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第十二話「先生の最後の言葉」

 宮本清三の家は、駅から歩いて十五分の住宅街にあった。


 訪問の約束は、木曜日の夕方六時だった。

 誠一はその日、昼休みに近くのコンビニでサンドイッチを買いながら、手土産のことを考えていた。

 菓子折りは必要か。

 必要だろう。

 羊羹か、クッキーか。

 羊羹は重い。

 クッキーは軽すぎるか。

 でも相手は八十を超えた老人で、重いものを持ってこられても困るかもしれない。

 クッキーにしよう。

 いや、もしかすると歯が悪いかもしれない。

 宮本は杖をついていたが、歯のことは分からない。


 田中が「村上さん、何か悩んでるんですか」と言った。

「手土産」と誠一は言った。

「誰かの家に行くんですか」

「知り合いの老人の家に」

「それなら羊羹でいいんじゃないですか」と田中は言い、自分のサンドイッチを食べ始めた。

「和菓子が無難ですよ」

「歯が悪かったら」

「じゃあゼリー」

「ゼリー持っていく人間がいるか」

「洋菓子ならクッキーですかね」と田中は言った。

「固すぎず、柔らかすぎず」


 結果、誠一は仕事帰りに駅前のデパ地下に寄り、クッキーの詰め合わせを買った。

 千二百円。

 包装紙を見ながら「ちょうどいい」と思ったが、エレベーターに乗った後で「千二百円が適切かどうか」という疑問が出てきた。

 出てきたが、デパ地下に戻る時間はなかった。


 誠一は地図を印刷してきた。

 スマートフォンの地図アプリでよかったのだが、なぜか印刷してきた。

 五十五歳の男はたまにそういうことをする。

 印刷した地図を折り畳んで上着のポケットに入れ、途中で一度取り出し、「あ、曲がりすぎた」と気づいて戻った。スマートフォンならこういうことにはならないのだが、印刷した地図を持って来てしまったので仕方ない。


