表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

第三話 「娘の誕生日」

 来週の土曜、麻央の誕生日だ。


 誠一がこれを知ったのは木曜日の夜のことで、「来週の土曜って空いてる?」という問いに「特に予定はない」と答えたら「じゃあいいや」で終わった、あの会話が唯一の情報源だった。

 誕生日ケーキは既に手配済みで、誠一の意見を聞く必要もなかった。

 ケーキの味も、どこのケーキか、チョコレートかイチゴかも知らない。

 つまり誠一は、娘の二十二歳の誕生日に向けて、なにもする必要がなかった。

 これをどう解釈するかは、難しいところだ。


「父親は出しゃばらなくていい」という信頼、とも受け取れる。

 あるいは「父親はいてもいなくても同じ」という無意識の除外とも受け取れる。

 誠一は長年サラリーマンをやってきたので、曖昧なメッセージを都合よく解釈する技術には長けているが、今回ばかりは二つの解釈の間でいつもより長く迷った。

 でも、ケーキを自分でも買いに行くことにした。

 ただしそれは誰にも言わなかった。


 金曜日の会社は、いつもより忙しかった。

 月末が近いため、各種報告書の締め切りが集中する。

 誠一の机の上には、自分の仕事と、頼まれた仕事と、本来誰かがやるべき仕事の三種類が等しく積まれていた。

 区別はない。

 全部「村上さんの仕事」になっていた。

「村上さん、先月の東北支社の売上データ、集計終わりましたか」

「もう少しで出ます」

「あと、取引先の年末の手土産リスト、人数確認してほしいんですけど」

「それは倉田さんの担当じゃないですか」

「倉田さん、今日休みで」

「……分かりました」


 これが月末というものだ、と誠一は思う。

 平日のあの静かな「なんでもやってくれる人」期が嘘のように、月末になると誠一への依頼が雪崩のように届く。

 そしてそれをこなすと「今月も助かりました」と部長に言われる。

「来月もよろしくお願いします」と言いたいのだろうが、そこは大人なので「助かりました」で止める。


 昼、田中が「今日は外に食べに行かないんですか」と聞いてきた。

「月末は無理」

「村上さん、月末だけで何時間残業してるんですか」

「数えたことない」

「数えたら辞めたくなりそうですよね」

 田中は悪意なくそう言って、「じゃあ今日は俺が奢りますよ、コンビニ行きましょう」と言った。

 思わぬ申し出だったので、誠一は一瞬止まった。

「いや、いいよ」

「行きましょうよ。村上さんのおかげで今月の見積もりも助かりましたし」

「あの計算ミス、気づいてたのか」

「……気づいてましたか」

「直しておいた」

 田中は数秒黙ってから「すみません」と深く頭を下げた。

 思ったより真剣だったので、誠一は少し驚いた。

「いいよ。今後気をつければ」

「ありがとうございます。絶対奢ります」


 結局田中に引っ張られてコンビニに行き、いつもの幕の内弁当ではなく、田中に勧められた鮭のおにぎりセットを買った。

 田中はお茶まで買ってくれた。

 誠一が「気を使わなくていいのに」と言うと、「気を使ってるんじゃなくて、普通に感謝してるんです」と田中は言った。

 その言い方が、妙に真剣だった。

 フロアの隅の丸テーブルで二人で食べた。

 田中は喋りながら食べる。

 今年の新人の話、採用面接の話、自分が入社した頃の話。

 誠一はあまり喋らず、うなずきながら食べた。

 それが自然だった。


「村上さん、入社した頃ってどんな社員だったんですか」

「今と変わらないよ」

「そんなことないでしょ。若い頃はバリバリやってたんじゃないですか」

「バリバリってほどでもなかったけど」

「何か夢みたいなのはなかったんですか、若い頃」

 誠一は鮭のおにぎりを一口食べた。

「あったよ。昔は」

「なんですか」

「音楽関係のことを、少し」

「え、楽器とかやってたんですか」

「昔ね」

「なんですか、ギター? ベース?」

「ピアノ」

「ピアノ! かっこいい」


 かっこいい、と言われることは久しぶりだった。

 誠一は少し面食らって「まあ昔の話だよ」と言った。

 田中は「今も弾けるんですか?」と聞いた。

 誠一は「どうかな」と言った。

 昔の話だ。

 正確には、三十三年前の話だ。


 その日の夜は残業で、帰宅したのは九時近くだった。

 リビングには久美子だけがいた。

 翔と麻央はそれぞれ外出か部屋にいるか、どちらかだ。


「今日は遅かった」

「月末で」

「ご飯は?」

「食べてきた」と誠一は嘘をついた。

 食べてきていない。

