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第十三話「出場、逡巡」

 翌週の月曜日、誠一は会社の帰りに駅ビルに寄った。


 特に用事があったわけではない。

 コンコースを通るついでに、ピアノを見ようと思っただけだ。

 ここ二ヶ月で、コンコースのグランドピアノは誠一にとっての「通りかかる場所」になっていた。

 気になる木、みたいなものだ。

 ただ通りかかるだけで、少し安心できる。

 ピアノがそこにある。

 それだけで十分だった。


 月曜の夕方、コンコースは帰宅客でにぎわっている。

 スーツ姿の人間が足早に通り過ぎ、大きな買い物袋を提げた主婦が通り過ぎ、イヤホンをした学生が通り過ぎる。

 その流れの中に、グランドピアノがある。

 今日は若い女性が座って弾いていた。

 ポップスだろうか、誠一には曲名が分からなかったが、上手だった。

 立ち止まって聴いている人間が、五人ほどいた。


 誠一はその輪の外側から、ピアノを眺めた。

 いつもと様子が違う、と気づいたのは、その時だった。

 ピアノの横に、のぼりが立っている。

 オレンジ色の、目立つのぼりだ。

「街角ピアノ週間」と書いてある。

 横断幕も張られていて、近くに小さなテーブルが置かれ、スタッフらしき若い男性が立っている。

 テーブルの上に、チラシと、出演者募集の用紙が置かれていた。


 誠一はのぼりの横の告知を読んだ。

「どなたでも参加できます。五分程度の演奏を歓迎します。プロ・アマ問いません。事前にお申し込みください」

 三秒読んで、目を逸らした。

 関係ない、と思った。


 これは若い人のためのものだ。

 あるいは趣味でピアノを習っている主婦が、発表の場として使うものだ。

 五十五歳のサラリーマンが「どなたでも参加できます」の「どなた」に含まれるかどうかは、文字通りには含まれるが、空気感として含まれていない気がした。

 ショパンコンクール三位という経歴を持つ元天才が、「どなたでも参加できます」の枠で申し込むのも、なんとなく違う気がした。

 かといって「元コンクール三位です」と名乗るのも、それはそれで三十三年前の話を盾にしているようで気恥ずかしい。

 とにかく、関係ない。


 誠一はそう思いながら、スマートフォンを出して告知を一枚撮影した。

 なぜ撮ったのかは、よく分からない。

 帰りの電車の中でもう一度見た。

「五分程度の演奏」。

 夜想曲第二十番は、通して弾くと四分半から五分ある。

 ちょうどいい、と思った。

 思ってから、「関係ない」と思い直した。


 夕飯は豚汁と白飯だった。

 テーブルに四人が座った。

 久美子が「今日は早かったね」と言った。

「ちょっと寄り道した」と誠一は言った。

「どこに」と翔が聞いた。

「駅ビル」と誠一は言った。

 翔は「ふーん」と言い、豚汁を飲んだ。


 こういうさりげない食卓の会話が、最近は増えていた。

 以前なら「どこに」とは聞かれなかった。

 聞かれても「散歩」で終わった。

 今は「駅ビル」と答えたら翔が「ふーん」と返す。

「ふーん」は短いが、ゼロではない。

 村上家の食卓の会話は、少しずつ文字数が増えていた。


 食後、誠一がリビングのソファでスマートフォンを見ていると、横から麻央が覗いた。

「何それ」

「駅ビルのピアノ企画」と誠一は言った。

「え、見せて」と麻央は言い、手を伸ばした。

 誠一はスマートフォンを渡した。

 麻央が告知を読んだ。


 三秒後に麻央が言った。

「パパ、出てよ」

「出ない」と誠一は言った。

「なんで」

「関係ないから」

「関係あるでしょ」と麻央は言った。

 麻央の「関係あるでしょ」は、語尾が少し上がる。

 反論ではなく、当然のことを確認している、という語尾だ。

「毎日あのピアノ弾きに行ってるじゃん」

「毎日は行ってない」

「三日に一回くらいは行ってるでしょ。知ってるよ」

 誠一は少し驚いた。

 麻央が知っていた。


 家族は、見ていないようで見ている。

 誠一が「散歩してくる」と言って出かける時間帯のパターンを、把握している。

 それがどこか照れくさく、でもありがたかった。

 透明人間だと思っていたが、透明人間は観察されていなかっただけで、存在していなかったわけではない——とこの二ヶ月で少しずつ分かってきた。


「でも、正式に出るのは違う」と誠一は言った。

「ぶらっと弾くのと、出演として弾くのは別だ」

「どう違うの」

「申し込んで、名前が出て、人が聴きに来て——責任が違う」

「責任って何の責任」と麻央は言った。

「べつに責任なくない? どなたでも参加できますって書いてあるんでしょ」

「それはそうだけど」

「出たら」と麻央は言った。

「見に行くから」

「来なくていい」

「行く」と麻央は言い、スマートフォンを返した。

「十六万回再生されてるんでしょ、あの動画。本番ちゃんとやれるって証明されてる」

 誠一は返す言葉がなかった。


 証明、という言い方は正確ではないが、麻央なりの論理は通っていた。

 確かに駅ビルで弾いた時、誠一は止まらなかった。

 震えもしなかった。

