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第十話「一九九三年の話」

 風呂から上がると、久美子はリビングにいた。


 テレビは消えていた。

 スマートフォンも持っていなかった。

 ただ、ソファに座って、テーブルの上の湯呑みに両手を添えていた。

 お茶を入れて、待っていたのだ。


 誠一はパジャマに着替えた格好で、久美子の向かいに座った。

 二つの湯呑みがある。

 誠一の分も、ちゃんと入れてあった。

「ありがとう」と誠一は言った。

 久美子はうなずいた。

 それだけだった。


 リビングは静かだった。

 翔と麻央はそれぞれ部屋に引き上げている。

 時計の秒針が、遠くで刻んでいる。

 誠一は湯呑みを持ち、お茶を一口飲んだ。

 緑茶だ。

 少し渋い。

 落ち着く味だった。


 さて、どこから話せばいいか。


 三十三年間黙っていたことを話す。

 その「始め方」を、誠一は風呂の中で考えていたはずだった。

 ところが湯船から出て、タオルで体を拭いて、パジャマを着て、廊下を歩いてリビングに来る間に、すべてが白紙に戻っていた。

「一九九三年の話をします」と切り出すのか。

 それとも「先生のことから話す」か。あるいは「俺には昔、音楽をやっていた時期があって」という遠回しな入り方か。


 どれも、なんとなく違う気がした。

 誠一はお茶をもう一口飲んでから、言った。


「古賀先生のことから、話す」

 久美子は「うん」と言った。

 今夜の「うん」は呼吸ではなかった。

 聞いている、という意思の「うん」だった。


 古賀義明教授と初めて会ったのは、誠一が十九歳の時だった。


 大学の音楽学部に入って、最初の実技審査の日。

 審査員の一人として座っていた古賀教授が、誠一の演奏を聴いてから「もう一度弾きなさい」と言った。

 審査は一人一曲のはずだったが、誰も止めなかった。

 誠一は同じ曲をもう一度弾いた。

 弾き終わると教授は「来週、私の研究室に来なさい」と言った。

 それだけだった。


「その人が、古賀先生だった」と誠一は言った。

「ショパンを専門にしていた人で、ピアニストとしてもヨーロッパで活動していた。当時六十代で、演奏活動は引退していたけど、教育者として名前が通っていた。俺はその時、先生がどれほど大きな人物かも分かっていなくて——ただ、『来い』と言われたから行った」


 久美子は黙って聞いていた。


「研究室に行ったら、先生がいきなり言った。『お前、ショパンのコンクールに出なさい。二年後に出なさい』と。それがポーランドの、ワルシャワで五年に一度やるやつだよ。ショパン国際ピアノコンクール。十九歳の俺には、意味が分からなかった。本当にそんなところに出られるのか、と」


「出られたんでしょ」と久美子は言った。


「出られた。先生が全部手配してくれた。演奏する曲も、練習の方法も、全部先生が決めた。先生の家に毎週通って、マンツーマンで教わった。二年間、それだけしかやらなかった。他のことが何もできなかった」


 久美子が「それはいつ頃の話」と聴いた。

「二十一の頃。久美子と付き合い始めたのが二十三だから、その前の話だよ」

「知らなかった」と久美子は言った。

「そんな時期があったなんて」


「先生の家には、くたびれたグランドピアノがあった。リビングの典型的なスペースをピアノが占領している、そういう部屋だ。毎週土曜日に行くと、先生がコーヒーを入れて待っていて、先生の弾くのを聞いてから自分で弾いて、また先生が評下する、という流れだった」

「先生は褒める人だったの?」

「一切褒めなかった。正確に言うと、正しい時には何も言わなかった。間違えた時にだけ、弾き直しを命じた。「そこの弾み方は正しくない。やり直しなさい」と。それが先生の教え方だった。でも正しく弾けた時は、何も言わずにコーヒーを指で回していた」


