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第二話 「誰も知らない棚」

 村上誠一には、秘密がある。


 といっても、愛人がいるとか、裏口座に億単位の資産があるとか、そういう色めいた話ではない。

 もしそんな秘密があったなら、誠一の人生はもう少しドラマチックだったはずだし、少なくとも久美子は誠一を「空気」扱いにはしなかっただろう。

 秘密は、押し入れの中にある。

 段ボール箱の下、古い毛布の裏、三十年誰にも触れさせなかった領域——そこに、茶色く変色した紙袋が一つ、息を潜めている。

 誠一はその存在を知っている。

 家族は誰も知らない。

 それだけの話だ。

 それだけの話のはずだった。


 木曜日の朝。

 村上家の食卓は今日も平和だった。

 つまり、誰も口をきかなかった。

 久美子は冷蔵庫の前で腕を組み「今日の夕飯どうしようかな」と独り言を言っていた。

 独り言なので、誠一が「なにか作ろうか」と言っても無効だ。

 実際に言ってみたことがあるが「あなた、コンロの使い方分かる?」と返ってきたので、二度と言わないことにした。

 分かる。

 ガスコンロの使い方くらい知っている。

 ただ分かっていることと、「あなたは台所に立つべきでない」という雰囲気の間には、高い壁がある。


 翔は昨夜のOB訪問が良い感触だったらしく、珍しく機嫌が良かった。

「その会社、雰囲気よかったわ」とスマートフォンに向かって言ったので、誠一は「そうか、よかったな」と返した。

 翔は「うん」と言って画面をスクロールした。

 会話は成立したと解釈してよいだろう。

 誠一は心の中で小さくガッツポーズをした。

 麻央は今日も部屋から出てこなかった。

 前の夜十一時過ぎに帰宅した音がしていた。

 誠一はその時まだ起きていたが、なんとなく声をかけられなかった。

「おかえり」と言うのは簡単だが、廊下越しに言うのはなんとなく間が悪い気がして、結局黙っていた。

 親子の距離感というのは難しい。

 近づこうとすると逃げられ、離れていると「父親として無関心」と思われる。

 その最適距離を誠一はまだ摑めていない。

 三十年近く誠一の父だが、子育ての最適解を彼が見つけたことは一度もなかった。


 会社に着くと、田中が珍しく早く来ていた。

「村上さん、おはようございます」

「おはよう。今日は早いね」

「面接の資料作らないといけなくて。村上さん、採用面接の評価シートってどこにありますか」

「人事部のサーバーの共有フォルダ。〈採用管理〉→〈面接書類〉→〈評価フォーム〉の順で開くと新しいやつが入ってる」

「あ、ありがとうございます! さすがです」

 さすが、という言葉を誠一は最近いろんな意味で受け取るようになっていた。

 本当に感心している「さすが」と、「詳しいですね(またマニアックな情報を…)」というニュアンスの「さすが」と、「村上さん、百科事典みたいですね」という若干引いた感じの「さすが」がある。

