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第四話 「深夜の鍵盤」

 村上誠一には、家族のLINEグループがある。

 グループ名は「村上家」だ。

 メンバーは久美子、翔、麻央——の三人。

 誠一は入っていない。


 これが判明したのは半年前のことで、翔が「じゃあグルトークで共有するから」と言い、それを久美子と麻央が「うん」と言って、誠一だけが取り残された瞬間だった。

「俺は?」と聞くと、「お父さんLINEあんまり使わないでしょ」と麻央が言った。

 使う。毎日使う。

 田中から業務連絡が来るし、会社のグループも入っている。

 ただ、それを証明する術が、その場になかった。


 現在、村上家の家族的情報は全て「村上家」グループで共有される。

 夕飯の予定、誰かが帰りに買い物してくること、翔の選考状況、麻央の休みの予定——誠一はそれを「後から久美子に聞く」か「リビングで偶然耳に入る」かのどちらかで把握する。

 麻央の誕生日を知らなかったのも、ガス点検の立ち会いを突然頼まれたのも、よく考えると全部このグループのせいだ。


 とはいえ誠一は抗議しない。

「入れてほしい」と言うことが、なんとなく、みっともない気がする。

 なぜみっともないのかは、うまく説明できない。

 でもたぶん、「入れてほしい」と言った後の沈黙が怖いのだ。

「あ、そうだったね、ごめん」ではなく、「……まあ、別にLINEで何か送るわけでもないしね」という反応が返ってくる可能性を、誠一は知っている。

 知っているから言わない。

 言わないことで、確認しないで済む。

 これを処世術と呼ぶ人もいるかもしれないが、誠一は単純に「怖い」と思っている。

 五十五歳の男が家族のLINEグループに入れてくれと頼むことを怖いと思っている。

 まあ、怖い。

 どう転んでも怖い。


 その日は水曜日だった。

 会社でとくに何事もなく、定時ぴったりに仕事が片付いた。

「何事もない」とはすなわち、誰かに仕事を頼まれて、こなして、「助かりました」と言われる一日のことを指す。

 ドラマも波乱もない。

 誠一の職場の標準的な一日だ。

 七時に退勤した。


 帰る気になれなかった。

 理由は特にない。

 強いて言えば、帰っても誰も「お帰り」と言わないし、リビングでは家族がそれぞれの時間を過ごしているだろうし、電子レンジの前で一人夕飯を温めて一人で食べて「美味しかった」と誰にも言わずに食器を洗う——その一連の動作を想像すると、腰が少し重くなる。