 住宅街の細い道を折れると、古い平屋が並ぶ一角に出た。

 宮本の家は、すぐ分かった。

 玄関の前に小さな石灯籠がある。

 表札は木製で、「宮本」という字が薄れかけている。

 門の脇に、季節外れの小菊が二株咲いていた。

 誰かが世話をしている。

 よく見ると、手入れが行き届いている庭だった。

 老人が一人で住んでいても、庭だけは丁寧に管理されている——そういう種類の人間の家だ、と誠一は思った。


 チャイムを押した。

 しばらく待った。

 廊下を歩く音が聞こえて、玄関の鍵が外れる音がして、ドアが開いた。

 宮本清三が立っていた。

 黒いカーディガンに、白いシャツ。

 今日は杖を持っていない。


「いらっしゃい」と宮本は言った。

「遠いところをわざわざ」

「いえ」と誠一は言った。

「こちらこそ」

「散らかっていますが」


 散らかっていた。

 廊下の壁に沿って、本が積んである。

 楽譜が積んである。音楽雑誌のバックナンバーが紙袋に入れて置いてある。

 CDの棚が廊下の途中にもある。

 でも乱雑、という感じではない。

 長い時間をかけて積み上がった、生きてきた人間の痕跡、という感じがした。

 本の積み方に、一定の規則がある。

 楽譜は出版社別に並んでいる。

 外から見ると「散らかっている」が、この人の中では完璧に整理されているのだろう、と誠一は思った。

 六畳ほどの和室に通された。


 テーブルの上に、すでにお茶の用意がしてあった。

 急須と、湯呑みが二つ。

 茶托の上に、きっちり並んでいる。

 宮本が「お茶を入れますから少し待って」と言って台所に引っ込んだ。

 誠一はその間、部屋を見回した。


 床の間に、小さな額縁がかかっている。

 古い写真だ。若い男性と、年配の男性が並んでいる。

 よく見ると——年配の方が古賀教授だと分かった。

 五十代くらいだろうか。

 スーツ姿で、どこかのホールの前に立っている。

 若い方は宮本だろう。

 細い体に、きちんとしたジャケットを着ている。

 二人とも、カメラを見て微笑んでいる。

 そして——。


 部屋の隅に、古いアップライトピアノがあった。

 黒い塗装が、角の部分から少し剥げかけている。

 鍵盤の蓋は閉まっている。

 上部に楽譜が数冊置かれている。

 ペダルは、長年踏まれた痕跡で、少し黒ずんでいた。

 誠一はそのピアノから目を離せなかった。


 宮本が戻ってきた。

 急須を持って。

「そのピアノは」と誠一は言った。

「古賀先生のものです」と宮本は言った。

 椅子に座りながら、ピアノを一度見てから、お茶を注いだ。

「先生が亡くなった後、奥様が処分できない、と言って。私が引き取りました。調律師ですから、ピアノは断れません」

「まだ弾けますか」

「調律はしています。でも私が弾くと、先生に申し訳ない気がして」宮本は小さく笑った。

「勝手なものですね」

 誠一はお茶を受け取った。

 渋い緑茶の香りがした。

 一口飲んだ。

 良いお茶だった。


 しばらく、他愛のない話をした。

 最近の気候のこと。

 近所に新しいスーパーができたこと。

 宮本が若い頃に調律師として日本中を回っていた話。

 ホールのピアノは一台ずつ性格が違う、という話。

 誠一は聞きながら、自分が今日ここに来た理由をまだ切り出せないでいた。

 切り出す必要もなかった。

 宮本が話してくれるだろう、という予感があった。

 呼ばれてきたのだから。


 お茶が二煎目になったところで、宮本が言った。

「村上さん。今日お呼びしたのは——あの夜のことを、お話したいと思ったからです」

「あの夜」

「一九九三年の十月です。古賀先生のリサイタルの夜」

 誠一は湯呑みをテーブルに置いた。


「私はあの夜、会場にいました」と宮本は言った。

「調律師として。本番の三時間前にホールのピアノを調整して、そのまま待機していた。本番中も、袖で待機するのが私の仕事でしたから」

「知りませんでした」と誠一は言った。

「あの夜、宮本さんがいたとは」

「楽屋には何人かいましたから。あなたは私のことを覚えていないでしょう。当時の私は、壁の一部みたいなものでしたから」


 宮本は穏やかに言った。

 自嘲でも卑下でもなく、事実として。

 調律師というのは縁の下の仕事で、目立たないのが美徳だ——そういう矜持が、その一言ににじんでいた。


「先生の訃報を聞いたのも、楽屋の廊下でした。スタッフの方が走ってきて。午後五時に——と聞いた瞬間、私は頭が真っ白になった。先生と前の日に話したばかりでしたから」

「前の日」と誠一は言った。

「そうです。前日の午後、先生が会場に下見に来られた。私はピアノの最終確認をしていて。先生は鍵盤を少し触れて、『いい音だ』と言いました。それから——」

 宮本が少し止まった。


「先生が私に言ったんです。『宮本、誠一はな——』と」

 誠一は息を止めた。


 宮本はゆっくり話した。

 急かさず、でも止まらずに。

「先生がおっしゃったのは、こういうことでした。『宮本、誠一はいつかステージを怖いと思う日が来るかもしれない。その時は、逃げるなと言ってやってくれ。あいつは逃げ癖があるから』と」

「逃げ癖」と誠一は繰り返した。

「先生の言い方でした。悪口ではなく、心配からの言葉です。先生はあなたを——本当に大切にしていた。才能がある弟子を、才能ゆえに潰してしまわないかと、いつも気にしておられた」


 誠一は、その言葉を聞きながら、二十一歳の自分を思った。

 コンクールから帰ってきて、「次は一位を取る」と思っていた自分を。

 先生の前ではいつも自信満々のふりをしていた。

 でも先生には、分かっていたのかもしれない。

 どこかに「逃げ癖がある」ことを。


「先生はなぜ——前日にそれを言ったんでしょう」

「今になると思うんです」と宮本は言った。

「先生は、体の異変を感じていたのかもしれない。虫の知らせというものがある。だから私に——万が一の時のために、あなたへの伝言を頼んだ」

 誠一は窓の外を見た。

 小さな庭に、風が吹いている。

 菊の花が揺れた。


「だから」と宮本は続けた。

「あなたが楽屋で『弾きます』と言った声を——私は廊下で聞いていました。あの声を聞いた時、私は止めようと思った。でも、先生の言葉があったから、足が動かなかった。あなたは逃げていなかった。先生の言葉通りに、逃げなかった。だから私には、止める言葉がなかった」