 田中のそれは二番目か三番目だと思うが、こちらとしては「さすが」と言われる間は悪くない。

 午前中、誠一はフォーマットの修正を黙々と続けた。

 エフティ建材の社内書類フォーマットは、誠一が中堅社員だった頃に整備したものがベースになっている。

 つまり誠一にとっては自分の子どもみたいなものだ。

 その子どもが三十年の間に他部署の手で少しずつ改変され、継ぎ接ぎだらけになって戻ってきた。

 見るたびに「そこはそう変えちゃいけなかったんだよ」と思う箇所がある。

 言っても仕方ないので修正するだけだが。


 たとえば今回の問題を引き起こした変更箇所は、列幅の設定だった。

 誰かが気を利かせて「見やすくしよう」と列幅を変えたせいで、印刷時にレイアウトが崩れるようになったらしい。

 気持ちは分かる。

 見やすくしたかったのだろう。

 でもエクセルには「見やすくしようとして壊す」という呪いが常につきまとっている。

 誠一はこの種の問題を二十七年で何十回解いてきたか分からないが、毎回同じ溜め息をつくことだけは変わらない。

 溜め息は、声に出さない。

 出したら老害になる。

「お昼、どうします?」と田中が声をかけてきた。

「いいよ、俺は」

「最近毎日コンビニじゃないですか。たまには来てくださいよ」

「混むからな、この時間は」

「村上さん、コンビニで何食べてるんですか」

「幕の内弁当」

「毎日ですか」

「月曜は違う」

「何ですか」

「のり弁当」

 田中は三秒ほど無言で誠一を見てから、「……体に気をつけてください」と言ってランチに出かけた。

 心配してくれているのか、哀れんでいるのか分からなかったが、どちらであっても悪意がないことは確かだった。

 今日の幕の内弁当は、税込四百二十八円。

 値上がりしていた。

 ひじきの煮物はまた甘すぎた。

 しかし誠一は文句を言わない。

 コンビニのひじきに過度な期待をするのは、後輩の田中に「この件、もう少し深く考えて」と言うのと同じくらい、実りのないことだと学んでいた。

 午後、誠一は一時間ほど取引先への電話をかけ続けた。


 エフティ建材の取引先は、全国に百十七社ある。

 その中の二十八社が誠一の担当で、そのうち今月フォローが必要なのが七社、そのうち今日中に話したいのが三社だった。

 一社目は「担当者が外出中」で折り返し待ち。

 二社目は「ただいま会議中」で折り返し待ち。

 三社目はつながったが「担当が変わりまして」と言われ、引き継ぎ確認のため改めて電話することになった。

 つまり三社かけて、成果はゼロだった。

 ゼロではあるが、「電話した」という事実は残る。

 営業の世界では「電話した」という事実が記録に残り、それが仕事をしている証拠になる。

 内容は問われない場合も多い。

 誠一は「架電履歴」の欄に三件分の記録を入力し、次の仕事に移った。

 二十七年でもっとも身についた技術は、「仕事をしている感」の管理かもしれない。


 退勤は七時半。

 今日も残業代は申請しなかった。

 申請しないのが「ベテランの美学」ということになっているが、そういう「美学」は往々にして得をするのが会社の方だ、と誠一は知っている。

 知っているが、今さら変えようという気力もない。

 二十七年かけて積み上げた「申請しないキャラ」を今更壊したとして、残るのは気まずさだけだ。

 そのコスパを天秤にかけると、いつも「申請しない」に傾く。

 誠一は今日も「壁」になりながら駅へ向かった。

 街路樹の葉が少しずつ色づいている。

 十月の中旬。

 歩きながら、誠一は今日一日を振り返った。

 田中の「さすが」。

 電話三件でゼロ成果。

 部長の申し訳なさそうな顔の新バリエーション(今日は少し眉毛が下がり気味だった)。

 幕の内弁当のひじき、甘すぎ。

 これが誠一の一日だ。

 まとめると、だいたいこの五行に収まる。

 五行に収まる一日が、もう二十七年続いている。

 人生をそういう計算で考えるべきではないかもしれないが、誠一はたまにそういう計算をしてしまう。