 久美子が微笑んだ気配がした。言葉にはならなかった。


「先生のコーヒーは美味かった。あの頃、久美子のほうじ茶と比べたらどうかな」

「比べないでよ」と久美子は言った。

 誠一は少し笑った。


 二年間、一度も休んだ記憶がなかった。

 成績が振るわない時も、眠れない夜も、先生の弾き方が体にずっと染み込んでいた。

 指が親指と人差し指が別々に動く事のように、先生の教えのひとつひとつが誠一の中に入り込んでいった。

 それが「教わる」ということの意味だと、誠一はその頃に分かった。


 二年の終わり、ワルシャワに着いた。


 第一予選で弾いた曲の後、空気が変わったのを感じた。

 審査員たちが雑談をやめ、コンクールの採点用紙をもう一度見た。

 結果が三位だった。

 先生に電話をかけた。

「上出来だ」と先生は言った。

 上出来だ、と言った後、「次は一位を取りなさい」と先生はすぐ言った。

 褒めない人だったのだ。

 一秒も褒めないで、すぐ次の話をする人だった。


 誠一は「次は一位を取る」と思っていた。

 二十一歳の誠一は、そういう人間だった。

「二十一歳でコンクールに出て、三位だった。世界中から七十人以上が来て、三番目だった。先生は『上出来だ』と言った。俺は『次こそ一位を取る』と思っていた。二十二歳の人間というのは、そういうものだ」


「知らなかった」と久美子は言った。

「そんなことがあったなんて、全然知らなかった」

「言わなかったから」

「なんで言わなかったの」


 誠一は少し間を置いた。

「話すと、あの夜のことも話さないといけないから」


 一九九三年の十月——コンクールから一年後、誠一は二十二歳だった。


 古賀教授は毎年秋にリサイタルを開いていた。

 教授自身の演奏と、弟子たちの演奏で構成される演奏会。

 その年のプログラムの最後に、誠一が置かれていた。


「本番の四時間前まで、先生は元気だった。

 昼に電話で少し話した。

『今夜はいい演奏をしなさい』と言われた。それが最後だった」


 久美子が、小さく息を飲んだ。


「本番四十五分前に、楽屋に知らせが来た。先生が、その日の午後五時に、ご自宅で心不全で亡くなった、と」

 誠一は湯呑みを両手で包んだ。

「俺は、その知らせを聞いた時——不思議なことに、泣かなかった。泣けなかった。頭が真っ白になった、ということかもしれないけど、それよりも……先生の声が聞こえた気がした。『ステージを逃げてはいけない。どんな時でも』って」

「それが、先生の口癖だったんだね」

「そう。だから俺は、スタッフが中止を言いに来た時に『弾きます』と言った。今でも正しかったと思ってる。先生が作ったプログラムで、先生が俺に『トリを任せる』と言った演奏会だから。逃げてはいけない、と思った」


