1. 名だけの妻と、印の箱
「妹が来るまでの繋ぎだ。名だけの妻でいい」
初霜の日、北の国境。エーレンフェルト辺境伯家の広間には火がなく、炉石から冷えが湿った匂いとなって立つ。夫となる人は入口に影を落としたまま、こちらへ歩み寄ろうともしない。石壁の高窓から、その日の夕の光が斜めに差し、吐いた息だけがわたしとその人の間でほどける。
王命の期日に門をくぐったのは、証文の花嫁ではなく、姉のわたし〈ルシエンヌ〉だ。妹は王都の社交期が終わるまで来ない。別れ際、針の先ほど軽く置かれた一言だけが、耳の奥に刺さったままである。
『お姉様、繋ぎをお願いね。着いたら、離れにでも』
繋ぎは国境の慣いだ。花嫁が期日に着けないとき、同じ家の女が先に門をくぐり、空くはずの席を預かる。そこへ置くのは名だけで、印には指先さえ触れない。
十七で母の代わりに家を回し、十年。伯爵家の家政と領の帳を抱え、二十七になるまで欄を空けず回してきた。父の言葉は一つだ。お前は家に要る。空いた場所へ代わりに立つことなら、とうに身体が覚えている。けれど名は、まだ誰の口からも訊かれていない。
冷えた石床へ目を落とす。白い息が消えるのを待って、わたしは頭を下げる。
「承知しました。繋ぎでしたら、切れ目なく務めます」
繋ぎの務めとは、切れ目を繋ぐことである。
「……何をする気だ?」
「お務めをいたします。閣下」
「繋ぎに務めなど要らん」
「切れ目があるなら、要ります」
切れ目、と口にした途端、身体の奥で緩んでいた綱が静かに張り直される。この広間にも、埋めるべき空きは見える。火を失った炉。名を訊かれない花嫁。
傍らでは、老いた家令が印箱を両腕に抱えている。指は木肌へ食い込み、閣下の顎がわずかに引かれる。
「屋敷のことは俺がやる。お前は居ればいい」
閣下は印箱を家令の腕から取り上げ、その重みごと、わたしの胸元へ押しつける。角の硬さが骨に当たり、息が浅くなる。
「席を預かるなら、これも預かれ。俺には、使い方が分からん」
「殿、それは……」
「薪は兵に切らせる。飯なら兵の鍋がある」
靴音が石床を打ち、戸口の向こうへ遠ざかる。残された印箱は思いのほか重く、木の角が腕に食い込む。古い漆は、誰かの手が何年も触れたところだけ薄く剥げていた。その温度まで染みていそうな跡へ指を添えると、家令が箱とわたしを見比べ、乾いた唇を開く。
「……繋ぎは印を持ちませぬ。その箱は、殿が花嫁へお渡しになる物でございます」
「閣下は私に預けられましたので」
「……お部屋へご案内いたします。先代の奥様がお使いだったお部屋でございます」
通された先にも、火の気はない。寝台の布は夜気を吸い、炉の口は閉じたままだ。窓の外では夕闇が枠からにじみ始めている。荷を解く手は動かず、外套のまま端へ腰を下ろすと、冷えが織り目を抜けて腿の裏まで這い上がる。父の言葉も、石の重みとなってここまで付いて来た。お前は家に要る。求められたのは働く手で、名ではない。家令が戸口で足を止める。
「奥の間はこちらの隣でございます。……戸は一年、閉じたままになっております」
「明朝、開けましょう」
「……。このお部屋の火は、いかがなさいます?」
「わたしの部屋はあとで結構です」
家令の目が、閉じた炉の黒い口へ沈む。
「……先代の奥様は、この部屋の火をご自分で焚いておいででした。薪は爺がお運びいたします」
「では、わたしも自分で」
◇
夜明け前、閣下の卓に湯を一杯置く。頼まれてはいない。ただ、その空白が切れ目に見えたから、湯気で埋めた。白い筋は一度だけ立ち、すぐ朝の暗がりへほどける。閣下はまだ巡視に出ていない。誰の手か訊かれなければ、答えも要らない。それから奥の間の戸を開ける。湿った埃と古い紙の匂いが、閉じ込められた冷気ごと頬へ押し寄せる。
奥の間の帳は、一年前の秋で止まっていた。
先代の女主人が亡くなって一年。印はこの部屋で、家令の手の中に眠っていたという。帳の向こうから、その目がわたしの指先を追っている。