 ただ、残り物を温めて一人でダイニングに座るより、今夜はもう少し違う時間を過ごしたかった。

「そう」と久美子は言って、テレビに目を戻した。

 誠一は鞄を置き、ネクタイを緩め、自分の部屋に入った。

 デスクの引き出しを開ける。

 財布から一万円札を一枚抜いて、封筒に入れた。

 表に「麻央へ」と書いた。

 書いてから、少し考えた。

 なんかサラリーマンの祝儀袋みたいで味気ない、と思った。

 かといって、何か物をプレゼントしようにも、二十二歳の娘が何を好むのか分からない。

 K-POPのグッズか、コスメか、カフェのギフトカードか——全部なんとなく自信がない。

 田中に「村上さんの娘さん、何が好きですか」と聞ける話でもない。

 そもそも、なぜ自分はこれを黙ってやろうとしているのか、と誠一は思った。


 普通の父親は、誕生日の一週間前から「何が欲しい?」と聞くのではないか。

 あるいは「一緒に食べに行こう」と誘うのではないか。

 そういう当たり前のことが、なぜ誠一にはできなかったのか。

 答えは分かっている。「断られたら嫌だから」だ。

「断られたら嫌」という理由でなにもしないよりは、「断られようがどうしようが渡せるもの」を黙って渡す方がまだましだ——という、誠一なりの合理的判断だった。

 合理的かどうかは怪しいが、少なくとも行動には移せる。

 誠一はしばらく封筒を持ったまま考えてから、「麻央へ 誕生日おめでとう 父」と書き直した。

 少し改まりすぎた気もしたが、他に書くことがなかった。


 土曜日。

 村上家のリビングは、珍しく少しだけ賑やかだった。

 久美子が昼過ぎにケーキを取りに行き、翔が久しぶりに早起きしてリビングにいた。

 麻央はいつもより機嫌がよく、昼から好きな映画をテレビでかけていた。

 誠一は邪魔にならない距離感を保ちつつ、リビングの端のソファに座ってスポーツ紙を読んでいた。

 スポーツ紙というのは便利なもので、読む気がなくても広げていれば「読んでいる人」になれる。

 誠一はページをめくりながら、実際にはリビングの気配を観察していた。

 映画の音声。

 翔がたまに「ああ、そこ面白い」と独り言を言う声。

 麻央がスナック菓子の袋を開ける音。

 誰も、なにも、言わない。

 でも今日は何か違う。

 音がある。

 気配がある。

 誰も「父さんも一緒に映画見よう」とは言わなかった。

 誠一も言わなかった。

 言えばよかったのかもしれない。

 でも言いそびれた。

 言いそびれて、スポーツ紙を読むことになった。

 スポーツ紙を読み終わると、やることがなくなった。


 プロ野球の順位表を三回読んだ。

 内容は頭に入らなかった。

 台所で久美子の手伝いでもしようと思って立ち上がったら、「あ、いいよいいよ」と言われた。

 誠一は座り直した。

 麻央の映画から笑い声がした。翔がつられて笑った。

 久美子が台所から「何笑ってんの?」と聞いた。

 麻央が「お母さんも見てよ、面白いから」と言った。

 久美子がエプロンをつけたまま出てきて、三人で画面を見た。

 誠一はスポーツ紙を持ったままソファにいた。


 映画の笑いどころが分からなかった。

 というより、三人が向き合っている画面の角度からは、誠一には少ししか見えなかった。

 身体を動かせばよかったのだが、なんとなく今さら割り込む気がしなかった。

 おかしい。

 自分の家のリビングで、自分の家族と、なぜ「割り込む」という動詞が出てくるのか。

 誠一はしばらくそれを考えてから、「ちょっと出てくる」と言って立ち上がった。

 三人は気づかなかった。

 誠一は繰り返した。

「ちょっと出てくる」

「あ、うん」と久美子が画面から目を離さずに言った。


 駅ビルのコンコースに、今日もピアノはあった。

 土曜日の午後は人通りが多い。

 平日と違い、買い物客や家族連れが多い。

 ピアノの前では、若い男性がジャズっぽいアレンジで何かを弾いていた。

 かなり上手い。

 通りすがりの人が立ち止まって聞いている。

 誠一もその端に立って、しばらく演奏を聴いた。

 上手い、と思った。

 指が速い。

 リズムが軽い。

 そして同時に——自分の耳が、まだ「上手い・下手」を判別できることに気づいた。

 三十三年間ピアノを弾いていなくても、音楽を聴く耳は残っていた。

 そのことが、少し意外だった。

 いや、正直に言えば、「まだある」という安堵に近い感覚だったかもしれない。

 三十年以上使っていないのに、まだ機能している部分があった。

 コピー機の修理スキルより、よほど意外な発見だった。


 男性が演奏を終えると、拍手が起きた。

 男性は軽くお辞儀をして立ち上がり、ピアノを離れた。

