第十一話「宮本との約束」
翌朝、久美子がトーストを焼いた。
誠一の分も。
これが地味にすごいことだった。
村上家の朝食は基本的に各自調達制だ。
翔はコーンフレークを食べる。
麻央はヨーグルトだ。
久美子は食パンを自分で焼く。
誠一は——その余り物か、残り物のご飯か、あるいは何も食べずに出かけることも多い。
「お父さんの朝ごはんは?」という概念が、この家には薄い。
それが今朝、久美子がトーストを二枚焼いた。
一枚は自分の。
もう一枚は——誠一の方に置かれた。
「はい」と久美子は言った。
「……ありがとう」と誠一は言った。
翔がコーンフレークのスプーンを止めて、誠一を見た。
それから久美子を見た。
それからまた誠一を見た。
「なんか、あった?」と翔が言った。
「何が」
「なんか、雰囲気が違う」
「そうか」
「違う。なんか……父さんが喋ってる」
誠一は咀嚼を止めた。
「喋ってる」とはどういうことか。
毎朝喋っているだろう、と言いかけて、思い直した。
毎朝の誠一は、「行ってきます」以外ほとんど言葉を発していない可能性がある。
「行ってきます」だけが誠一の朝の語彙だとしたら、今朝の「ありがとう」は確かに異常だ。
「そんなに珍しいか」
「珍しい」と翔はきっぱり言った。
「父さんが朝に複数回喋ったの、久しぶりに見た気がする」
その時、麻央が階段を降りてきた。
眠そうな顔で「おはよ」と言いながらダイニングに入り、テーブルを見て、止まった。
「お父さんの前にトーストある」
「あるな」
「お母さんが焼いたの?」
「久美子が焼いた」
「なんか、あった?」
翔と全く同じことを言った。
親子だ。
「何もない」と誠一は言った。
「トーストを食べている」
「なんか昨日と違う」と麻央は言い、冷蔵庫からヨーグルトを取り出した。
「お父さんが落ち着いてる。昨日は家族会議があってバタバタしてたから、今日もそういう感じかと思ってたけど」
「落ち着いている」
「うん。なんか、ちょっと顔が違う」
誠一は自分の顔を確認できないのでなんとも言えないが、昨夜、三十三年間黙っていたことを久美子に話して、久美子に「逃げなかった」と言われて泣いた。
だから顔が少し違うのかもしれない。
五十五歳の男が、リビングで泣いた翌朝の顔だ。
それが「落ち着いている」に見えるなら、まあそういうことだろう。
誠一はトーストを食べ終え、「行ってきます」と言った。
今朝は三人から「行ってらっしゃい」が返ってきた。
翔などは顔を上げてから言った。
顔を上げて言う「行ってらっしゃい」は、顔を上げない「行ってらっしゃい」より、体感で三割くらい温かい。
会社では、午後から集中力がなかった。
なかった、というのは正確ではない。
正確には「仕事に向かっているふりはしているが、頭の中で別のことが動いている」という状態だ。
二十年来の職場人生でこの状態になることは滅多になかった。
誠一は仕事中に仕事のことを考える人間だ。
昼休みに翌日のタスクを整理し、退勤後に翌週の段取りを考える。
そういう人間だったのに、今日の午後は——ショパンのことを考えていた。
具体的には、夜想曲のことだ。
ショパンの夜想曲第二十番、嬰ハ短調。
先生が「これはショパンの心の声だ」と言っていた曲。
先生のスタインウェイで、先生が弾いてみせてくれた時、誠一は鳥肌が立った。
あの感触を、もう一度、自分の指で——。
「村上さん」
声がした。田中だ。
「なんだ」
「さっきから名前呼んでるんですけど」
「呼んでたか」
「三回呼びました」
誠一は時計を見た。
三時二十分。
午後の会議まであと四十分。
「すまない。何だった」
「この取引先の与信、どこで確認すればいいか聞きたかったんです」
「ああ。それは経理の鈴木さんに聞けばいい。電話番号は社内名簿の三ページ目だ」
「ありがとうございます。……なんか、今日ぼーっとしてますね、村上さん」
「少し考え事があって」