 そういう時は大抵、夜の帰り道で、周りに知り合いがいない時だ。


 駅ビルのコンコースに差しかかった時、誠一は昨日のことを思い出した。

 あのピアノ。

 今日もあるだろうか——と思いながら改札前を曲がると、あった。

 昨日と同じ場所に、同じ黒いグランドピアノが置いてある。

 今日は蓋が開いていた。

 白い鍵盤が、コンコースの照明の下でくっきりと光っている。

 昨日と違うのは、ピアノの前に人がいることだった。

 小学生か中学生くらいの女の子が、ちょこんとピアノ椅子に座っている。

 傍らに母親らしき女性が立っている。

 女の子はしばらくもじもじしていたが、やがて両手を鍵盤の上に置いた。

 ゆっくりと、「ねこふんじゃった」を弾き始めた。

 たどたどしい。

 何度か音を外す。

 それでも最後まで弾き切ると、母親が「すごい!」と拍手した。

 女の子は照れくさそうに笑った。

 通りすがりのサラリーマンが二人、足を止めて笑顔を向けた。

 誰かが「かわいい」と言った。

 誠一もその場に立ち止まっていた。

 三メートル離れた場所から、誠一は鍵盤を見ていた。

 八十八鍵。

 低音から高音へ、白と黒が規則正しく並ぶ。

 女の子の小さな手が鍵盤から離れると、会場——とも言えないが——の視線が自然と散る。

 ピアノの前が空になった。

 誠一は一歩、前に出た。

 気づいたら、二歩目を出ていた。

 三歩目。

 鍵盤まで、あと一メートル。

 ——次の電車、あと四分です。

 ホームのアナウンスが流れた。

 誠一は立ち止まった。

 四分。

 改札を抜けてホームに上がれば、ギリギリ間に合う。 

 間に合わなくても次の電車は七分後にある。

 問題ではない。

 問題ではないのだが、誠一の足は止まっていた。

 鍵盤に触れることなく、誠一はゆっくりと後退した。

 右手が、またほんの少し動いた。

 今日は気づかないふりをした。


 帰宅は八時を過ぎていた。

「ただいま」

 返事はなかった。

 今日は、いつもと少し違った。

 リビングに久美子と翔と麻央が揃っていた。

 久美子がスマートフォンを見ながらソファに座り、翔の隣で麻央がなにかを話している。

 三人が同じ空間にいることは珍しい。

 誠一は「おっ」と思ってリビングに顔を出した。

「あ、お父さん。ちょうどよかった」と麻央が言った。

「なんだ」

「来週の土曜って空いてる?」

「特に予定はないけど」

「じゃあいいや」

「なんだ」

「翔にも聞いたんだけど、土曜バイトあるって言うから」

「だから俺はいるけど」

「いや、もうお父さんはいいって」


 麻央は翔に向き直り、また話し始めた。

 会話が終わった。

 というか、会話が成立しなかった。

 参加を求められたわけでも、断られたわけでもなく、最初からカウントされていなかった。

 誠一はしばらくリビングの入り口に立っていたが、三人とも誠一の方を向かなかったので、台所へ向かった。

「来週の土曜、なにかあるの?」と、久美子の背中に向かって聞いた。

「麻央の誕生日」と久美子が答えた。

「そうか。何歳になるんだっけ」

「二十二」

「ケーキでも買ってこようか」

「もう頼んであるから」

「そうか」

 誠一は冷蔵庫を開け、「今日のご飯は?」と聞いた。

「カレーがある」と久美子が言った。

 カレーは好きだ。

 誠一は電子レンジにかけながら、来週土曜日が麻央の誕生日だと初めて知ったことについて考えた。


 二十二歳。

 今年も、知らなかった。

 誠一の父親歴は二十二年だが、その間、子どもの誕生日を「当日に知っている状態で迎えた」のは何回あっただろうか。

 数えてみると、片手では足りるかもしれないが両手には届かない、という微妙な数字になりそうで、数えるのをやめた。

 夜、久美子が寝室に入った後、誠一はリビングに一人でいた。

 テレビをつけたが、見たい番組はなかった。

 翔は友人とのオンラインゲームに入ってしまって、ヘッドセットをつけて笑っている。

 麻央はさっきから料理動画を見ているらしく、時々「うわ、これ美味しそう」という声が部屋から漏れる。

