2. 薪の道と、初めてのおかわり
三日目、割符を切り直す。薪一荷に、割符一枚。冬に蔵の麦と替える札で、押すのは奥印だ。札は掌に収まる木の板で、先代の頃の物は角が丸くなるまで使われている。新しい札は切り口が白く、奥印を押すと、白い木に朱が沈む。家令が、古い札を一枚、机に置く。
「先代の頃の札は、どれも角が丸うございます」
「新しい札も、手から手へ渡れば、冬の終わりには角が丸くなります」
切り直したとの触れは、家令が兵に持たせ、三つの村へ回した。割符そのものは、門で一荷ごとにわたしの手から渡す。
家令が、触れの写しを指先で折り畳みながら言う。
「村が、来ましょうか?」
「麦の当てが戻れば、来ます」
「……ふん。先代の頃は、触れなど要りませなんだ」
「一年も止まっていた道です。触れの一枚くらいは要ります」
家令は答えず、写しを懐へ入れる。その日の夕も、翌日の夕も、門の外に車輪の音はなく、冷えた石だけが静かだった。来ないかもしれない、という考えは帳の上では役に立たない。それでも空いた行が目に残り、夕方、門前へ二度、足を運ぶ。
五日目の昼、門の外に荷車が並ぶ。石を噛む車輪の音が、冷たい空気の中でいくつも重なり、坂を上ってくる。家令が門の内で、ぴたりと足を止める。
「先代の奥様は、荷が着くと、奥の門までお出ましになりました」
「では、わたしも門へ。割符は、門で渡す物ですので」
「……ふん。荷が、来ましたな」
「来ました。触れの一枚で」
荷台の薪から樹の皮の匂いが立ち、冷えた風の中で、上の村の長が帽子を取り、こちらへ話しかける。
「奥様、割符をくだされ。……去年の冬は、麦の当てが無くてなあ」
「一荷に一枚。数えて渡します」
「奥様は王都のお方だで?」
「生まれは王都です。薪は、北のものを」
「おぉ、そうでっか! カッカッカ」
長が声を立てて笑い、荷台を叩く。後ろの荷車からも、帽子を取る手が順に上がる。北の薪は切ってから一冬置くもので、今日の荷は去年切った分だと長が言う。中の村から届くのは明後日になるらしい。
割符を数え、木の重みを掌で受けて渡す。奥印の朱が、荷の数だけわたしから離れていく。長は受け取った札を日にかざし、その色を確かめて懐へ収める。
「去年の切れ目が、今日の薪になったのですね」
「……ふん。切れ目、切れ目と。先代の奥様は、そのようには仰いませんでした」
「先代は先代、わたしはわたしでございます」
私はにこやかに返した。
◇
昼過ぎ、奥の間の陳情の戸を開ける。外から入った靴底の湿りと土の匂いが、冷えた床を渡り、紙を広げた机まで続く。薪、麦、橋の板。荷を下ろした下の村の者が、帽子を胸へ固く当て、わたしの前に立つ。
「橋の板も、頼めますだで?」
「今は、帳に書くところまでです」
「書いてくれるだけで、ええだで。去年は戸が開かんかった。……麦は割符で替えるまで待つで、橋だけは、雪の前に」
「戸は、今日から開いています。橋は、板の当てが付いたら、この戸から知らせます」
村の者は帽子の縁を握り直し、机の上の帳を覗き込む。字は読めないらしいが、増えた行を目で追ううち、こわばった指がわずかに緩む。
三つ聞き、筆先を休めず帳へ書く。橋の板を記した行には、まだ線が無い。家令が後ろから紙面を覗き、その目をそこで止める。
「陳情の戸が開くのは、一年ぶりでございます」
「戸は、開けるためにあります。閉じたままの戸は、切れ目の中でもいちばん見つけにくい切れ目です」
家令は、帳の橋の行から目を上げないまま言う。
「橋は、表の領分でございます」
「では、切れ目の帳に書いておきます。帳が、その行を持ちます」
「橋は、殿がお決めになることでございます」
家令の指が、帳にある橋の行を軽く叩く。わずかに震える紙へ、わたしは筆を置く。
「出す帳は、まだ決まっていません。決めるのは、閣下です」
「……ふん」
