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第五話「1993年の楽屋」

 翌朝、誠一は普段より三十分早く目が覚めた。


 五時五十九分。

 目覚まし時計が鳴る一分前。

 こういうことは、よくある。

 体内時計というのは、意外と几帳面にできている。

 悩んでいる時ほど、きっちり起きる。

 脳が「まだ話し合おう」と言っているのかもしれない。


 誠一は布団の中で天井を見ながら、昨夜のことを思った。

 四小節。

 右手の震え。

 老人の声。


 隣で久美子はまだ眠っている。

 静かな呼吸が聞こえる。

 三十年近く同じ部屋で眠っているのに、久美子の寝顔を見る機会は少ない。

 誠一が起きる頃には大抵先に起きているし、誠一が眠る頃にはすでに先に寝ている。

 平行線だ。

 二本の線路が、ずっと同じ距離を保ったまま並走している。

 それを「冷え切っている」と呼ぶ人もいるかもしれないが、誠一はそうは思わない。

 冷え切った夫婦は、同じ部屋で寝ない。

 久美子はまだ同じ部屋にいる。

 それでいい、と思っている。

 思っているのだが、「それでいい」と積極的に思うようになった自分が、少し気になる時もある。


 目覚まし時計が鳴る前に布団を出た。

 洗面台で顔を洗いながら、今日が何曜日かを確認した。

 金曜日。

 週の最後。

 月末まであと一週間ちょっと。

 いつもの朝だ。

 ただ、指先に、まだあの感触が残っている気がした。


 その日の会議で、誠一は珍しく発言した。

 田中の新規顧客プレゼンに、数字の根拠が薄い箇所があった。

 先週の会議では部長に先を越されて口を閉じたが、今週は少し違った。

 昨夜、何かが少し動いた気がする。

 指が動いたように、口も動いた。


「田中くん、三ページ目の市場規模の数字なんだけど、これ去年のデータだよね。今年の第三四半期のリポートが先週出たから、それを参照した方がいい。数字が少し変わってる」

