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第一話「透明な朝」

 村上誠一は、この世界に存在している。

 少なくとも、本人はそう思っている。


 毎朝六時半に起き、洗面台で顔を洗い、鏡の中の自分と目が合う。

 白髪が増えた。

 頬のあたりが少したるんだ。

 だが確かに、そこに顔はある。

 鼻もある。

 目も、ある。

 存在の証明としては十分なはずだった。

 問題は、それを確認してくれる人間が、この家に一人もいないということだった。


 村上家の朝は、それぞれが完全に独立した惑星として機能している。

 台所では妻の久美子が、パート先の惣菜店に出す卵焼きのレシピを横目で確認しながら、トーストをひっくり返す作業に集中している。

 誠一が「おはよう」と言っても、返ってくるのは「うん」という音だ。

「うん」は返事ではなく、呼吸の一種だと誠一は長年かけて学んだ。


 息子の翔は、リビングのソファでスマートフォンをスクロールしながらシリアルを食べている。

 就職活動中の二十六歳で、朝からOB訪問のメッセージを送っているらしい。

 誠一が「今日も頑張れよ」と言うと、翔は画面から目を離さずに「うん」と言った。

 こちらも呼吸だ。


 娘の麻央は、昨夜のアルバイトが遅かったとかで、まだ部屋から出てきていない。

 ドアの向こうからイヤホンを通したK-POPが微かに漏れてくる。

 誠一は一度、ドアをノックしようとして、やめた。

 たぶん「うん」と言われるだけだ。


 誠一は四人掛けのダイニングテーブルに一人で座り、インスタントコーヒーを飲んだ。

 誰も、なにも、言わない。

 これが悲劇かと言えば、そうでもない。

 誠一にはもう「ああ、今日も平和だな」と解釈する技術が備わっていた。

 長年サラリーマンを続けてきた人間は、現実を都合よく再定義する能力が自然と鍛えられるものだ。

 上司の的外れな説教を「フィードバック」と呼び、実質的な雑務係を「ベテランならではのポジション」と呼ぶのと同じ要領である。


 久美子がトーストを皿に置き、自分の席に座った。

 誠一は「今日、帰りは何時になる?」と聞いた。

 久美子は卵焼きのレシピに目を落としたまま「早くても七時かな」と言い、それから「あ、今日ガスの点検来るから、あなた立ち会えない?」と言った。

「俺、会社があるから」

「そうよね」

 久美子はそれだけ言って、トーストを齧った。

 会話はそこで完結した。

 起承転結のうち、起と転だけで成立する会話。

 誠一は長年、その形式に慣れすぎて、最近では「結」が来ないことに安堵すら覚えるようになっていた。

 結が来る時は、たいてい面倒なことになるからだ。


 六時五十五分。

 誠一は立ち上がり、「行ってきます」と言った。

 返事はなかった。

 久美子はレシピを読んでいた。

 翔はスマートフォンを見ていた。

 麻央は部屋の中にいた。


 誠一はネクタイを直し、鞄を持ち、玄関の鍵を閉めた。

 外は曇りだった。

 天気予報は確認していなかった。

 傘を持ってくればよかったかもしれない。

 でも、取りに戻るのは少し気恥ずかしかった。

「忘れ物した」と言って戻っても、誰も気づかない可能性が高い。

 それはそれで寂しいが、今更それを知りたくもなかった。

 誠一は曇り空の下、最寄り駅へと歩き始めた。


 株式会社エフティ建材の営業部第三課は、オフィスの中でも特に日当たりの悪い場所にあった。

 北向きの窓、古いパーテーション、キャスターが微妙にずれているデスクチェア。

 誠一の席は入口から一番遠い角で、部内での序列を地図に落とし込んだような配置だった。

 在籍二十七年。

 営業部次長という肩書きはあるが、あくまで「肩書き」であり、実態はご意見番でも決裁者でもなく、「なんでもやってくれる人」だった。


「村上さん、新人研修の資料、今週中にお願いできますか」

「村上さん、取引先への御礼状、フォーマット作ってもらえます?」

「村上さん、例の見積もり、ちょっと計算間違ってたみたいで、修正お願いできますか」

 できますよ、と誠一は毎回答える。

 できますよ、を二十七年間言い続けてきた男が、次長という肩書きを手にしていた。

 昇進は喜ばしいことだが、仕事内容は課長補佐だった頃と大して変わらない。

 変わったのは名刺の文字だけだ。


 午前の会議では、若手の田中航が新規顧客向けのプレゼン案を発表した。勢いのある、しかし細部の甘い提案だった。誠一は一点、「この数値の根拠はどこから?」と聞こうとして、部長が「いいね、田中くん。じゃあそれで進めよう」と先に言ってしまったので、口を閉じた。