「また家のことですか」
「まあそうだな」
「そういう時期ですか」と田中は妙に達観した顔で言った。
「うちの父もそういう時期があったって母が言ってました」
「そういう時期とはなんだ」
「なんか、人生を振り返るやつ」
誠一は三十三年前のステージの袖で膝が折れた瞬間を思い出しながら、「そうかもな」と言った。
田中は「頑張ってください」と言って自席に戻った。
社会人三年目に「頑張ってください」と言われる五十五歳というのも、なかなかのものだが、気持ちはありがたく受け取った。
六時半に退勤した。
コートを着て、鞄を持ち、エレベーターを降りて自動ドアを出ると、秋の夜風が冷たかった。
誠一はそのまま駅ビルへ向かって歩き出したが、三分ほど歩いてから、逆方向に歩いていることに気づいた。
引き返した。
なぜ逆方向に歩いていたかというと、ショパンのことを考えながら歩いていたからだ。
具体的には「嬰ハ短調の最初の四小節は、右手と左手が同時にGrandioso(壮大に)という指示で始まるが、ここを壮大にやりすぎると後が持たない。
どこで息を抜くか」という問題を頭の中で演奏しながら歩いていたら、会社の方向に戻っていた。
誠一は引き返し、今度は意識して駅ビルに向かった。
コンコースに出ると、ピアノの前に人だかりができていた。
子どもが弾いている。
五、六歳くらいの女の子が、一生懸命「ねこふんじゃった」を弾いている。
以前も似たような光景を見た。
この街角ピアノには定期的に子どもが来る。
子どもにとって、街角のグランドピアノは「無料で触れる大きなおもちゃ」という認識らしく、親が近くに立っていて「ほら、弾いてみな」と背中を押している。
女の子が「ねこふんじゃった」を弾き終えた。
拍手が起きた。
女の子が照れた顔でお辞儀をした。
しかし終わらなかった。
「もう一回!」と女の子が言った。
「もう一回弾くの?」とお父さんが言った。
「弾く!」
始まった。
二周目の「ねこふんじゃった」だ。
周囲の人たちが「かわいいね」と言いながら動画を撮っている。
お父さんが誇らしそうな顔と困った顔を五割ずつ合わせた表情で立っている。
誠一はその後ろで待った。
三周目が始まった。
四周目が始まった時点で、お父さんが「アイスクリーム食べに行こうか」と言った。
「食べる!」と女の子は言い、即座に椅子から下りた。
ショパン国際コンクール三位経験者も、アイスクリームには勝てない。
これは人類の真理かもしれない。
誠一は椅子に座った。
高さを合わせる。
音階を弾く。
指を温める。
今夜の目標は、ワルツを最初から最後まで通すことだ。
弾き始めた。
コンコースの人の流れが、遠く、背景に溶けていく。
最初の一小節を過ぎると、鍵盤の外の世界が薄くなる。
これが集中、というものだ、と誠一は思った。
三十三年前は当たり前だったこの感覚が、今は少し新鮮だ。
二十小節。三十小節。
詰まる箇所があったが、止まらなかった。
最後の音が鳴った。余韻が消えた。
「よく弾けていましたよ」
声がした。
老人だった。
七十代後半か、八十代か。
白髪で、背筋が真っ直ぐで、薄手のコートを着ている。
片手に、古びた魔法瓶を持っている。
魔法瓶。
コンコースで魔法瓶を持って立っている老人というのは、なかなかの存在感だ。
「ありがとうございます」と誠一は言った。
老人は「少々よろしいですか」と言い、近くのベンチを指した。
誠一がうなずくと、老人は「寒いですから」と言って魔法瓶を軽く掲げた。
「お茶でもどうぞ」
ベンチに並んで座ると、老人は魔法瓶からお茶を紙コップに注いで誠一に渡した。
緑茶らしき色をしていたが、飲んでみると、よく分からない味がした。
渋すぎず、薄すぎず、しかしなぜか「これは美味しい」とも言えない、不思議なお茶だった。
「私は宮本と申します。宮本清三」
「村上です。村上誠一」
「存じています」と宮本は言った。