 田中が止まった。

 部長も止まった。

「あ、村上さん、そのリポート、どこで出てたんですか」

「業界団体のウェブサイト。先週の木曜に更新された。見てなかった?」

「見てなかったです……」

「一応送っておく」

 会議はその後修正方針で進み直した。

 部長が「助かった、村上さん」と言った。

 田中が「すみませんでした」と頭を下げた。


 たったそれだけのことだが、誠一はコーヒーカップを持ちながら、ほんの少し気分が違った。

 会議で発言する、という行為が、こんなに久しぶりのことだったとは気づかなかった。

 何週間ぶりだろうか。

 何ヶ月ぶりかもしれない。

「どうせ聞かれない」「どうせ部長が先に動く」と思って閉じていた口が、昨夜から少しだけ蝶番が緩んでいる気がした。


 昼食は今日も幕の内弁当だった。

 三百九十八円。

 ひじきは相変わらず甘い。

 ただし今日は、田中が「隣いいですか」と言って来た。

 誠一は「どうぞ」と言った。

 田中は自分の唐揚げ弁当を広げ、「さっきの資料、ありがとうございました」と言った。

「業界リポートって、ああいうの毎回チェックしてるんですか」と聞いた。

「一応ね」と誠一は言った。

「どこで見るんですか」

「さっき言ったサイト。ブックマークしておくといい」

「登録いりますか」

「いらない。無料で見られる」

「じゃあ教えてください」と田中は言い、スマートフォンを出した。

 誠一はURLを教えた。

 それだけの会話だったが、田中が「なんで今まで教えてくれなかったんですか」と笑いながら言った。

「聞かれなかったから」と誠一は答えた。

 田中が「それはそうだ」と笑った。

 誠一も、少し笑った。


 昼休みを終え、午後の仕事を片付けて退勤した時、誠一の頭の中は三十三年前にあった。

 帰りの電車の中で、誠一はずっと窓の外を見ていた。

 車窓の向こうを街が流れていく。

 それを見ているようで、見ていなかった。


 一九九三年。十月。

 あの夜のことを、誠一は普段から思い出さないようにしていた。

 思い出さないように、というより、段ボール箱と一緒に押し入れにしまっていた。

 蓋を閉じる技術は、楽譜より先に身についていた。

 でも昨夜、指が震えた瞬間に、扉が少し開いてしまった。


 一九九三年十月、誠一は二十二歳だった。

 ショパン国際ピアノコンクールで三位を取ってから、一年が経っていた。

 三位、という結果について、世間は「惜しかった」と言い、恩師の古賀教授は「上出来だ」と言い、誠一自身は「もう一度必ず一位を取る」と思っていた。

 二十二歳というのはそういうものだ。

 世界が自分の前に開けているように感じる。

 才能があると信じている。

 才能があることを証明したいと思っている。


 古賀教授のリサイタルは、毎年秋に開かれる演奏会だった。

 教授自身の演奏と、弟子たちの演奏で構成される。

 その年、誠一はプログラムの最後に置かれていた。「メインアクト」ということだ。

 教授が「お前をトリにする」と言った時、誠一は誇らしかった。


 本番当日。

 誠一は楽屋で準備をしていた。

 タキシードに着替え、手を温め、鏡の前でネクタイを直す。

 緊張はしていなかった。

 その頃の誠一はまだ、舞台に立つことを怖いと思ったことがなかった。

 鍵盤の前に座れば、音楽が出てくる。

 出てくるものを出すだけだ、と思っていた。


 七時十五分、本番四十五分前。

 楽屋のドアがノックされた。

 スタッフが入ってきた。

 顔が青かった。

「古賀先生が……」

 誠一は振り返った。

「古賀先生が、本日午後五時、ご自宅で……心不全で、お亡くなりになりました」

 誠一は、その言葉を三回繰り返して聞いた。

 心不全。

 お亡くなり。


 部屋の中が静かになった。

 他にも弟子が数人いたが、誰も声を出さなかった。

「演奏会は、中止にします」とスタッフが言った。

「皆さん、本当に申し訳——」

「弾きます」

 誠一は自分でも驚くほど、はっきりした声で言っていた。

 全員が誠一を見た。


「弾きます。先生が作ったプログラムだから、最後まで通します」

 スタッフが止めようとした。

 他の弟子が「誠一、でも」と言った。

 誠一は聞かなかった。

 先生が言っていた言葉が、頭の中にあった。

 ——「誠一。お前はステージを逃げてはいけない。どんな時でも」

 それが先生の口癖だった。

 どんな本番前でも、どんな状況でも、舞台に立つことから逃げてはいけない、と先生は言い続けた。

 だから誠一は逃げなかった。


 ステージに出た。

 スポットライトが当たった。

 客席が、しんと静まり返っていた。

 客席の人間が全員、状況を知っているわけではなかっただろう。

 しかし何かが起きたことは空気で分かったはずだ。


 誠一は椅子に座り、鍵盤を見た。

 弾き始めた。

 最初の数小節は、弾けた。

 音楽が出てきた。

 指が動いた。

 先生の言葉の通り、ステージから逃げなかった。

 しかし——十小節目で、涙が出た。

 止められなかった。


 涙というものは、一度出始めると視界を歪める。

 鍵盤が滲んだ。

 音が、どこかへ行ってしまった。

 次の音が分からなくなった。

 分からないのではなく、指が動かなくなった。

 震えていた。

 あの震えだ。

 昨夜と同じ震え。


 誠一はステージの上で、演奏を止めた。

 客席が完全に静まり返った。

 一秒、二秒。

 誰も何も言わない。


