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第六話「宮本という老人」

 土曜の朝、村上家では誰もが思い思いの時間を過ごしていた。


 久美子はパートが休みで、午前中から台所でなにかを煮ている。

 何を煮ているかは聞いていない。

 聞けばたぶん「煮物」と言われて終わる。

 誠一が「手伝おうか」と言えば「いいよ」と言われる。

 台所の主権は久美子にあり、誠一が踏み入れることを好まない。

 誠一もそれを知っているから聞かない。


 翔は就活のウェブテスト対策をすると言ってから三時間、ソファでスマートフォンを操作し続けている。

 就活とウェブテスト対策のどちらをやっているかは不明だが、本人の中では連続した行為らしい。

 誠一はかつて、「翔、ウェブテスト大丈夫か?」と聞いたことがあった。

 翔が「やってる」と言ったので、それ以上聞かなかった。

 やっているならいいのだ。

「やってる」の定義が広すぎる気はするが、就活はやってみないと分からないことも多い。

 誠一自身も、当時は似たようなものだった気がする。


 麻央は昼頃に友人と出かけると言っていて、今は部屋でその準備をしているようだ。

 ドライヤーの音がしている。

 誠一は廊下でドライヤーの音を聞くたびに、「これが娘を持つということか」と毎回思う。

 息子の翔はドライヤーをほとんど使わない。

 誠一自身もほとんど使わない。

 だからドライヤーの音は、家の中で「麻央がいる」というサインだ。

 音が止まると出かけてしまう。


 誠一は、邪魔にならないようにリビングにいた。


「邪魔にならないようにいる」というのが休日の誠一のスタンスだ。

 存在はする。

 ただし目立たない。

 声をかけられたら答える。

 かけられなければかけない。

 リビングという共有空間にいながら、できるだけ「いない感じ」を維持するのが、長年の経験から得た最適解だった。


 これが透明人間の戦略だ、と誠一は先週気づいた。


 家でも透明。

 会社でも透明。

 駅のコンコースでは、蓋の閉じたピアノの前に立ち尽くす存在。

 三重に透明な人間だ、と思うと少し笑えた。

 笑えるくらいには、今週は気持ちが違う。


 誠一は新聞を読んだ。

 スポーツ欄を読んだ。

 プロ野球の順位表を見た。

 経済欄を読んだ。

 株価の動向が書いてあった。

 誠一はほとんど株をやっていない。

 持っているのは会社の持株だけで、それも大した額ではない。

 社会欄を読んだ。

 読み終えた新聞を折り畳み、テーブルに置いた。


 やることがなくなった。


 翔が「父さん、今日どっか行かないの」と言った。

 それは誘っているのではなく、「リビングを占領しないでくれ」に近いニュアンスだということを、誠一は長年の経験から察知していた。

 二十六年間育てた息子の「どっか行かないの」の意味を、父親は正確に読める。


「散歩でもしてくるか」と誠一は言った。

「行ってらっしゃい」と久美子が台所から言った。


 追い出されたわけではない。

 おそらく。

 でもこういう時の「行ってらっしゃい」のテンションは、「早く行ってらっしゃい」と大体同じだということも、誠一は知っていた。

 言われた瞬間に久美子の目が台所に戻っていたら、「早く」のニュアンスが入っている。

 今日は戻っていた。


 外は穏やかな晴れだった。

 十月の後半にさしかかり、空気が少し澄んでいる。

 銀杏の葉が黄色くなりかけている。

 誠一は特に行き先を決めずに歩き始めた。

 ジャケットにチノパン、スニーカー。

 休日の誠一は職場の誠一より少し若く見える、と久美子が以前言っていた。

 以前、というのは五年以上前のことだ。

 最近は言わない。

 言わないということは、最近は若く見えなくなったのかもしれないし、ただ興味がなくなっただけかもしれない。