 ピアノの前が空になった。

 誠一はまた、あの感覚を覚えた。

 足が動く前に、今日は誠一は自分に問いかけた。

 ——弾くのか。

 答えは出なかった。

 でも足は、ゆっくりと前に出ていた。

 一歩。

 二歩。

 三歩。

 四歩。


 ピアノの前に立った。

 鍵盤が目の前にある。

 昨日までは蓋越しに眺めていたそれが、今日は完全に開いている。

 誠一はゆっくりとピアノ椅子に座った。

 高さが合わない。

 少し低すぎる。

 誠一は手探りで椅子の高さを調整した。

 昔やっていた通りに、肘が鍵盤と水平になる高さに合わせる。

 その動作を、体が覚えていた。

 両手を膝の上に置いた。


 人が見ている。

 何人かが立ち止まっている気配がある。

 誠一は目を閉じた。

 頭の中に、音楽が浮かんだ。

 どの曲とは決めていなかった。

 でも浮かんだものが、あった。

 右手をゆっくりと鍵盤の上に置いた。

 最初の一音を——

 その瞬間、誠一のスマートフォンが鳴った。

 マナーモードにしていなかった。

 着信音が、コンコースに響いた。

 誠一は反射的に手を引いた。

 ポケットからスマートフォンを取り出す。

 画面に「久美子」と表示されている。

 出た。

「どこ行ったの? ケーキ食べるよ」

「あ、ごめん。すぐ帰る」

 電話を切った。


 誠一はピアノ椅子から立ち上がり、鞄を持ち直した。

 鍵盤は白いままだ。

 どの音も鳴らなかった。

 触れてすらいなかった。

 しかし——誠一は今日、椅子に座った。

 高さを合わせた。

 それだけで十分かどうか分からないが、昨日よりは確実に前進していた。

 誠一は駅ビルを出て、足早に家へ向かった。


 帰宅すると、テーブルの上にケーキが置いてあった。

 苺のショートケーキだ。

 小さめのホールケーキで、「HAPPY BIRTHDAY MACO」と書いてある。

 麻央の名前はまおだからMaoではないかと思ったが、言わなかった。

 言う必要はない。

「遅い」と麻央が言った。

「ごめん。ちょっと寄り道して」

「どこに」

「駅の方」

 麻央はそれ以上聞かなかった。

 誠一は自分の部屋から封筒を持ってきて、「はい」と麻央に差し出した。

 麻央は封筒を見た。

「麻央へ 誕生日おめでとう 父」という文字を読んだ。

 一瞬、不思議そうな顔をした。

「……なにこれ」

「誕生日プレゼント。好きなもん買いなさい」

 麻央は封筒を受け取り、中を覗いた。

 一万円札を見て、また誠一を見た。

「ありがとう」

 その言い方が、思ったより素直だった。

 誠一は「どういたしまして」と言った。

 翔が「俺にはくれないの」と言ったので「お前の誕生日にやる」と答えた。

 久美子は何も言わなかったが、なんとなく、口元が少し動いたような気がした。


 ケーキを食べた。苺が甘かった。

 四人が同じテーブルについて、同じケーキを食べた。

 テレビは消えていた。

 麻央が「最近バイト先で面白い人がいてさ」と話し始めた。

 翔が「どんな人」と聴いた。

 久美子が「へえ」と相槌を打った。

 誠一はケーキを食べながら、その話を聴いていた。

 話しかけてはいない。

 でも、今日は聴こえた。

 会話の端に、誠一の耳が届いていた。

 ケーキのお代わりを誠一が「もう一切れいい?」と言うと、麻央が「食べていいよ」と言って自分で切り分けてくれた。

 小さな、でも意外な親切だった。

 誠一はそれをゆっくり食べた。

 それで十分だった。

 今夜は、十分だった。


 夜、誠一は布団の中で天井を見ながら、今日のことを順番に思い出した。

 ピアノ椅子に座ったこと。

 高さを合わせたこと。

 鳴らなかった最初の一音。

 電話。

 封筒を受け取った麻央の顔。

 そして、麻央が素直に「ありがとう」と言ったこと。

 二十二年分の「ありがとう」が、あんなに短い一言に入っているとは思わなかった。

 それとも単純に誕生日の礼儀として言っただけかもしれない。

 どちらか分からないが、どちらであっても、聞こえた言葉は同じだった。


 誠一は目を閉じた。

 今日の自分は、昨日よりほんの少し違うことをした気がする。

 ピアノの前に座った。

 封筒を渡した。

 たったそれだけだ。

 世界は何も変わっていない。

 でも、ピアノの鍵盤の白さが、まだ瞼の裏に残っている。

 触れなかった鍵盤が、ずっとそこに白くある。

 ——明日は、弾けるだろうか。

 答えを出す前に、誠一は眠った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