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第九話「なぜ黙っていたの」

 翌朝の村上家は、いつもより会話が多かった。


 といっても、誠一への会話が増えたわけではない。

 久美子と翔と麻央の間で「村上家」グループが活発になっているらしく、誠一の知らないところで朝から情報共有が進んでいた。

 翔が「あの動画、今朝で十六万になってた」と言い、久美子が「そんなに」と言い、麻央が「私の友達も知ってる子いた」と言っていた。

 三人の話し声が聞こえていた。


 誠一はダイニングテーブルでインスタントコーヒーを飲んでいた。

「村上家」グループの話題に入れないのは、グループに入っていないからだ。

 目の前で会話されているが、リアルタイムの情報は共有されていない。

 これが会社なら「情報の非対称」という言葉を使うところだが、家族でそれをやられると、単純に気まずい。


 しかも今朝は、三人が話している内容の当事者が自分だ。

 自分の話を自分抜きでしている会話が聞こえている。

 本人がいる前でなのに、なぜか本人に聞こえていない体で話が進んでいる。

 誠一はコーヒーを飲み続けた。


 これを「蚊帳の外」と言う。

 昭和の言葉だが、今もリアルに使える状況がここにある。

 誠一はコーヒーを飲み終え、「行ってきます」と言った。

 三人から「行ってらっしゃい」が返ってきた。

 昨日と同じだ。

「行ってらっしゃい」の返りが良くなっているのは、確かに良いことだ。

 良いことなのだが、事情を知っているから返しているのか、それとも純粋に良くなったのかが分からない。

 分からないが、言われた事実は同じだ。

 良いことだ、と思いながら、誠一は玄関を出た。


 会社では、誠一はいつも通り仕事をした。

 フォーマットを直し、電話をかけ、田中の見積もりを静かに確認した。

「村上さん、なんか今日顔色悪くないですか」と田中が言った。

「昨夜あまり寝てないから」と誠一は言った。

 嘘ではなかった。

 昨夜は久美子に「話す」と言ってしまったので、何を話すかを考えながら寝たら三時になっていた。


「彼女でもできたんですか」と田中が言った。

「違う」

「じゃあ何」

「家の話」

「あー、家のことか」と田中は「それは眠れないですよね」という顔をして、自席に戻っていった。

 田中は実家暮らしだが、「家の話」が「眠れなくなる類の話」だということは知っているらしかった。

 社会人三年目でその共感ができるのは、なかなかたいしたものだ。


 昼休み、誠一は珍しくコンビニではなく、会社近くのそば屋に一人で入った。

 かけそばを頼んだ。

 六百五十円。

 一人でそばを食べながら、今夜何を話すかを整理した。

 一九九三年の話。

 古賀教授の訃報。

 楽屋で「弾きます」と言ったこと。

 ステージで止まったこと。

 それからピアノを封印した理由。

 三十三年間黙っていたことを、今夜話す。


 話すと何かが変わるだろうか、と誠一は考えた。

 変わるかもしれない。

 変わらないかもしれない。

 でも久美子が「聞く」と言った。

 聞いてくれる人がいる、ということは、話せるということだ。


 そばは美味しかった。

 だしが利いていた。

 コンビニでは食べられない味だ、と思いながら、誠一は全部食べた。


 七時ちょうどに退勤した。

 帰り道、誠一はスマートフォンで例の動画を検索した。

 再生数が二十万を超えていた。


 コメント欄を少しだけ読んだ。

「誰この人」

「めちゃくちゃうまい」

「プロ?」

「こんな弾き方見たことない」

「おじさんすごすぎる」という言葉が並んでいた。

 最後の「おじさん」という表現が少し引っかかったが、まあ否定はできない。


 誠一はスマートフォンをしまい、駅の改札を通った。

 コンコースのピアノが見えた。

 今日は弾かなかった。

 今夜は話す夜だ。

 ピアノは明日でいい。


 その夜、家族会議が開かれた。

 誠一は事前に知らされていなかった。

「家族会議を開く」という通知が「村上家」グループに流れたとしたら、誠一には届かない。

 実際に何があったかというと——誠一が七時に帰宅すると、リビングに三人が座っていて、テーブルの上にスマートフォンが二台置かれていた。


 もう一つ、テーブルの上には封筒があった。

 茶色い封筒の中から、古い紙が出ている。

 誠一は鞄を持ったまま、立ち止まった。


「お父さん、座って」と麻央が言った。

 麻央が「座って」と言う時の顔は、いつもの麻央ではなかった。

 泣きそうな顔ではなく、何かを決めた顔をしていた。


 誠一は座った。

「これ」と翔がスマートフォンを差し出した。

 画面には例の動画が表示されている。

「父さんだよな」

「……まあ」

「まあじゃなくて」

「そうだよ」と誠一は言った。

「俺だよ」


 麻央が「やっぱり」と言った。

 久美子は黙っていた。

「で、これ」と翔は今度は封筒の方を指した。

「押し入れにあったやつ」


 誠一は封筒を見た。

 それは、段ボール箱の中に入れていた新聞の切り抜きが入った封筒だった。

 誠一が最後に手を触れたのは二日前だ。

 それがなぜここにあるかというと——久美子が見つけたのだろう。


「久美子、押し入れ開けたのか」

「掃除してたら出てきた」と久美子は言った。