 後で詰められるのは誠一の仕事になるかもしれない。

 それもまた「なんでもやってくれる人」の領分だった。


 昼前、事件が起きた。

 コピー機が詰まった。

 第三課の共用コピー機は、月に一度は必ず紙詰まりを起こす。

 カウンターの向こうに「サポートセンターへご連絡ください」というシールが貼ってあるが、サポートセンターに電話すると最低でも一時間待たされる。

 その間、誰も印刷できない。

 田中が操作パネルをタップしながら「うーん」と唸っている。

 後ろで新卒の女の子が「どうしましょう」と困った顔をしている。

 部長は自席でなにも気づいていない。

「ちょっと」

 誠一は立ち上がり、コピー機の前に進んだ。

 右側の扉を開け、ローラーの陰に挟まった紙の端を確認する。

 無理に引っ張ると破れるから、まず給紙経路の詰まりが何段階目かを見極める。

 それから左の小扉を開け、内部の熱定着ユニットの近くに指を滑らせると——ある。

 折れ曲がってローラーに巻きついた紙が一枚。

 慎重に、しかし迷わず引き抜く。

 ぴりっ、という小気味よい音。

 詰まり解消のランプが点灯した。

「え、直った!」と田中が言った。

「村上さん、すごいですね」と新卒の女の子が言った。

 誠一は「慣れると分かるんですよ」と言って、自席に戻った。

 十五秒の英雄だった。


 だが誠一は知っている。

 これが、自分の職場における最大の輝きだということを。

 会議でどんなに正確な数字を出しても、報告書でどんなに精緻な分析を書いても、評価されたのはこういう瞬間だけだ。

 コピー機の紙詰まりを直す速さ、電話の取次ぎの丁寧さ、社内行事の仕切りの上手さ——それが「村上さんは頼りになる」という評価の正体だった。

 誠一は自席に戻り、コーヒーを一口飲んだ。

 まあ、いいか。

 そう思う技術も、二十七年で身につけた。


 昼休み、誠一は一人でコンビニの弁当を食べた。

 部内の若手たちはいつも連れ立って近くのランチに出かける。

「村上さんも来ますか?」と一度だけ誘われたことがあったが、「いや、いいよ」と断ってしまってからは誘われなくなった。

 あの時断ったのは遠慮からではなく、なんとなく輪に入りにくかったからなのだが、それは誰にも伝わっていない。

 以来、誠一の昼食はいつも、デスクの端かフロアの隅の丸テーブルで、一人で済ませることになっていた。

 今日の弁当は幕の内。

 三百九十八円。

 箸でひじきの煮物をつまみながら、誠一は窓の外を見た。

 北向きの窓から見える景色は、隣のビルの外壁と、その隙間から切り取られた空だけだ。

 今日の空はどんよりとした灰色で、雨が降るかもしれない、と思った。

 傘を持ってこなかったことを今更思い出した。


 田中が弁当を持って近くのテーブルに来た。

 今日は一人らしい。

 スマートフォンを横に置き、動画を見ながら食べている。

 誠一は声をかけようとして、やめた。

 田中はイヤホンをしている。

 誠一は黙々と幕の内弁当を食べた。

 ひじきの煮物は、少し甘すぎた。

 食べ終わり、弁当の容器をゴミ箱に捨てに行くと、田中がイヤホンを片方だけ外して言った。

「村上さん、さっきのコピー機、ありがとうございます。俺、あの機械だけは本当に苦手で」

「コツがあるからね」

「教えてもらえますか、今度」

「いつでも」と誠一は言った。

 田中は「助かります」と言って、またイヤホンを戻した。

 それだけの会話だったが、誠一はなんとなく悪い気がしなかった。

 コピー機のコツを教える、という約束。

 果たされるかどうか分からないが、それでも誰かに「いつでも」と言える瞬間は、一日の中でそれなりに貴重なものだった。


 午後三時ごろ、部長が手招きした。

「村上さん、ちょっといい?」

 なんだ、と思いながら部長席の前に立つ。部長——渡辺という、誠一より八歳若い男——は、申し訳なさそうな顔をしていた。

 申し訳なさそうな顔は、たいてい厄介ごとの前置きだ。

「来月の地区別売上の報告書、資料課に頼んでたんだけどさ、フォーマットが古いって返ってきちゃって。村上さん、以前そのあたりやってたよね。ちょっと整理してもらえると助かるんだけど」