 悲劇ではない。

 そういう生活をもう何年もしているのだから、慣れている。

 ただ今夜は、「慣れている」ということを認識したくない気分だった。


 誠一は帰りの廊下でエレベーターを待ちながら、スマートフォンを見た。

 通知ゼロ。

 着信なし。

 メッセージなし。

「村上家」グループがあれば、今頃「お父さん、晩ご飯何時に帰る?」とか「今日お母さんカレー作るって」とか来ているはずだ。

 ないのだから、来ない。

 久美子が何を作ったかも、誰がどこにいるかも、帰るまで分からない。


 エレベーターが開いた。

 中に社員が一人いた。

 誠一より若い、知らない顔の女性社員だ。

 二人でエレベーターに乗り、沈黙した。

 一階に着いたら互いに無言で別方向に歩いた。

 職場の一期一会とはそういうものだ。


 自動ドアを出ると、夜風が冷たかった。

 誠一はしばらく、ビルの前に立っていた。

 右に行けば駅。

 左に行けば近くのファミリーレストラン。

 どちらでもいい気がした。

 どちらでもよくて、でもどちらかを選ばないといけないから、誠一は左に歩いた。


 ファミリーレストランに入り、窓際の席に座り、ドリンクバーだけ頼んだ。

 コーヒーをカップに注いで、窓の外を見た。

 駐車場の街灯が光っている。

 たまに車が入ってくる。

 誠一は何も考えないようにしながら、三十分ほどコーヒーを飲んだ。

 飲み終えて、また注ぎに行った。

 今度はほうじ茶にした。


 隣のテーブルで、若い夫婦が子どもをあやしながら食事をしていた。

 子どもは三歳くらい。

 ファミレスのキッズメニューを食べながら、時々椅子の上で立ち上がろうとする。

 お父さんが「座って食べようね」と言う。

 子どもが「やだ」と言う。

 お父さんが苦笑いをする。

 お母さんが「ほら、パパが困ってるでしょ」と言う。


 微笑ましい、と誠一は思った。

 それから、自分の子どもたちが三歳だった頃のことを思い出そうとした。

 思い出せた記憶と、思い出せない記憶がある。

 麻央が「やだ」と言いながら椅子で立ち上がろうとした記憶は——ある。

 ある、気がする。

 確信はない。

 誠一はほうじ茶を飲み終え、会計を済ませ、店を出た。

 その足で、駅ビルに向かった。


 夜九時の駅ビルは、昼間とは別の顔をしている。

 店のシャッターが半分閉まり、通行人の数が減り、照明が少し落ちる。

 コンコースは静かで、昼間の賑やかさが嘘のようだ。

 足音がよく響く。

 誠一の革靴が、タイルの上で規則的な音を立てた。


 ピアノは、あった。

 今日も蓋が開いている。

 しかし周囲に人はいない。

 ピアノの前は完全に空だった。

 照明を受けた鍵盤が、白と黒のコントラストを静かに保っている。

 誠一はコンコースをゆっくり歩いた。

 今日は立ち止まる前から、足が向かっていた。

 昨日のように三歩で止まることもなく、気がついたらピアノの前に立っていた。

 周囲を確認した。

 誰もいない。


 誠一は静かに椅子に座った。

 高さを合わせる——今日は素早く、昨日よりも自然にできた。

 肘が鍵盤と水平になる位置。

 背筋をわずかに伸ばす。両足を床に置く。

 右手を鍵盤の上に乗せた。

 指が、鍵盤に触れた。

 最初は、ただ置いた。

 音を出す前に、まず触れた。

 象牙の質感ではなく、プラスチックの鍵盤だ。

 少し冷たい。

 でも、その冷たさが、妙に懐かしかった。

 冬の朝、練習室に入ってすぐ鍵盤に触れる時の感覚に似ている。


 ゆっくりと、最初の音を出した。

 ドの音。

 基準音。

 音楽の始まりの音。

 その一音が、夜のコンコースに広がった。

 ピアノの共鳴が、思ったより豊かだった。

 安いアップライトではなく、ちゃんとしたグランドピアノだ。

 音に深みがある。

 誠一の指が、次の音を押した。

 記憶が動いていた。

 頭で考えているのではなく、指が覚えている音の連なりを、体が勝手に追いかけていた。

 三十三年という時間が、指先ではなかったことになっている。


 ショパンだった。

 何を弾こうとも決めていなかったが、指が選んだのはショパンだった。

 夜想曲ではない。

 もっと若い頃、恩師の古賀教授に初めて弾いて聴かせた曲——ワルツ。

 イ短調。

 遺作の中の、短い曲。

 四小節、弾けた。

 五小節目に入ったところで、右手が震えた。

 突然だった。


 指が鍵盤から浮く。

 音が途切れる。

 震えは止まらない。

 手首から先が、細かく、しかし確かに震えていた。