誠一は止まった。
「存じています、とは」
「古賀義明先生のお弟子さんですね」
コンコースの人の流れが、一瞬、遠くなった気がした。
「……どうして」
「私は長年、古賀先生のピアノを調律していました。四十二年間」
四十二年間。
誠一が二十一歳でコンクールに出た時、既にこの人は先生のピアノを調律していた。
誠一が初めて先生の研究室に行った時も、あのくたびれたスタインウェイを——この人が調律していた。
「先生の自宅に、スタインウェイの古いピアノがありましたね」と誠一は言った。
「ありました」と宮本は言った。
そして少し、表情が緩んだ。
「外見はくたびれていましたが、音は最後まで良かった。私が最後に調律したのは、先生が亡くなられる三日前でした。先生はいつも、調律が終わった後にコーヒーを出してくださって。それで少し話すのが楽しみでした」
誠一は宮本の横顔を見た。
この人は先生のことが好きだったのだ。
弟子とは別の形で、この人も先生のそばにいた。
「先生は」と宮本は続けた。
「よくあなたのことを話していましたよ」
「俺のことを」
「ええ。『村上という学生がいる』と。私が調律に伺うたびに」
「……どんなことを」
「『あいつは自分に厳しすぎる』と言っていました。それから——」
宮本がお茶を一口飲んだ。
誠一も合わせて飲んだ。
やはりよく分からない味だった。
「『村上はステージが好きじゃないのに、ステージから一番多くのものを引き出せる。矛盾した人間だ』と。先生はそう言っていました」
誠一は、その言葉を何度か頭の中で繰り返した。
ステージが好きじゃない。
先生は、知っていた。
誠一がステージを怖いと思いながら立っていることを、先生は分かっていた。
分かっていて、「逃げてはいけない」と言い続けた。
「先生は厳しい方だったんですか」と宮本が聞いた。
「一切褒めない人でした」と誠一は言った。
「コンクールで三位になった時も、『上出来だ、次は一位を取りなさい』で一秒で終わりました」
「ああ」と宮本は笑った。
「それは先生らしい。私が調律を終えた後も、『ここの音が少し高い』とすぐ次の問題を言う方でしたから。褒めたことは一度もなかった。でも——毎年声をかけてくれた。それが先生の褒め方だったんだと、今になって思います」
「一九九三年の演奏会」と宮本は言った。
「私も客席にいました」
誠一は宮本を見た。
「あの夜、あなたが『弾きます』と言ったことを、後でスタッフから聞きました」と宮本は続けた。
「私は客席で、先生の訃報を知ったばかりで——正直、立っていられなかった。でも、あなたがステージに出てきた。タキシードを着て、真っ直ぐ歩いてきて、椅子に座った。あの瞬間のことは、今も覚えています」
「でも止まりました」
「十小節、弾いた」と宮本は言った。
静かな、しかし確かな声だった。
「先生が亡くなった当日の夜に、十小節。それがどれほどのことか——あの時客席にいた人間は、全員分かっていたと思います」
誠一は、お茶の入った紙コップを両手で持ったまま、しばらく黙っていた。
「村上さん」と宮本は言った。
「来月の十月二十二日、先生の命日に合わせた小さな集まりがあります。先生を知る人が十五人ほど集まる、内輪の会で——そこで、弾いていただけませんか」
誠一は紙コップを見た。
一ヶ月。
三十三年かかって、残り一ヶ月。
「会場はどこですか」
「先生が若い頃に使っていた、小さなホールです。ピアノは私が先月調律してきました。状態はいいです」
宮本が先月、既に調律していた。
つまりこの会合のために、もう準備が進んでいた。
この老人は、誠一がここに来ることを、どこかで知っていたのだろうか。
いや——宮本はこのコンコースのピアノに通ってきていた。
誠一がここで弾き始めたことに気づいて、声をかけるタイミングを見計らっていたのかもしれない。
「……少し、考えさせてください」と誠一は言った。