「今月中ですか」

「できれば今週中に。ごめんね、急で」

「分かりました」

 誠一はそう言って、自席に戻った。

 フォーマットの修正。

 それはシステム部と資料課の間で発生した問題のはずで、営業部次長の誠一が引き受けるべき案件ではない。

 しかし「村上さんならできる」というのは、「村上さんにやらせよう」と完全に同義語だった。

 誠一は画面を開き、古いフォーマットのファイルを探し始めた。

 田中が通りがかり「村上さん、また増えましたか?」と笑った。

「ちょっとね」

「大変ですねえ」と田中は他人事のように言い、自席に戻っていった。

 大変ですねえ、という言葉を聞くたびに、誠一は「お前が言うな」という感情が生まれることに気づいていたが、その感情を二秒で消す技術も、長年の間に習得していた。


 退勤は夜の七時を回った。

 残業代は申請しない。

「ベテランは自分で仕事量を調整するべき」という空気が部内にあり、申請すると翌日から微妙な雰囲気になることを誠一は知っていた。

 知っているから申請しない。

 七時間の時間外労働が、この二十七年間でどれほど積み重なったか、誠一は計算したことがない。

 計算すると、馬鹿馬鹿しくなりすぎて眠れなくなりそうだからだ。


 エレベーターで一階まで降り、自動ドアを抜けると、外は暗かった。

 十月の夜風が上着の隙間に入り込む。

 体が「もう帰っていい」と言っているような冷たさだ。

 誠一は首をすくめ、鞄の持ち手を握り直した。


 駅へ向かう道を歩く。退勤時間帯の歩道は、誠一と同じような顔をした男たちで埋まっている。

 みな下を向いて歩いている。

 スマートフォンを見ながら歩いている者もいる。

 誠一はスマートフォンを見ながら歩くのが苦手だ。

 誰かとぶつかりそうになるから。

 ぶつかったら「すみません」と言わなければいけなくて、それは別に構わないのだが、ぶつかる前に気づいて避けた方がずっとスマートだと思っている。


 誠一は人混みの中で、いつものように「壁」になる練習をした。

 壁になるというのは誠一の造語で、人ごみの中で他の人間の流れを乱さないよう、最小限の動作で最大限の空間を作るという技術だ。

 誰かとぶつかりそうになったら先に避ける。

 人の流れに逆らわない。

 できるだけ目立たない。


 サラリーマンとして身につけた技術は、こんなものばかりだ、と誠一は思った。

 コピー機の直し方。

 申し訳なさそうな顔の読み方。

「大変ですねえ」と言われた時の笑い方。

 壁になること。

 透明になること。

 ——それで三十年が過ぎた。


 駅の改札を抜け、ホームへの階段を上ろうとした時、誠一は足を止めた。

 駅ビルの一階。

 いつもは素通りするコンコースに、なにかが置いてあった。

 グランドピアノだった。

 黒い、蓋を閉じたグランドピアノ。

 少し傷みのある脚部、しかし磨き込まれた天蓋の表面は、コンコースの蛍光灯を受けて、鈍い光を湛えていた。

 傍らに小さな看板が立っていた。

「どなたでも演奏できます」という文字と、区の文化事業の名称。

 街角ピアノ、というやつだ。

 最近、こういうものが増えた気がする。

 駅や商業施設の公共スペースに置かれた、誰でも弾けるピアノ。

 誠一もニュースで見たことがあった。

「弾けるよ」と言って颯爽と座る若者、拙くも笑顔で鍵盤を叩く子ども、そんな映像を。そういうものを見るたびに、誠一は画面から目を逸らしていた。

 なぜ目を逸らしていたのかは、考えたことがなかった。

 誠一は三メートルほど離れた場所に立ったまま、そのピアノを見た。

 通勤客が足早に通り過ぎる。

 誰もピアノには目を向けない。

 誰も足を止めない。

 誠一だけが、壁になる練習を忘れて、立ち尽くしていた。

 ピアノの蓋は閉じている。

 鍵盤は見えない。

 それでも誠一は、自分の右手の指が、わずかに動いたことに気づいた。

 無意識に、何かを弾こうとするように。

 人差し指が、中指が、薬指が。


 あっ、と思った。

 その感覚が、どこから来たのか分からなかった。

 手が覚えている、という感じでも、弾きたいという欲求でもなく、もっと原始的な何か——鍵盤が「そこにある」という事実に対する、体の反応だった。

 磁石が鉄に引きつけられるような、植物が光に向かって伸びるような。

 誠一は右手を見た。ごく普通の、五十五歳の男の手だ。