 誠一はうなずいた。

 うなずくことしかできなかった。


「ステージで止まった後、袖に入ったあなたを——私は遠くから見ていました。膝が折れて、誰かが支えた。私も近くに行こうとしたが、人が多くて行けなかった。あなたはその後、すぐに帰ってしまった」

「覚えています」と誠一は言った。

「あの夜のことは、細かく覚えています。でも、誰が周りにいたかは——よく覚えていない」

「そうでしょう。あなたはその夜、先生のことで頭が一杯だったはずだから」


 宮本はお茶を一口飲んだ。

 誠一も飲んだ。

 三煎目になっていた。

 少し薄くなっていたが、それがかえって落ち着く味がした。


「村上さん」と宮本は言った。

「あなたに伝えたかったことが、もう一つあります」

「はい」

「先生が亡くなった後、しばらくして——奥様から連絡をいただいたことがあります。先生の遺品を整理していたら、手帳が出てきた、と。手帳にいくつかメモが書いてあった、と。その中に、リサイタルのことが」


 誠一は宮本を見た。

「奥様が読んでくださったんです。先生が亡くなる直前に書いたと思われるメモで——内容は、その夜のリサイタルへの心配でした。先生はこう書いていた。『もし自分に何かあった時は、誠一に演奏をやめさせてほしい。無理をさせてはいけない』と」

 誠一の手が、湯呑みの上で止まった。


「先生が」と誠一は言った。

「そう書いていた」


「そうです。先生はあの夜、自分の体に異変を感じていた。だから書き残した。万が一の時には——誠一を舞台に立たせるな、と。ところが、その言葉が奥様からスタッフに届く前に、訃報が伝わってしまった。あなたはすでに『弾きます』と言っていた」