「段ボールが破れかけてたから、中を確認した」


 嘘ではないだろう。

 ただ、段ボールが「破れかけていた」かどうかは誠一には分からない。

「見てもよかったか?」と久美子は言った。

 最後に「か?」をつけたが、語尾に揺らぎはなかった。


「……まあ」

「まあ、じゃなくて」

 親子で同じ返しをする。

 誠一は少し苦笑いをしたが、空気はそれを笑って流してくれなかった。


「ショパン国際ピアノコンクール、第三位」と翔が読み上げた。

「一九九二年。二十一歳。村上誠一——父さんじゃん」

「そうだよ」

「なんで言わなかったの」

「昔の話だから」

 翔が「昔の話」と繰り返した。

「昔の話だから黙ってた?」

「まあ、そうだな」

「なんで」

「必要ない話だと思ってたから」


 翔が口を開きかけた時、久美子が言った。

「必要ないって、誰が決めたの」


 久美子の声は、怒っていなかった。

 怒っていない声だったが、それがかえって、誠一には重かった。

 感情を抑えた声というのは、感情をぶつけてくる声より、時として深く刺さる。


「三十年間、一度も話さなかった」と久美子は言った。

「私に。一度も」

「……」

「私はそんなに、信用できない人間だったの?」


 誠一は答えられなかった。

 信用できなかったわけではない。

 信用とは別の話だ。

 あの夜のことを話せなかった。

 話すということは、あの夜を言葉にすることで、言葉にしたら——なんだろう。

 崩れる気がした。

 自分の中で辛うじて形を保っていた何かが、言葉にした瞬間に崩れる気がしていた。

 でも久美子にはそれが伝わらない。

 伝えようとしてこなかったから。


「別に」と誠一は言った。

「信用してなかったわけじゃない」

「じゃあなんで」

「うまく話せなかったから」

「三十年間」と久美子は言った。

「三十年間、うまく話せなかった。それが答えなの」


 翔が「俺にも話してくれなかった」と言った。

 声のトーンが、怒っているとも悲しんでいるともつかない。

「父さんがコンクールで三位になってたなんて、知らなかった。父さんのこと、何も知らなかった」


 麻央が「私も」と言った。

 今度は本当に泣きそうだった。

「二十二年間、一緒にいたのに。父さんのことで、知ってることって何があるかなって考えたら——コピー機の直し方が早い、くらいしか思い浮かばなかった」


 誠一は、その言葉で笑っていいのか泣いていいのか分からなかった。

 コピー機の直し方。

 それが家族の中での自分の認識だ。

 営業部次長。

 透明人間。

 コピー機の神様。

 三十三年前のショパンコンクール三位のことは、家族の誰も知らなかった。


「ごめん」と誠一は言った。

「話さなかった。理由はあるんだが——うまく説明できない」

「聞きたい」と麻央が言った。

「今は」と誠一は言った。

「もう少し時間がほしい」

 麻央は何か言いかけて、止まった。

 久美子はそれ以上何も言わなかった。


 夕飯は冷蔵庫から各自で出して食べることになった。

 誠一はラップのかかった昨日の煮物を温めて食べた。

 翔はカップ麺を作った。

 麻央はチーズトーストを焼いた。

 久美子は食べなかった。

 いつもよりずっと静かな夜だった。


 誠一が食器を洗っていると、久美子が台所に入ってきた。

「お風呂は?」

「最後でいいよ」と誠一は言った。

 久美子はしばらく黙っていた。

「先入りなさい」と、また言った。


 誠一は蛇口を止めた。

 振り返ると、久美子は流しに向かって立っていた。

 後ろ姿だった。


「昨日と同じこと言うな」と誠一は言った。

「……あなたの弾くの、聴いた」と久美子は言った。

 後ろ向きのまま。「土曜、駅ビルで」

 誠一は固まった。


「知らなかった。あんなふうに弾けるって」

「……」

「なんで言わなかったの、ずっと」


 誠一はなんと言えばいいか分からなかった。

「うまく話せなかった」と同じことを繰り返すことが、今の久美子には不誠実な気がした。


「話すつもりがなかったわけじゃない」と誠一は言った。

「ただ、話せなかっただけだ。あの夜のこととつながってるから——」

「どんな夜」

「長い話だ」

「聞く」と久美子は言った。

 初めて振り返った。

「聞くから、話しなさい」


 誠一は、久美子の顔を見た。

 怒っているのではなかった。

 泣いているのでもなかった。

 ただ、真剣だった。

 三十年間ずっとそこにいた人間の、真剣な顔をしていた。


「今夜、話す」と誠一は言った。

「風呂から出てから」と久美子は言った。

「先入りなさい」


 誠一は先に風呂に入った。

 湯船の中で、これから久美子に何を話すかを考えた。

 一九九三年の十月のことを。

 古賀教授のことを。

 あの夜ステージで止まってしまったことを。

 ピアノを封印した理由を。


 うまく話せるかは分からない。

 三十年間話さなかったことを、今夜初めて言葉にする。

 でも、久美子が「聞く」と言った。

 それだけで、今夜は十分だ。


 誠一は湯船から出た。

 タオルで手を拭きながら、右手を見た。

 震えていない。

 普通の手だ。

 これからその手で、言葉を紡ぐ。

 ピアノではなく、言葉を。

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