 久美子は何も言わなかった。


「ステージに出た。スポットライトが当たった。客席が、しんと静まり返っていた。みんな、何かが起きたと分かっていたと思う。俺は椅子に座って、鍵盤を見て——弾いた」


 誠一は少し止まった。


「最初の数小節は、弾けた。音が出た。指が動いた。先生の言葉を守って、ステージに立って、弾いていた。でも——十小節目で、涙が出た」


 今度は久美子の目が、少し潤んだ。


「止められなかった。鍵盤が滲んだ。指が、動かなくなった。震えていた。それで……演奏を止めた。ステージの上で、止めた。お辞儀だけして、退場した」


 誠一はお茶を飲もうとしたが、湯呑みはもう空だった。


「袖に入った瞬間、膝が折れた。その場にしゃがみ込んだ。後ろから誰かが支えた。誰だったか覚えていない。久美子、俺はその夜から、三十三年間ピアノを弾かなかった」


「……なぜ」


 誠一はテーブルの木目を見ながら言った。

「先生との約束を、守れなかったから」


 久美子はしばらく黙っていた。

 長い沈黙だった。

 誠一も話すことがなかった。

 全部言った。

 三十三年間、押し入れの段ボール箱の中に入れていたものを、今夜全部出した。

 出してみると、思ったより軽かった。

 思ったより——ずっと、軽かった。


「ねえ」と久美子は言った。

「なに」

「あなた、ステージに立ったんでしょ」

「立ったけど、演奏を止めた」

「先生は『逃げてはいけない』と言った。あなたは逃げなかった」


 誠一は久美子を見た。

「でも止まった」

「止まったことと、逃げたことは、違う」と久美子は言った。

 感情を抑えた声だったが、はっきりとした声だった。

「二十二歳で、先生が死んだ当日に、ステージに立った。それが逃げてないってことでしょ」

「でも途中で——」

「泣くでしょ、そんな夜に」と久美子は言った。

「泣かない方がおかしい。あなたが止まったのは、弱かったからじゃない。それだけ先生を好きだったから」


 誠一は答えられなかった。


 三十三年間、誠一はずっとそれを「守れなかった」と解釈していた。

 ステージに立ったことではなく、止まったことだけを覚えていた。

 でも久美子は「逃げなかった」と言った。

 同じ夜の、同じ出来事を、全く違う言葉で呼んだ。


 誠一の目が、熱くなった。

 こらえようとした。

 五十五歳の男が、リビングで泣くのはどうか、と思った。

 でもこらえきれなかった。

 泣いた。

 声は出なかったが、確かに泣いた。


 久美子は何も言わなかった。

 席を立って、隣に来て、誠一の横に座った。

 それだけだった。

 肩に触れるでもなく、ただ隣に座った。

 三十年間、同じ家にいた人が、今夜初めて隣にいる気がした。


 どれくらい時間が経ったか分からなかった。

 誠一が顔を上げると、久美子が言った。

「続けなさい、ピアノ」

 命令ではなく、許可でもなく、ただそう言った。

「続けていいの」

「あなたが決めることだけど」と久美子は言った。

「私は、聴きたい。ちゃんと最後まで」

 誠一はしばらく、その言葉を味わった。


 聴きたい。ちゃんと最後まで。


 三十三年間、誰にも言われなかった言葉だった。

 言われたことがないから、欲しいとも思っていなかった。

 でも今夜、久美子に言われて初めて分かった。

 ずっと、これが欲しかったのだと。


「分かった」と誠一は言った。

 久美子は「じゃあ、明日も練習しなさい」と言って、立ち上がった。

 お茶のお代わりを入れに行く気らしかった。

 台所から「緑茶でいい?」と声がした。

「うん」と誠一は言った。

 今夜の「うん」は、呼吸ではなかった。


 その夜、誠一は久しぶりに布団に入ってすぐ眠れなかった。

 でも眠れない理由が、昨夜とは違った。

 昨夜は「何を話すか」で眠れなかった。

 今夜は——全部話してしまったから、頭が空っぽになっていた。

 空っぽというのは、案外、落ち着かないものだ。

 三十三年間入っていたものが出ていったので、体が少し軽すぎて、逆に浮いている感じがした。


 久美子は先に眠っていた。

 静かな呼吸が聞こえる。


 誠一は天井を見ながら、古賀教授のことを思った。

 先生、俺は今夜、全部話しました。

 三十三年かかりました。

 遅すぎますか。


 返事はない。

 先生はもうここにいない。


 でも、押し入れの中の楽譜には、まだ先生の字がある。

「もっとルバートを」「呼吸」——その字は消えていない。

 先生の声は、あの鉛筆の跡の中に、まだ残っている。


 誠一は目を閉じた。

 明日、また弾こう。

 今度は、止まっても止まらなくても——弾いた、ということが残る。

 それで十分だ。

 誠一は、眠った。

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