「……ふん。先の殿が奥様お一人にしかお渡しにならなかった箱でございます」
「妹が着いたら渡します」
「花嫁が着けば、殿がその方へ渡し、繋ぎは退く。返す先は殿。奥から奥へは渡りませぬ」
「先代の奥様は、この帳を毎朝お開きでしたか?」
「朝と夕に。……ふぅ。一年のあいだ、誰も開けておりませぬ」
家令の目が、閉じた帳の紙の縁へ重く落ちる。
「では、今日から朝と夕に」
帳を繰る。紙が指を擦る。給金の欄は先代の手で止まり、滞りの長さはどこにも記されていない。
「給金はいつから滞っていますか?」
「三月でございます。……国境の巡視が長引いて、お戻りが絶えましてから」
「それまでは?」
「殿の財布から、ばらばらに。帳には、載っておりません」
帳に無い払いは、済んだことにならない。紙に跡を残さぬ銭は、次の手へ正しく渡せない。
「では、払われていないのと同じです」
「……同じでございますな」
「金庫の鍵は?」
「爺がお預かりしております。……開けるのは、お印でございます」
奥の金庫には、春に表から入った年の入りが、手つかずで冷えている。入れるのは鍵、出すのは印だ。
「三月分、全部でございますか? 滞りは切れ目です。半分だけ繋いだ綱は、綱とは言いません」
「……銭が減りますな」
「減るために入っている銭です」
「……ふん。先代の奥様と同じことを仰る」
家令の手が、金庫の鍵を握ったまま止まり、指の先だけが白む。
「同じ帳を回せば、同じ言葉になります。言葉を決めるのは帳です」
奥印を朱に浸し、三月分の紙へ押す。手のひらへ返る硬い重みまで、欄に残す。
「先代の奥様の手つきと……似ておられますな」
「帳の手つきは家が違っても同じです」
昼前、火の無い広間に使用人が並ぶ。冷えた床を靴底が擦り、料理番が薪の匂いをまとって真っ先に頭を下げる。
「奥様! 三月ぶりでございますよ。……台所の薪も、そろそろ尽きます」
奥様、と呼ばれたのは初めてだ。声は石の広間を上り、高い天井に触れて、やわらかくわたしの肩へ落ちてくる。伯爵家では十年、お嬢様と呼ばれ、帳の上では手として数えられた。けれどその名は、どの欄にもまだ載っていない。列の頭が順に下がるたび、胸の内の白い紙へ、見えない朱が一つずつ静かに押されていく。
「薪は次に繋ぎます」
列の端で、家令が鼻を鳴らす。朝よりも、音の角が少し丸い。
「奥様とお呼びしてよろしいので?」
「閣下が王へ届けを出すまでは、繋ぎです。呼び名は列の方々にお任せします」
「……奥様。列の頭が下がりすぎておりますな」
「頭は給金の分だけ下がるものですから」
家令は列へ目を走らせ、鼻を鳴らしかけたまま、息だけを静かに戻す。
「列の者が礼を言いたいと申しております」
「礼は帳に載りません。次の給金の日、列が切れていなければ受け取ります」
家令が列を目で端までたどり、低い声で言う。
「並び順まで先代の頃のままでございますな」
列の並びをすべて見渡す。下がった頭の高さが、張った綱に沿うように揃っている。
「列は切れていなかったのですね」
その時だった――。
閣下が急いだ様子で現れた。戸外の冷気を外套の裾から広間へ引き入れたまま、端で足を止める。
「む? 何の列だ?」
家令が列の前へ出て、背にしたまま答える。
「給金の列でございます。三月分、奥印で」
閣下の眉がわずかに動く。声より先に走った小さな影だけで、広間の空気が張り詰めた麻綱のように硬くなる。
「給金は俺がやる」
「もう済みましたわ」
「……何をした?」
「印を押しました」
「……印か」
閣下は黙ったまま出て行き、靴音が石床の向こうへ消える。その沈黙は昨日より一拍長く、閉じた戸のあたりに重さだけを残す。広間には、並ぶ者たちが身じろぐ気配だけが細く続いた――。
火はまだ無い。それでも、人の並ぶところには、吐息ほどの熱が生まれている。
「では、次を……」