 節が少し太くなった。爪は短く切ってある。

 サラリーマンの手だ。

 コピー機の紙詰まりを直す手だ。

 それからゆっくり、握りこぶしを作った。


「次の電車、あと三分です」

 ホームのアナウンスが聞こえた。

 誠一は歩き始めた。

 ピアノに背を向け、階段を上り、人の流れに戻った。

 壁になる練習を再開した。

 電車に乗り込む。

 つり革をつかむ。

 窓に映った自分の顔と目が合う。


 くたびれた顔だ、と誠一は思った。

 でも悪い顔じゃない。

 ——なんて思う技術も、二十七年で身につけた。


 帰宅は八時前だった。

 玄関の鍵を開ける。「ただいま」と言う。

 返事はなかった。

 台所の電気はついている。

 久美子はもう戻っているらしい。

 リビングを見ると、テレビがついていた。

 翔はソファでスマートフォンを見ている。

 麻央はまた部屋の中だ。

 K-POPが微かに漏れている。


「今日、遅かったな」と翔が言った。

「ちょっと残業して」

「ふーん」

 翔はそれだけ言って、スマートフォンに目を戻した。

 誠一はネクタイを緩めながら台所へ向かった。

 久美子が夕飯の片付けをしていた。

「遅かったね」

「少し残業した」

「ご飯、冷蔵庫に入れといたから。チンして食べて」

「ありがとう」


 久美子はそれ以上なにも言わず、流しの食器を拭き始めた。

 誠一は冷蔵庫を開け、ラップのかかった皿を取り出した。

 鶏の照り焼きと、大根の煮物。

 久美子は料理が上手い。

 誠一は毎回「美味しい」と言うが、久美子はたいてい「そう」と言うだけだ。

 今日も、電子レンジのチン音が鳴った後、誠一が「美味しそうだな」と言うと、久美子は「残り物だから」と答えた。


 誠一は一人でダイニングテーブルに座り、鶏の照り焼きを食べた。

 美味しかった。

 テレビのバラエティ番組の音が聞こえる。

 翔の笑い声が一度した。

 それだけだった。

 食事を終え、皿を流しに持っていくと、久美子はもういなかった。

 自室に行ったらしい。

 誠一は自分で皿を洗い、水切りに置き、台所の電気を消した。


 風呂に入りながら、誠一は今日一日のことを順番に思い出した。

 会議で口を閉じた瞬間。

 部長の「申し訳なさそうな顔」。

 田中の「大変ですねえ」。

 コピー機の紙詰まり。

 幕の内弁当のひじき。

 田中との短い会話。

 そして——駅ビルのあのピアノ。


 湯船の中で、誠一は右手を水面の上に持ち上げた。

 指を一本ずつ動かす。

 人差し指、中指、薬指、小指。

 それから、ゆっくりと親指。


 何十年もスーツのボタンを留め、稟議書にはんこを押し、コピー機の紙詰まりを直してきた手。

 指の節が少し太くなった。

 爪の形は変わっていない。


 誠一は湯船の中で手を眺めながら、なぜか——なぜかは分からないが——遠い日の記憶を思った。

 ピアノの鍵盤の手触り。

 象牙の白さ。

 ペダルを踏む左足の感覚。


 すぐに、その記憶を押しこんだ。

 風呂から上がり、歯を磨き、寝室に入った。

 久美子はすでに布団に入って、スマートフォンを見ていた。

 誠一が「おやすみ」と言うと、久美子は画面を見たまま「おやすみ」と言った。


 電気を消す。

 暗闇の中で、誠一は天井を見た。

 今日一日、誰かに「村上誠一」という名前で呼ばれただろうか、と考えた。

 部長に「村上さん」と呼ばれた。

 田中に「村上さん」と言われた。

 新卒の女の子にも「村上さん」と言われた。

 家族には——誰にも呼ばれていない。

「あなた」も言われなかった。


 名前を呼ばれない一日。

 ありふれた一日だった。

 誠一は目を閉じた。

 眠りに落ちる前の数秒、彼の脳裏に、なぜかあの光景が浮かんだ。

 駅ビルのコンコース。

 照明に照らされた黒いグランドピアノ。

 閉じた蓋。

 そして、無意識に動いた自分の右手の指。

 ——あの感触は、なんだったのだろう。


 誠一は、答えが出る前に眠った。

 村上誠一は、この世界に存在している。

 少なくとも、本人はそう思っている。

 その夜、外は雨だった。

 誠一は傘を持っていなかった。

 でも、気がついたら、もう家に帰り着いていた。

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