 声が漏れてくると、麻央がそこにいることが分かる。

 誠一は立ち上がり、廊下を歩いた。

 そして、押し入れの前で止まった。

 特に意識していたわけではない。

 ただ、気がついたら、ふすまの取っ手に手がかかっていた。

 引いた。


 押し入れの上段には、久美子のセーターのしまい間違いと、去年買ったけど使わなかった加湿器と、何に使うかよく分からない段ボール箱が並んでいる。

 下段には布団、毛布、その奥に——誠一は膝をついて、毛布をそっと動かした。

 奥に、段ボール箱があった。

 誠一が自分で積み上げた荷物の裏、三十年間手をつけなかった領域。

 段ボール箱には何も書いていない。

 久美子は「中身は何?」と一度だけ聞いたことがあったが、誠一が「昔の仕事の書類」と言ったら、それ以上聞かなかった。

 嘘だ。

 仕事の書類は一枚も入っていない。

 誠一は段ボール箱の蓋をそっと開けた。

 中は、楽譜だった。


 ショパンのノクターン全集。

 バラード集。

 練習曲集。

 ベートーヴェンのソナタ。

 シューマンの子供の情景。

 書き込みだらけのスコア——先生の字、自分の字、消したはずのメモが薄く残っている赤鉛筆の跡。


 一番上に、折り畳まれた新聞の切り抜きがある。

 誠一はそれを広げた。

 日付は、三十三年前。

 紙は黄ばんでいて、折り目のところが少し破れかかっている。

 小さな、二段組みの記事だ。

 見出し——「日本の若き天才、ショパン国際ピアノコンクール第三位」

 写真が一枚ついている。

 タキシードを着た二十二歳の青年が、笑っている。

 痩せていて、髪が長い。

 今の翔よりも若い。

 誠一はその顔を、しばらく見た。


 三十三年前の自分は、笑っている。

 誠一が確認できる限り、あれほど無邪気に笑っている写真は後にも先にもない。

 二十二歳のあの秋だけ、誠一は「世界を手に入れた」という感覚を知っていた。

 三位、というのはつまり世界で三番目ということで、世界で三番目のピアニストというのはどう控えめに言っても「天才」の範疇に入る。

 その天才が今、ネクタイを緩めて、コンビニの幕の内弁当を食べて、コピー機の紙詰まりを直しながら五十五歳になっていた。

 笑えるといえば笑えるし、笑えないといえば笑えない話だ。

 いや、まあ、笑えない方が正しいかもしれない。

 三十三年前のあの写真の青年は、この未来を知らなかった。

 知っていたら笑えたかどうか、誠一には自信がない。

 ただ、あの頃の自分が見ていた景色は、確かに今とは違うものだった。

 上から見下ろすような広い景色。

 音楽が世界の全部だった時代。

 古賀先生の声が、廊下の向こうから聞こえる気がした。


「誠一、ショパンを弾く時は、まずその曲が生まれた夜のことを想像しろ。ショパンが何を想って、何を怖れて書いたのかを、指先まで感じながら弾け」

 先生の言葉は今も覚えている。

 三十三年経っても、一字一句忘れていない。

 忘れていないのに、三十三年間、使っていなかった。


 誠一は新聞の切り抜きをそっと折り畳み、楽譜の上に戻した。

 段ボール箱の蓋を閉める。

 毛布を元の場所に戻す。

 ふすまを閉める。

 立ち上がり、手のひらを見た。

 埃がついた。

 台所でハンドソープで手を洗いながら、誠一は今日ピアノの前で三歩進んだことを思った。

 三歩。

 一メートルにも満たない距離。

 それでも昨日より一歩多かった。

 どこへ向かっているのか、誰に向かっているのかは分からなかった。

 ただ、あの鍵盤は、蓋が開いていた。

 白い鍵盤が、照明の下で光っていた。

 ——女の子の「ねこふんじゃった」が、まだ耳の奥に残っていた。


 誠一は手を拭き、電気を消し、寝室に向かった。

 押し入れの中の段ボール箱は、また三十年間黙っていた。

 今夜だけは、少しだけ空気が入れ替わった気がした。

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