第七話「久美子、立ち尽くす」
村上誠一の休日の昼食は、たいてい自分で作る。
といっても「作る」というほどのことはしない。
冷蔵庫を開け、昨夜の残りを見つけ、それをラップのかかったまま電子レンジに入れる。
ボタンを押す。
チンと鳴る。
食べる。
以上だ。
これを「作る」と表現するのは誇張だが、誠一はそれ以上できない。
正確には、できるかもしれないが、久美子の台所に手を入れることへの抵抗感が先立つ。
今日の昼食は、残り物の煮物と白飯だった。
冷蔵庫を開けたら、ラップのかかった器が二つと、タッパーが一つ入っていた。
どれが今日食べていいやつかは分からない。
久美子ルールというものがあって、ラップがピタッと密着しているのは「今日中に食べて」で、少し浮かせてあるのは「明日でいい」らしいのだが、誠一は毎回判別を間違える。
間違えて「それ明日のやつ」と帰宅した久美子に言われたことが三回ある。
今日は慎重に選んだ。
一番ラップが密着しているやつを選んだ。
煮物だった。
レンジで温めて、白飯と一緒に食べた。
美味しかった。
食器を洗い、ダイニングに戻り、テレビをつけた。
土曜の午後のテレビは、どのチャンネルも似たような内容だ。
芸能人がランチを食べる番組。
芸能人が旅行をする番組。
芸能人がクイズに答える番組。
誠一はリモコンを持ったまま四周した。
四周目で「芸能人が料理をする番組」を発見した。
知らない若者が出てきて「うわー美味しい!」と言っていた。
誠一はテレビを消した。
静かだった。
家族がいない時の静寂と、家族がいるのに誰も話しかけてこない時の静寂は、少し違う。
前者は空虚だが、後者は——存在するのに見えない、という感覚だ。
今日は前者だ。
それはそれで、悪くない。
誠一は立ち上がり、ジャケットを羽織った。
玄関で鏡を見た。
ジャケットにチノパン。
悪くない。
悪くはないが、誰かに「悪くない」と言ってもらう機会がないことに気づいた。
鏡が「悪くないですよ」と言ってくれたらいいのだが、鏡は何も言わない。
当然だ。
誠一は「行ってきます」と誰もいない部屋に言って、玄関を出た。
駅ビルのコンコースに着いたのは、午後一時過ぎだった。
今日もピアノはある。
土曜の昼間だから人通りは多い。
誠一は少し離れた場所から鍵盤を確認した。
誰も座っていない。
今週、誠一は三回ここに来た。
火曜の帰りと、木曜の昼休みと、今日で三回目だ。
どの回も、弾いた。
音階から始めて、ワルツの一節、そして少しずつ次の小節へと進んでいった。
震えは木曜から来なくなった。
手が怖くなくなった、というより、鍵盤が「そこにある」ことに体が慣れてきた、という感じだ。
椅子に座った。高さを合わせる動作が、今日は一瞬だった。
両手を鍵盤に置き、音階を一通り弾いてから、ショパンのワルツに入った。
先週まで四小節で止まっていたのが、今日は十六小節まで進んだ。
完璧ではない。
何か所か詰まった。
でも止まらなかった。
十六小節目が終わったところで、誠一は一度手を止めた。
深呼吸をした。
また弾き始めた。
今度は頭から通してみた。
二十小節。
二十四小節。
途中で少し迷ったが、指が思い出した。
三十小節。
その時、誠一は気づいていなかった。
三メートル後ろで、久美子が立ち尽くしていることを。
久美子が駅ビルに寄ったのは、偶然だった。
友人とのランチの後、帰り道に「あ、醤油が切れてた」と思い出してスーパーへ寄るつもりが、いつもと違う入り口から入ったら駅ビルのコンコースに出てしまった。
地下通路を歩きながら「どこで出ればよかったっけ」と思っていた矢先、ピアノの音が聞こえた。
聞き覚えのある音ではなかった。
知っている音楽だったが、知っている弾き手の音ではなかった。
久美子は足を止めた。
コンコースの人の流れの中、久美子だけが止まっていた。
ピアノを弾いているのは、後ろ姿だけが見える男性だ。
スーツではなく、ジャケットとチノパン。
その背中に、久美子は既視感を覚えた。
三十年間見てきた背中だ。
それが誠一だと気づくまで、五秒かかった。
五秒間、久美子は自分の目を信じていなかった。
あの人は誠一ではない、と思っていた。
誠一があんなふうにピアノを弾くはずがない。
あの指の動き、あの姿勢、あのピアノとの距離感——あれは自分の知っている夫ではない。
でも後ろ姿は、どう見ても誠一だった。
久美子は声をかけることができなかった。