「決めていただくために、書いておきます。書いていない切れ目は、誰にも決められませんので」
「いったん書いた行は、消えませぬな」
「そうです。消えないように……」
薪は離れへ積む。乾いた屋根は、他に無い。兵が担ぎ、村の者が組み、重みが腕を離れて床へ移るたび、鈍い音と木屑の匂いが広がる。兵の一人が、額の汗を拭って言う。
「離れに薪を積むのは、初めてです」
「乾いた屋根が、ほかにありませんので」
家令が、離れの戸口で高く積んだ薪の山を見上げる。
「離れを、薪の蔵になさるとは。……先代の奥様は、離れを客のために空けておいででした」
「客より先に、薪が来ました。来た順に繋ぎます」
離れの中は、乾いた樹の皮と細かな木屑の匂いで満ちていく。
◇
台所に火が入り、料理番が鍋を掛ける。白い湯気に薪の匂いが重なって廊下まで流れ、冷え切っていた石の壁へ、久しぶりにやわらかな熱が戻る。
「奥様、肉は兵の鍋から分けてもらってきますよ」
「お願いします」
鍋番が目を丸くするだろう、と料理番は笑う。奥から人が来るのは久しぶりだという。料理番は袖をまくって炉の前にしゃがみ込み、薪の位置を二度、直す。煤のついた手が、火加減の順を言葉より先に覚えている。殿は兵の鍋で済ませておいでで、食卓に来られるかどうか、と料理番は揺れる明かりを見たまま呟く。
「来られなくても、火は入れます。食卓は、屋敷の切れ目ですので」
「……食卓が、切れ目なんですか?」
「はい。冷えたままの席は、切れ目です」
◇
夕、巡視から戻った閣下が、廊下を流れる薪の匂いに振り向く。その足は暖かな空気をたどるように食卓へ向かう。初めて席に着くと、料理番が戸口で息を呑む。椅子は軋まない。先代の頃から誰かの重みを待ち、乾いていた木だ。
「……火は、いつから入っている?」
「今日からです。薪の道が繋がりましたので」
私はにこやかに答える。
「薪なら、兵に切らせていたが?」
「生木は、煙ばかり出て、燃えませんわ」
「そうか……」
閣下が匙を取る。白い湯気が立ちのぼり、伏せた目元を隠す。
「……煙かった」
「はい。屋敷じゅう、ずっと煙いままでしたわね」
閣下は黙って食う。匙が皿に触れる小さな音だけが、火で温まった部屋に続く。湯気の向こうで、その肩がわずかに下がる。巡視の外套はまだ脱いでいない。やがて、皿の底がきれいに現れる。
「……おかわりを」
料理番が、空の皿を見たまま固まる。おかわり、という言葉を、この人はどこで覚えたのだろう。兵の鍋なら皿を突き出せば済む。食卓では、声にしなければ届かない。
「鍋をこちらへ持ってきてくださる?」
料理番が慌てて戸口へ走る。
「は、はい、ただいま!」
閣下は、次の皿も黙って食う。だが、匙の音は先ほどより急いていない。二つ目の皿が空くと、閣下は匙を置いて、火の入った炉を見た。
「……薪は、どこから来た?」
「三つの村からですわ。割符と替えに……」
「割符は、止まっていたはずだ」
「切り直しました。奥印で」
閣下は炉から目を離さない。何かを言いかけた唇が閉じる。それから、揺れる火を見たまま言う。
「……明日も、火は入るのか?」
「入ります。薪の道が、繋がっていますので」
「……鍋番は、何と言っていた?」
「目を丸くしたそうです。料理番が、そう言っていましたわ」
「……炉は、いつから冷えていた?」
閣下は、炉の火を見たまま動かない。
「一年前の秋からだと聞きました。今日、火が戻りました」
閣下は匙を置いたまま黙り、火のはぜる音だけが続く。
夜、奥の間で帳を開く。薪の道の行に線を引く。橋の板の行は、ざらつく紙の白さを残したままだ。戸口から料理番が顔を出す。
「奥様、明日も火を入れていいんですね?」
「はい。薪は離れに。割符は門で。火は台所で」
料理番が笑い、足取りも軽く戸口から下がる。帳の食卓の行に線を引き、筆を置く。
「火は、もう切れませんわ」