 誠一は鍵盤から手を離し、椅子から立ち上がり、お辞儀をした。

 深く、ゆっくりと。

 それだけしかできなかった。

 ステージを歩いて退場した。

 袖に入った瞬間、膝が折れた。

 その場にしゃがみ込んだ。

 後ろから誰かが支えた。

 誰だったか覚えていない。

 その夜から、誠一はピアノを弾かなかった。


 理由は一つだ。

 先生は「逃げるな」と言った。

 誠一は逃げなかった。

 舞台には立った。

 でも演奏を止めた。

 途中で止めた。

 止まってしまった。

 つまり誠一は、先生の言葉を守ろうとして——守れなかった。

 守れなかった自分に、音楽を弾く資格はない。

 そう思った二十二歳の夜から、三十三年が過ぎた。


 電車が駅に着いた。

 誠一は窓の外を見たまま、しばらく座っていた。

 乗り過ごしていた。

 一駅分。

 慌てて立ち上がり、次の駅で降り、反対方向の電車に乗った。

 少し遠回りになる。十五分ほど時間が余計にかかる。

 電車の中で、誠一は右手を見た。

 握ったり開いたりした。

 普通の手だ。

 震えていない。

 三十三年前のあの夜に、ステージで止まってしまった手は、今日はちゃんと動いている。

 田中にURLを教えた手。

 幕の内弁当の箸を持った手。

 今夜この電車のつり革をつかんでいる手だ。


 あの夜から、この手で何千回キーボードを叩いただろうか。

 何百回電話をかけただろうか。

 何枚判子を押しただろうか。

 コピー機の紙詰まりを何十回直しただろうか。

 その全部の間、ピアノには触れなかった。

 触れなかった理由は——先生の言葉を守れなかったから。

 でも、今夜になって少し違う考えが浮かんだ。

 先生は「逃げるな」と言った。

 誠一はステージに立った。

 それ自体は「逃げなかった」ことではなかったか。

 途中で止まったことは——

 二十二歳で、師が死んで、その当日に舞台に立って、泣かずにいられる人間がいるだろうか。

 止まったことは、弱さかもしれない。

 でも、立ったことは——。

 答えはまだ出ない。

 三十三年かかっても出なかった問いが、電車の一駅分で解けるほど簡単なはずがない。

 でも、考えられたこと自体が、昨日と今日の違いだった。


 いつもより遅く帰宅した。

「今日は遅いね」と久美子が言った。

「乗り過ごした」

「珍しい」

「まあ」と誠一は言った。

 説明するつもりはなかった。

「電車の中で三十三年前のことを考えていたら乗り過ごした」と言えば、久美子は「三十三年前?」と聞くかもしれない。

 聞いてくれたら答えたかもしれない。

 でもそういう話を今夜する気力が、誠一にはまだなかった。


 台所を覗くと、今夜の夕飯は豚汁だった。

 大根と豆腐と豚肉。

 体が温まる匂いがした。

 久美子が作る豚汁は、誠一が知る限り、世界で一番美味しい豚汁だ。

 それは三十年間変わっていない。

 久美子自身はそれを知らないかもしれないが、誠一は知っている。


「美味しいね」と誠一は言った。

「豚肉、特売だったから」と久美子は答えた。

 今日は「残り物だから」ではなく「特売だったから」だった。

 微妙な違いだが、誠一にはその違いが分かる。

「残り物」は謙遜で、「特売」は理由の説明だ。

 つまり今日は、美味しいことを少し認めた、ということかもしれない。

 確信はない。

 でもそう受け取った。


 翔が自室から出てきて冷蔵庫を開けた。

 誠一が「豚汁あるぞ」と言うと、「ほんと?」と言って器に注いだ。

 久美子が「あなたの分もちゃんとあるから」と翔に言った。

 父親と息子が同じ豚汁を食べている、というだけのことだが、誠一には少し温かかった。


「父さん、今日なんかあった?」と翔が言った。

「何が」

「なんか、ぼーっとしてる」

「乗り過ごしたから」

「それだけ?」

「それだけ」

 翔は「ふーん」と言って豚汁を飲んだ。

 誠一も豚汁を飲んだ。

 久美子が台所で何かを片付けている音がする。

 麻央は今日アルバイトで、まだ帰っていない。

 それだけの、普通の夜だった。

 でも今夜の誠一には、その「普通」が少しだけ違って見えた。


 夜、誠一は押し入れを開けた。

 段ボール箱から楽譜を取り出した。

 ショパンのワルツ集。

 あの夜弾こうとした曲——ではなく、もっと若い頃、最初に古賀教授に弾いて聴かせた曲が入っている楽譜だ。

 イ短調のワルツ。

 遺作。


 楽譜を開いた。

 先生の書き込みが、そこにあった。

 鉛筆の細い字で「もっとルバートを」「ここは歌うように」「呼吸」と書いてある。

 三十三年前の字だ。

 紙が少し黄ばんでいる。

 でも字は鮮明だった。


 誠一はしばらくその楽譜を眺めた。

 もっとルバートを。

 呼吸。

 あの夜、先生は午後五時に亡くなっていた。

 誠一が本番の準備をしている時間、先生はもういなかった。

 誠一が楽屋で手を温め、ネクタイを直していた時間、先生は——。


 誠一は楽譜を閉じた。

 閉じてから、また開いた。

「もっとルバートを」という字を、指でなぞった。

 先生の字だ。

 三十三年前、この楽譜のそばに先生がいた。

 誠一の手首を持って「こう弾くんだ」と教えてくれた先生が。


 明日、また弾こう。

 段ボール箱に楽譜を戻し、押し入れを閉めた。

 今夜はここまでだ。

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