 どちらかは聞かない。

 聞いて後者だったら傷つくからだ。

 五十五歳の男が傷つく、という表現はあまりかっこよくないが、傷つくものは傷つく。


 気がつくと、駅の方角に歩いていた。

 駅ビルのコンコース。


 土曜の昼間は人が多い。

 家族連れ、カップル、買い物途中の主婦。

 昨夜の静けさとは全く違う空間だ。

 ピアノの前にも、数人が足を止めていた。


 今日は誰も弾いていなかった。


 誠一は人混みの端に立ち、しばらくピアノを見ていた。

 昨夜、あそこで四小節弾いた。

 あそこで手が震えた。

 あそこで老人に「失礼ですが」と声をかけられた。


 昼間の光の中で見ると、昨夜よりも普通のピアノに見える。

 怖くもなく、神聖でもなく、ただのグランドピアノだ。


 誠一はゆっくりとピアノ椅子に近づき、座った。


 土曜の昼間だ。人目がある。

 昨夜のような静けさはない。

 でも、だからこそ——と誠一は思った。

 逃げる理由がなくなる。

 人がいるなら弾けばいい。

 人がいないから弾けないのではなく、そういうものじゃないはずだ。


 両手を鍵盤に置いた。

 今日は震えなかった。


 最初の音が出た。昨夜弾いたワルツの続きからではなく、もっと単純な音階から始めた。

 ドレミファソラシド、と指を動かす。

 一オクターブ。

 両手で。

 子どもの練習みたいだが、それでいい。

 今の誠一には、まずこれが必要だった。

 指に鍵盤を思い出させること。

 音を出すことを、怖くないと体に教えること。


 音階が終わったところで、誠一はそのまま続けた。


 短い旋律が出てきた。

 どこかで聞いた曲ではない。

 その場で指が動かす音の流れ。

 即興ともいえないような、手探りの音。

 でもそれが、コンコースの空気の中に溶けていった。


「おじさん、うまいね」


 声がした。


 見ると、五、六歳くらいの男の子が、ピアノの横にいた。

 買い物袋を持った母親が後ろで「ごめんなさい、急に声かけちゃって」と言った。


「いや、いいですよ」と誠一は言った。

「ほんとにうまいの?」と男の子は言った。

 疑っている顔だ。

「どうかな。昔はもう少しうまかったかな」

「いつ弾けるようになったの」

「十歳の頃から」

「何年やってんの」

「んー、四十五年くらい」

「よんじゅうご!」と男の子が叫んだ。

 お母さんが「静かに」と言った。

「でも、しばらくやってなかったから、錆びてるんだよ」と誠一は言った。

「さびって何」

「錆びる、ってのは……うまく動かない、ってこと」

「ふーん」と男の子は言って、「じゃあもっと弾けばさびが取れるじゃん」と言った。


 返す言葉がなかった。

 五歳児の理屈の方が、五十五歳の自分の言い訳より正しかった。


 男の子と母親が立ち去った後も、誠一はしばらく弾き続けた。


 さっきより少し踏み込んで、ショパンのワルツの最初の部分を弾いた。

 昨夜途中で止まったところまで、今日は辿り着けた。

 それ以上は弾かなかった。

 弾けるかもしれないが、今日はここまでにしようと思った。

 急がない方がいい気がした。

 理由は自分でもよく分からないが、そう感じた。

 鍵盤から手を離した時、背後に誰かの気配があった。


「また来られたんですね」


 低く、穏やかな声だった。

 誠一は振り返った。

 昨夜の老人だった。

 紺色のジャケット。

 白髪。 

 深い皺。

 飄々とした顔立ちは昨夜と変わらない。

 ただ今日は手に缶コーヒーを持っていて、なんとなくピアノの傍のベンチに座るつもりらしい。


「あ……昨夜も」と誠一は言った。

「ここでよく休憩するんです」と老人は言った。

「このベンチが居心地いいもので」

 老人はピアノから二メートルほど離れたベンチに腰を下ろした。