 誠一は左手で右手首を包んだ。

 震えを抑えようとした。

 抑えられなかった。

 三十三年前の夜と、同じ震えだった。

 あの夜——古賀教授が逝った夜。

 ステージの上で、聴衆の前で、誠一の指は同じように震えた。

 そしてそのまま、止まった。


 誠一は鍵盤から手を離した。

 両手を膝の上に置き、ピアノの前に座ったまま動かなかった。

 コンコースに静寂が戻った。

 自分の呼吸だけが聞こえる。

 惨めだ、とは思わなかった。

 情けない、とも思わなかった。

 ただ、「そうか」と思った。

 三十三年間、蓋をしていたものは、こんなに簡単には開かないのだと。

 押し入れの段ボール箱を開けることと、鍵盤を弾くことは、全然違うことなのだと。

 しばらくそのままでいた。


「失礼ですが」

 声がした。

 誠一は振り返った。

 三メートルほど離れた場所に、老人が立っていた。

 七十代だろうか。

 背が低く、ゆったりとした紺色のジャケットを着ている。

 白髪で、顔に深い皺がある。

 飄々とした顔立ちで、誠一を怒っているわけでもなく、同情しているわけでもない、ただ静かに見ていた。

「弾いていたのですか」と老人は言った。

「少し」と誠一は答えた。

「ピアノ、使っていいやつですよね」

「ええ。どなたでも」

 老人は、それ以上なにも言わなかった。

 誠一も言わなかった。


 少し間があって、老人は小さくうなずき、踵を返してゆっくりと歩き去った。

 コンコースの向こうへ、人混みに溶けるように消えていった。

 誠一はまたピアノの前を向いた。

 鍵盤は白いままだ。

 弾き途中のワルツが、音にならないまま空中にある気がした。

 誠一はゆっくりと立ち上がり、椅子から離れた。

 今夜は、ここまでだ。


 帰宅は十時近かった。

「遅い」と久美子が言った。

「少し残ってた」

「ご飯は?」

「食べてきた」

 今夜も嘘をついた。

 ファミリーレストランでコーヒーを飲んでいたのだから「飲んできた」の方が正確だが、そこまで言わなかった。

 誠一が「ファミレスで一人でコーヒーを飲んでから帰った」と言うと、なぜそうしたかを説明しなければならなくなる。

 説明すると「帰りたくなかった」に近いところに辿り着いて、それは言いたくなかった。

 言うと、久美子が「なんで?」と聞くかもしれないし、「そう」と言って終わるかもしれない。

 どちらに転んでも、今夜は面倒だ。


 翔はもう部屋に引き上げていた。

 麻央の部屋から微かに笑い声がする。

 友人と電話をしているのかもしれない。

 久美子はソファに座ってスマートフォンでなにかを見ていた。


「風呂、入っていいよ」と久美子が言った。

「ありがとう」と誠一は言った。

 なぜ「ありがとう」なのかは自分でも分からない。

 風呂に入ることの許可を取ったわけではないのだが、久美子が「入っていいよ」と言い、誠一が「ありがとう」と答える、という会話は、この家ではごく自然に成立する。

 三十年かけて形成された言語体系だ。

 他の家庭では通じないかもしれない。


 風呂場で、誠一は右手を見た。

 もう震えていない。

 普通の手だ。五十五歳の、くたびれたサラリーマンの手だ。

 湯船に浸かりながら、あの四小節のことを思った。

 夜のコンコース。

 ドの音。

 指が動いたこと。

 そして震えが来たこと。


 惨めではなかった。

 本当に。

 恥ずかしくもなかった。

 人もいなかったし、弾き途中で止まっても、誰に迷惑をかけたわけでもない。

 ただ、震えた。

 三十三年前と同じように、震えた。

 そのことだけが、胃の底にある。

 重い、ではなく——確認した、という感じだ。

 まだそこにある、ということの確認。

 三十三年間蓋をしていたものは、まだそこにある。

 消えてはいなかった。

 それが怖いことなのか、よかったことなのか、誠一にはまだ分からなかった。

 ただ、指先に、あの冷たさがまだ残っている気がした。

 プラスチックの鍵盤の、あの冷たさが。


 風呂から上がり、歯を磨き、寝室に向かった。

 久美子はもう眠っていた。

 スマートフォンが充電器に刺さったまま、画面が暗くなっている。

 誠一は音を立てないように布団に入った。

 暗闇の中で、天井を見た。

 ——四小節。

 三十三年ぶりの、たった四小節。

 でも誠一は、弾いた。

 今夜それだけは、確かだった。

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