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第八話「動画、拡散」

 翔は自分が父親のことをよく知らないと思っていた。


 名前は村上誠一。

 年齢は五十五。

 会社員で、部署は営業らしい。

 詳しくは知らない。

 帰りがよく遅い。

 帰ってきても「ただいま」と言って飯を温めて食べて風呂に入って寝る、という工程をほぼ毎日繰り返す。

 バリエーションがない。

 たまに幕の内弁当の空き容器をリビングのゴミ箱に捨てているので、今日弁当だったんだな、と分かる。

 会社の場所すら翔はよく知らない。

 最寄り駅も、路線も。

 一度「父さん、会社どこ?」と聞いたら「神田の方」と言ったが、それで終わった。

 神田の方。広い。


 休日はリビングで新聞を読んでいるか、「散歩してくる」と言って出かけている。

 散歩、と言うわりに、何時間も帰ってこないことがある。

 どこを散歩しているのかも知らない。

 聞いたことがなかった。


 コピー機の直し方を知っている(本人談)。

 それ以外のことは、本当によく知らない。


 父親のことを詳しく知っている息子の方が少ないだろう、と翔は思っていた。

 多分そうだ。

 でも、こんなに知らないのが普通なのかどうかは、比較しようがない。


 その認識が、月曜の夜に崩れた。

 きっかけはSNSだった。


 翔が就活の情報収集のためにタイムラインを流していると、フォロー外のアカウントからリポストされた動画が流れてきた。

 サムネイルは、グランドピアノの後ろ姿。

 テキストには「駅ビルのコンコースで突然弾き出したおじさん、レベルが違いすぎる」と書いてあった。

 翔は特に深い理由もなく、タップした。


 動画の画質は少し荒い。

 誰かがスマートフォンで撮ったものだ。

 最初は後ろ姿だけ映っていたが、撮影者が少し位置を変えて横顔が見えるようになった。

 再生数は、その時点で八万を超えていた。


 ショパンだ、と翔には分かった。

 クラシックの知識は乏しいが、テレビでよく聴く曲だと思った。

 弾いている男性の指が、信じられないくらい滑らかに動いている。

 素人がふらっと弾く感じではない。

 明らかに、長年弾いてきた人間の弾き方だ。


 横顔がはっきり映った瞬間、翔の手が止まった。

 十秒ほど、画面を見つめた。


 ——これ、父さんじゃないか?