「もちろんです」と宮本は言った。
名刺を差し出した。
「ただ、返事は早めにいただけると助かります。一ヶ月しかありませんから」
名刺を受け取った。
「宮本調律師事務所 宮本清三」と書いてある。
活字体の、古い名刺だ。
「一つだけ聞いてもいいですか」と誠一は言った。
「弾く曲は、何でもいいですか」
「先生が好きだった曲を、弾いていただければ」
先生が好きだった曲。
誠一には、思い当たるものがあった。
先生が「これはショパンの心の声だ」と言って、くたびれたスタインウェイで弾いてみせてくれた曲。
誠一が「俺にはまだ早い」と言い続けた曲。
会社でふと考えていた、あの曲。
ショパンの夜想曲。嬰ハ短調。
「分かりました」と誠一は言った。
「連絡します」
宮本は「ありがとうございます」と言って、立ち上がった。
それから魔法瓶を持ち直し、「お茶、いかがでしたか」と聞いた。
「……美味しかったです」と誠一は言った。
これは五十五歳の、人生で最大の嘘のひとつかもしれない。
帰宅すると、リビングに久美子がいた。
本を読んでいた。
「遅かったね」
「少し話し込んだ」と誠一は言った。
「古賀先生を知っている人と」
久美子が本を閉じた。
「誰?」
「宮本さんという人で、調律師だった。四十二年間、先生のピアノを調律していたって」
「それは……本物じゃないの」
「本物、というのは」
「本当に先生を知っている人ってこと。その人、どこで会ったの?」
「コンコースのピアノのところ」
久美子が「そう」と言い、少し間を置いた。
「その人がなんか言ったの?」
「来月、先生の命日の集まりがあるって。そこで弾いてほしいと」
その時、廊下から翔が顔を出した。
夕飯の片付けをしていたらしい。
「今、『弾いてほしい』って言った?」
「聞こえてたのか」
「家狭いから」と翔は言い、リビングに入ってきた。
「どこで弾くの」
「小さなホールで。先生を知っている人が十五人くらい来る内輪の会だ」
「俺たちは?」
「おまえたちは先生を知らないだろう」
「でも父さんのことは知ってる」
これには返す言葉がなかった。
麻央が二階から降りてきた。
どうやら翔が廊下で「父さんが演奏するって」と叫んでいたらしい。
「演奏するの!? どこで!? いつ!?」
「来月。小さな会で。おまえは来なくていい」
「なんで!」
「内輪の集まりだから」
「でも、見たい」と麻央は言った。
「お父さんがちゃんと弾くのを、見たい。動画じゃなくて、生で」
誠一は久美子を見た。
久美子は「私も」と言った。
三人から同じことを言われた。
断る理由が、思い浮かばなかった。
「……宮本さんに聞いてみる」と誠一は言った。
「ただ、来ても静かにしていること。麻央、スマートフォンで動画を撮るのは禁止だ」
「分かった!」と麻央は言い、即座にスマートフォンを取り出して何かを検索し始めた。
「何を調べてる」
「クラシックのコンサートってどんな服を着ればいいのかな、と思って」
誠一は少し笑った。
家族が来る。
先生を知らない家族が、先生の命日の演奏会に来る。
それがどういうことなのか、今の誠一にはまだよく分からない。
でも——悪い気はしなかった。
その夜、誠一は押し入れを開けた。
段ボール箱から楽譜を取り出した。
ショパン夜想曲集。
ページをめくって、嬰ハ短調を開いた。
先生の書き込みはなかった。
この曲は、先生が「まだ早い」と言ったまま、誠一は一度も本格的に練習しなかった。
だから楽譜は白いまま、先生の字がない。
誠一は楽譜の最初の小節を見た。
Lento con gran espressione——「ゆっくりと、大きな表現で」という指示だ。
先生が「心の声だ」と言った曲は、「大きな表現」から始まる。
大きな表現。
三十三年間封じ込めてきたものを、今度は開く。
誠一は楽譜を閉じ、段ボール箱に戻し、押し入れを閉めた。
一ヶ月ある。