 缶コーヒーを一口飲んだ。

 誠一はまだ椅子に座ったまま、なんとなく立ち去りにくかった。


「お上手ですね」と老人が言った。

「いや、全然」

「いいえ。ずいぶん懐かしい弾き方をされますね」

 懐かしい、という言葉が引っかかった。

「懐かしい弾き方、というのは」

「昔の奏法といいますか」老人は言いよどんでから、「ロマン派の、昔ながらの解釈の弾き方です」と言った。

「最近の若い方はテンポが整然としていますが、あなたの弾き方にはルバートが入っている。呼吸がある」


 ルバートという言葉を誠一が聞いたのは、何十年ぶりかだった。

 テンポを自由に揺らすこと。

 楽譜通りではなく、音楽に呼吸させること。

 古賀教授が繰り返し教えてくれた技法だ。


「先生に、そう教わりました」と誠一は言った。

「どちらの先生に?」

「古賀、という人に」


 老人は缶コーヒーを持ったまま、少し間を置いた。

 それから「そうですか」とだけ言った。

 その「そうですか」の言い方が、奇妙だった。

 驚いているわけではないが、何かを知っているような、あるいは何かを思い出したような——言葉の奥に、なにか引っかかりがある返し方だった。


「ご存知ですか、古賀という人を」と誠一は聞いた。

「さあ」と老人は言った。

「ピアノを弾く方は多いですから」

 それ以上の答えはなかった。


 老人は缶コーヒーを飲み終え、ゆっくりと立ち上がった。

「また弾きに来てください」と老人は言った。

「ここのピアノ、いい音がしますよ。ちゃんとした職人が調律していますから」

 それだけ言って、老人はゆっくりと歩き去った。

 昨夜と同じように、人混みの向こうへと消えていった。


 誠一はしばらく、老人の消えた方向を見ていた。

 懐かしい弾き方。

 ルバート。

 古賀という名前への、あの一瞬の間。

 ちゃんとした職人が調律している——と言った。

 ということはあの老人は、このピアノのことを知っている。

 ここに通っている。

 あるいは、ここに関わっている。


 誠一は鍵盤を見た。昼間の光の中で、鍵盤は白く光っていた。

 調律師、と誠一は思った。

 あの老人が調律師なのかどうかは分からない。

 でも「ちゃんとした職人が調律している」という言い方は、少し内側を知っている人間の言い方だった。

 誠一はゆっくりとピアノ椅子から立ち上がった。


 帰り道、誠一はコンビニに寄った。

 肉まんを一つ買った。

 三百円近いやつ。

 少し高いが、今日は気分がよかった。

 外で一人で食べながら歩くのは久しぶりだった。

 子どもみたいで恥ずかしい気もしたが、誰も見ていなかった。


 五歳の男の子の言葉が、また頭に浮かんだ。

 ——もっと弾けばさびが取れるじゃん。

 そうだな、と誠一は思った。


 三十三年間、開けなかった箱がある。

 でも段ボール箱は開いた。

 ピアノの前に座れた。

 四小節、弾けた。

 今日は音階と、ワルツの一節まで弾けた。

 少しずつ、さびが取れている。

 取れているのかもしれない。

 まだ分からないが、手の震えは今日は来なかった。

 それで十分だ。

 今日のところは。


 帰宅すると、翔が「あ、父さんお帰り」と言った。

「おう」

「どこ行ってたの」

「駅の方」

「なんか買ってきた?」

「肉まん食べながら歩いてた」

 翔が「え、恥ずかしくないの」と笑った。


 笑われた。

 笑われたが、これは笑いかけてきたということでもある。

 父親が笑われることと、父親と笑いを共有することは、ほんのわずかだが違う。


「恥ずかしいよ」と誠一は言った。

 翔がまた笑った。

 今日はそれだけで、もう十分だ。

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