 翔は動画を最初から再生し直した。

 後ろ姿。

 体格。

 ジャケットの色。

 それから横顔。


 似ている。


 似ているが、信じがたかった。

 なぜなら翔は、父親がピアノを弾けることを、知らなかったからだ。

 一度たりとも聴いたことがなかった。

 父親の趣味がスポーツ観戦でも映画鑑賞でもなく「ピアノ」であることを、翔は今夜初めて知ろうとしていた。


 翔はスクリーンショットを撮り、「村上家」グループに送った。

「これ父さん?」

 三秒で久美子から「…」が来た。

 五秒で麻央から「え!?」が来た。

 久美子は「…」のまま止まった。

 麻央が「これ絶対父さんだ!!」と続けた。

「どこで撮ったの」

「どういうこと」

「父さん弾けるの?」とメッセージが連続した。


 翔は「知らん。でも似すぎてる」と返した。

 久美子は「…」から動かなかった。


 その日の深夜、麻央はベッドの中でスマートフォンを見ていた。

 友人からもメッセージが来ていた。

「ねえこれ見た? すごくない?」とリンクが貼られている。

 同じ動画だった。


「もしかしてうちの父さんかも」と麻央は返信した。

「え!?」

「まじで?」

「あの人お父さん!?」と友人たちが騒ぎ出した。


 麻央は「ちょっと待って確認する」と送って、動画をもう一度見た。

 父さんのあの背中は、休日に「散歩行ってくる」と言って出ていく背中だ。

 ジャケットの色も合う。

 体型も合う。

 なにより横顔が——。


 麻央は部屋の窓から廊下を見た。

 誠一の部屋のドアは閉まっていた。

 電気が消えている。

 もう寝ているのかもしれない。

 こんな時間に起こすことも、翌朝急に「昨日の動画、父さんだよね?」と聞くことも、どちらもうまく思い浮かばなかった。


 麻央は再び動画を再生した。

 ショパンのワルツが流れた。

 父さん、こんなに弾けたのか。

 麻央は知らなかった。

 二十二年間、一緒に暮らしていて、知らなかった。

 父親に「趣味は何ですか」と聞いたことが一度もないことに、今この瞬間初めて気づいた。

 ちょっと泣きそうになった。

 なぜかは分からないが、泣きそうだった。


 翌朝、誠一は何も知らなかった。

 いつも通りに目覚め、いつも通りに洗面台で顔を洗い、いつも通りにダイニングテーブルでインスタントコーヒーを飲んだ。


 家族の雰囲気が、少しだけ違った。


 久美子の視線が、なんとなく誠一に向いている気がする。

 翔がスマートフォンを見ながらも、時々誠一を横目で見ている。

 麻央はまだ部屋から出てきていないが、「お父さん、今日何時に帰る?」とドア越しに声をかけてきた。これは珍しかった。


「帰りは七時か八時かな。なんだ」

「別に」と麻央は言った。

「別に」にしてはわざわざ声をかけてきた、という事実が引っかかったが、誠一は追及しなかった。


 翔が「父さん、昨日どこか寄ってきた?」と聞いた。

「どこにも」

「駅ビルとか?」

「……ちょっと通りかかったな」

「ふーん」と翔は言い、スマートフォンを見た。


 その「ふーん」の言い方が、いつもの「ふーん」と少し違った。

 知っている「ふーん」と、知ろうとしている「ふーん」がある。

 今日の翔は後者だった。


 誠一は少し不安を覚えたが、理由が分からなかったので「行ってきます」と言って家を出た。

 返事は、今日は「行ってらっしゃい」だった。

 三人から。

 珍しかった。


 帰宅した時、リビングに三人が揃っていた。

 それ自体は珍しいことではない。

 三人が揃っていて、なおかつ全員が誠一の方を向いたのが、珍しかった。


「お帰り」と久美子が言った。

 翔が「おかえり」と言った。

 麻央が「お父さん、ちょっと聞いていい?」と言った。


 誠一は鞄を下ろしながら「なんだ」と言った。

 麻央がスマートフォンを持ってきた。

 画面に動画が映っている。

「これ、お父さん?」

 動画が再生された。

 グランドピアノの前に座っている男性の後ろ姿。

 それから横顔。

 ショパンのワルツ。


 誠一は十秒ほど、画面を見た。

 見ながら、内側でいろいろなものが動いた。

 驚き。

 恥ずかしさ。

 それ以上に——なぜか、少しだけ、誇らしい気持ちが顔を出した。

 すぐに押し込んだ。


「……似てる人かもな」と誠一は言った。

「父さん」と翔が言った。

「似てる人だよ」

「父さん」と麻央が言った。

「年配の人は似てくるんだよ、がっはっは」

 久美子が立ち上がり、台所に行った。

 しばらくして「ご飯できてるから、座って」と言った。


 誠一は座った。

 翔と麻央が向かいに座った。

 スマートフォンはしまわれていた。

 でも空気は変わっていなかった。


「再生数、十万超えてた」と翔が言った。

「へえ」と誠一は言った。

「ショパンって言うんでしょ、あれ」と麻央が言った。

「そうね」と誠一は言った。

「弾けるの、お父さん」

 誠一は米を一口食べた。

「昔ね。少しだけ」


 少しだけ、というのはさすがにどうかと思ったが、「ショパン国際ピアノコンクールで三位を取った」と言う流れでもなかった。

 久美子が豚汁を運んできた。

「もう食べなさい」と久美子は言った。

 誠一と子どもたちは食べた。

 その後も、誠一が「ショパン国際ピアノコンクール三位」の話をする機会は来なかった。


 夜、翔が誠一の部屋に来た。

「あの動画、父さんだろ」

「似てる人だよ」

「絶対そうじゃん」

「そうかもな」

「なんで弾けるの。知らなかった」

 誠一はしばらく翔を見た。

 就活中の、少し眉間に皺の寄った息子の顔。

 子どもの頃から眉間に力が入りやすい子だった。


「昔やってたんだよ。若い頃に少し」

「少しで十万再生は無理じゃん」

「まあな」

「今でも弾けるんだ」

「どうかな。錆びてるかもな」

 翔は「そうか」と言って、部屋から出ていった。

 会話としては短い。

 でも翔が誠一の部屋に来ることは滅多にない。

 来ただけで、十分だった。

 誠一はそれでいい、と思った。


 その夜、誠一は押し入れを開け、段ボール箱から新聞の切り抜きを取り出した。


「日本の若き天才、ショパン国際ピアノコンクール第三位」

 三十三年前の自分が、笑っている。


 動画の再生数は、今夜どこまで増えているだろうか。

 関係ない話だが、少し気になった。

 十万、という数字は、誠一の人生で自分に向けられた数字としては、桁違いに大きい。


 誠一は新聞を折り畳み、段ボール箱に戻した。

 明日また弾こう、と思った。

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