらく口を開かない。
「これで、川まで下りんで済むだで。……奥様のその手は、綱の分で?」
「はい、綱の分です。井戸の分は、明日からです。凍る前に、間に合いました」
家令は、夕暮れを行く女たちの背を見送って言う。
「……奥様。綱は毎年、秋に綯う物でございます」
「では、来年の秋に要る麻を、帳に書いておきます」
「来年の秋、と書き残した行を、誰が読むのでございます?」
「次に印を持つ方です。読む人が居るから、書きます」
女たちは薄暗い坂を下りていく。桶は空のままなのに、帰る足音は朝より軽く、速い。
奥の間に戻り、帳の井戸の綱の行へ線を引く。墨の跡を、暗い底まで届かせるつもりで長く伸ばす。皮の剥けた指で筆を握るたび、針の先が触れるような熱が走り、そのまま紙の端まで付いて来る。料理番が温かな湯と布を持って来て、戸口から言う。
「奥様、手をこちらへ。明日は、指を休めてくださいよ」
「では、布を。麻は、まだ残っておりますので」