なぜかは分からない。
「あなた」と一声かければよかった。
でも、かけられなかった。
もし声をかけて振り返られたら、この音が止まるような気がした。
止めてはいけないような気がした。
自分でも理由が分からないまま、久美子はその場に立ち尽くしていた。
ショパンだ、と久美子は思った。
ショパンを弾いているのが誰なのか、三十年間知らなかった。
新聞の切り抜きを見た時も、それがピアニストとしての誠一の話だと理解していた。
理解はしていたが、それが「音楽」として体に入ってきたのは、今この瞬間が初めてだった。
久美子の目が、少し潤んだ。
本人は気づいていなかった。
演奏が止んだ。
誠一が手を膝の上に置いた。
久美子は反射的に、一歩後ろに下がった。
誠一が振り返る前に、そっとその場を離れた。
夕方六時過ぎ、久美子が帰ってきた。
「ただいま」と久美子が言った。
「おかえり」と誠一は言った。
ここまでは通常の手順だ。
この後、久美子はエコバッグを台所に置き、冷蔵庫を確認し、夕飯の段取りを始める。
誠一はリビングで邪魔にならないようにしている。
それが村上家の帰宅ルーティンだ。
しかし今夜は少し違った。
「お風呂、先入る?」と久美子が聞いた。
誠一は一瞬、固まった。
「先? 俺が?」
「そう。どうする?」
「……いや、あとでいいよ。久美子が先に入って」
「私は夕飯準備してからでいいから。先入りなよ」
なぜ久美子が「先入りなよ」と言っているのか、誠一には分からなかった。
普段は夕飯が終わって、久美子と翔と麻央が順番に入った後で、誠一は最後に入る。
それが村上家の順番だ。
ルール化されたわけではないが、自然とそうなっていた。
水道代の節約か、もしくは単に誠一が一番後でいいという雰囲気か——とにかく誠一は「最後の人」だった。
最後の人がいきなり「先入りなよ」と言われた。
「いや、ほんとにいいよ」と誠一は言った。
「入りなさいよ」と久美子は言った。
語尾が少しだけ柔らかかった。
気のせいかもしれない。
誠一は結局、先に風呂に入った。
三十年で初めてかもしれない、と思いながら湯船に浸かった。
同じ湯なのに、なぜか少し温かく感じた。
夕飯はカレーだった。
「カレーか」と誠一は言った。
「昨日の残り。まだあったから」と久美子は言った。
「好きだよ、カレー」
「知ってる」
「知ってる」と久美子が言った。
それだけの一言だが、誠一はなんとなく止まった。
「知ってる」——久美子が誠一の好き嫌いを知っている。
当たり前のことだ。
三十年一緒にいれば知る。
でも「知ってる」と言葉にされたのは、久しぶりな気がした。
「美味しいな」と誠一は言った。
「昨日より煮込んだから」と久美子は言った。
今日の久美子は、たいてい返す「残り物だから」を言わなかった。
代わりに「煮込んだ」と言った。
それは「ちゃんと作った」に近い言葉だ。
誠一はそれに気づいたが、何も言わなかった。
言うと崩れそうな気がした。
何が崩れるのかは分からないが、黙っているのが正しい気がした。
翔が「父さん、今日どこ行ってたの」と聞いた。
「散歩」
「何時間も?」
「そんなに長くなかったよ」
「ふーん。母さん、今日帰り遅かったな」と翔は今度は久美子に言った。
「友達と会ってたんでしょ」
「そう」と久美子は言い、カレーのルーをよそった。
誠一と久美子の目が一瞬合った。
久美子はすぐ目を逸らした。
何か知っているのかもしれない、と誠一は思った。
でも確かめなかった。
確かめると、何かが変わる気がした。
今夜の久美子の「先に入りなよ」と「煮込んだから」は、確かめてしまうと別の意味を持ち始める気がして——誠一は黙って、カレーを食べた。
美味しかった。
その夜、布団に入った後、久美子はスマートフォンを見ていなかった。
珍しいことだ。
久美子は寝る前にたいていスマートフォンでニュースを見るか、友人とのやり取りをする。
でも今夜は画面が暗いまま、天井を見ていた。
誠一が電気を消しかけて、止まった。
「今日、どこ行ったんだ?」と誠一は聞いた。
「友達とランチ。そのあと寄り道して帰ってきた」
「そうか」
「寄り道」という言葉が少し引っかかったが、誠一はそれ以上聞かなかった。
電気を消した。
暗闇の中で、二人は並んで天井を見た。
久美子が何かを知っているとしたら——それは、誠一には分からないことだ。
分からないまま眠ることが、今夜はそんなに悪くない気がした。