 誠一は、じわじわと理解した。


 先生は——弾かせたくなかった。

 万が一の時には、弾かせないでほしいと書いていた。

 でも、その言葉は誰にも届かなかった。

 誠一は先生の「逃げるな」という言葉だけを信じて、舞台に立った。


「先生は亡くなるまで、その夜のリサイタルのことを気にかけていた」と宮本は言った。

「奥様は後から——誠一さんが途中で止まったことを、人づてに聞いておられた。そして奥様は私にこう言いました。先生が生きていたら、きっとこう言っただろう、と」

 誠一は宮本を見た。

「先生なら、あなたを責めなかった。むしろ——あんな夜に舞台に立たせてしまった自分を、ずっと責めただろう、と」

 誠一は、何も言えなかった。


 三十三年間、誠一は「先生を裏切った」と思っていた。

 先生が「逃げるな」と言ったから舞台に立った。

 でも途中で止まった。

 先生との約束を守れなかった。

 だから自分にはもう弾く資格がない——そう思ってきた。

 でも先生は、弾かせたくなかった。


 あの夜、先生の本心は「やめさせてほしい」だった。

 それが届かなかった。

 届かなかったから誠一は弾いた。

 止まった。

 三十三年間、それを「裏切り」だと思ってきた。

 でも先生は、誠一を責めなかっただろう——と奥様は言った。

「奥様が最後に教えてくださったのは」と宮本は言った。

「先生が奥様に、何度か話していた言葉です。誠一のことになると、先生は必ずこう言っていた、と奥様がおっしゃっていました」

 宮本は少し間を置いた。


「『誠一に、もう一度弾かせてあげたかった』」


 誠一の目が、熱くなった。

 こらえようとした。

 八十代の老人の前で、五十五歳の男が泣く。

 そういう絵面を想像すると、どうにかこらえなければ、という気持ちになった。

 でも目の奥が焼けるように熱くて、視界がわずかに滲んだ。


 三十三年間。


 誠一は三十三年間、先生との約束を守れなかったと思ってきた。

 先生はきっと失望しただろうと思ってきた。

 だから弾けない。

 だから封印した。

 ——でも先生は、「もう一度弾かせてあげたかった」と言っていた。

 失望していたのではなく、もう一度聴きたかった、と言っていた。


 ずれていた。

 三十三年間、完全にずれていた。


「ありがとうございます」と誠一は言った。

 声が少し揺れた。

 宮本はうなずいた。

 何も言わなかった。

 それでよかった。

 この沈黙の使い方を知っている人間が、世の中にはいる。

 宮本はそういう人間だった。

 窓の外で、風が菊を揺らしていた。


 誠一はしばらく庭を見ていた。

 何かを言おうとして、でも言葉が見つからなかった。

 こういう時は、言葉を探すより黙っている方がいい。

 宮本もそれを知っていて、黙っていてくれた。

 時計が、柱時計の音を立てた。

 午後六時を告げた。


「長居しました」と誠一は言った。

「いえ、ゆっくりしていってください」

「いや、お暇します」と誠一は立った。

「今夜は——いろいろ、考えたいので」

 宮本は玄関まで送ってくれた。

 靴を履いて、振り返ると、宮本が言った。


「村上さん。先生の最後の言葉は——願いです。願いというのは、叶えることができます。今夜のうちに、答えを出さなくていい。ただ、叶えることができる、ということだけ覚えておいてください」

 誠一はうなずいた。

「ありがとうございました」

「クッキー、美味しくいただきます」と宮本は言った。

「歯はまだ丈夫ですから」

 誠一は少し笑った。

 帽子を被って、石灯籠の前を通り、門を出た。


 帰り道、誠一は急がなかった。

 住宅街を抜けて、駅に向かう道を歩いた。

 街灯が灯り始めていた。

 十一月の夜は早い。

 夕方六時でもう暗い。

 誠一はコートのポケットに手を入れて歩いた。


 先生の最後の言葉。

 誠一にもう一度弾かせてあげたかった。


 その言葉を、どう受け取るべきか。

「じゃあ弾けばいい」と思うのは簡単だ。

 でも三十三年間封印してきたものを、他人の言葉一つで解いていいのか、という気持ちもあった。

 解くというのは、三十三年間の誠一の選択を否定することになるのか——いや、ならない。

 三十三年間、先生の記憶を大切にして生きてきた。

 それは正しかった。

 ただ、その記憶の解釈が、ずれていた。


 駅のホームに着いて、誠一はベンチに座った。

 電車が来た。

 見送った。

 次の電車が来るまで、ベンチに座っていた。


 誠一にもう一度弾かせてあげたかった。

 じゃあ、弾けばいい。

 それだけのことだ。

 三十三年かかって気づくことにしては、あまりに単純だ。

 ホームのベンチに座って気づくことにしては、あまりに地味だ。

 でも、すべての気づきは最終的にこういう場所で訪れる。

 コンサートホールでも、夜明けの海岸でもなく、電車を一本見送ったホームのベンチで。

 次の電車が来た。誠一は立ち上がり、乗った。


 家に帰ると、久美子が台所にいた。

 夕飯の後片付けをしていた。


「遅かったね」と久美子は言った。

「宮本さんとこ、遠かった?」

「十五分くらい」

「ご飯、温めとこうか」

「ありがとう」と誠一は言った。


 ジャケットを脱いで、洗面所で手を洗った。

 鏡の中の自分を見た。

 目が少し赤い。

 泣いてはいないが、泣きそうだった夜の顔がそこにある。


 リビングに戻ると、久美子がご飯を温めていた。

「どんな話をしたの」と久美子は言った。

 台所から、背中を向けたまま。


「先生のことを、聞いた」と誠一は言った。

「先生の最後の言葉を、教えてもらった」


 久美子は振り返らなかった。

 でも手が止まった。

 電子レンジが「チン」と鳴って、久美子がそれを出して、誠一の前に置いた。


「そう」と久美子は言った。「聞けてよかったね」

 それだけだった。

 それだけで十分だった。


 誠一は温かい飯を食べた。

 先生の言葉が、胃の中に落ちていくような気がした。

 三十三年間、胸のあたりで凝っていたものが、少しだけ溶けていく感じがした。

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