 本番でも弾ける——という証拠がすでにある、と麻央は言っている。


「考えとく」と誠一は言った。

「考えすぎるのもよくないよ」と麻央は言い、部屋に戻った。


 その夜、誠一は珍しくスマートフォンで「街角ピアノ週間」を検索した。

 駅ビルのウェブサイトに詳細が出ていた。

 開催は十日後の土曜日。

 午前十時から午後五時まで。

 出演時間は五分から十分。

 申し込みは先着順で、まだ空きがある——と書いてある。


 出演者のリストも、すでに何人かの名前が出ていた。

 田中彩香(小学五年)。

 吉田健一(会社員・42歳)。

 鈴木みどり(ピアノ教室在籍)。


 「会社員・42歳」というのが少し引っかかった。

 誠一より十三歳若いが、同じ会社員だ。

「会社員・55歳」で申し込んだとして、それが場違いかどうかは——田中彩香(小学五年)と並ぶかどうかはともかく、吉田健一(会社員・42歳)とは対等に並べる気がした。


 誠一はスマートフォンを置いた。

 考えすぎだ、と思った。

 麻央が言った通りだった。


 翔がリビングに来たのは、午後十時過ぎだった。

 就活の書類を整理していたらしく、クリアファイルを持っている。

 冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注いで、テーブルに座った。

 誠一もまだリビングにいた。

 テレビを見るともなく見ながら、さっきからずっとピアノ企画のことを考えていた。


「父さん、まだ起きてんの」と翔が言った。

「ああ」

「何か考えてた感じだけど」

「ちょっとな」と誠一は言った。

「駅ビルのピアノ企画に出るかどうか」

 翔がコップを置いた。

「麻央から聞いた」と翔は言った。

「それ」

「うん」


 翔はしばらく黙っていた。

 クリアファイルのプラスチックの部分を指でなぞりながら、何かを言おうとして、言葉を選んでいる、という時間があった。

 翔がそういう時間を持つのを、誠一は最近よく見るようになった。

 以前は考える前に「ふーん」と言って終わっていた。

 何かが変わりつつある。


「……出たらいいじゃないの」

 翔は目を逸らしながら言った。

 冷蔵庫の方に視線を向けたまま。

 まっすぐ言えない。

 でも言った。


「強制はしないけど」と翔はすぐ付け加えた。

「出る気があるなら、だけど」

「出る気があるかどうかが、分からないんだよ」と誠一は言った。

「なんで」

「もう五十五だから」

「それは関係ないと思う」と翔は言い、ようやく誠一を見た。

「宮本さんて人、八十いくつでしょ。まだ調律してるって言ってた」


 それは誠一も思っていた。

 宮本は八十を超えて、まだピアノと関わって生きている。

 比べるのは違うかもしれないが、「五十五歳」が理由にならないことは、宮本の存在が証明している。

「考えてみる」と誠一は言った。

「別に、無理に、とは言わないけど」と翔は言った。

 また目を逸らした。

「でも——見てみたい気はする」


 誠一は翔を見た。

「父さんが弾くのを、ちゃんと聴いてみたい、と思って」と翔は言った。

 少し早口で、言い終わってから少し恥ずかしそうにした。

「動画じゃなくて、生で」


 誠一は何も言わなかった。

 何も言えなかった、の方が正確だ。


 翔が「生で聴きたい」と言った。

 二十四年間一緒に暮らして、一度も聴いたことがない父のピアノを、生で聴きたいと言った。


 寝る前、久美子が洗面所で顔を洗っている誠一に声をかけた。

「麻央と翔から聞いたけど」と久美子は言った。

「ピアノの企画」

「ああ」

「どうするの」と久美子は言った。


 誠一は鏡の中の久美子を見た。

 複雑な顔をしていた。

 誠一の目には、そう見えた。

 複雑、というのは反対でも賛成でもない顔だ。

 何かを飲み込んでいる顔だ。

 久美子はあの夜——誠一が全てを話した夜から、ずっと少し複雑な顔をしている。

 三十年間黙っていたことへの感情は、一夜で消えるものではない。

 誠一にはそれが分かった。


「まだ分からない」と誠一は正直に言った。

「そう」と久美子は言った。

「止めないけど」


 止めない——という言葉が、久美子の答えだった。

 賛成でも反対でもない。

 でも「止めない」と言った。

 それは久美子なりに、誠一が弾くことを認めている、ということだ。

 少なくとも誠一にはそう受け取れた。


「ありがとう」と誠一は言った。

「何が」と久美子は言い、洗面所を出た。


 その夜、布団の中で誠一は考えた。

 長い時間、考えた。


 出場する理由は、ある。

 先生が「もう一度弾かせてあげたかった」と言っていた。

 その言葉を聞いた時に「じゃあ弾けばいい」と思った。

 宮本の家から帰る道でそう思った。

 思ったのに——今になってまた迷っている。


 なぜ迷っているのか。

「もう五十五歳だ」という感覚だ。


 三十三年前はコンクールで三位を取った。

 今は営業部次長で、幕の内弁当を食べて、コピー機の紙詰まりを直している。

 家族のLINEグループに長い間入れてもらえなかった男だ。

 そういう男が、駅ビルのグランドピアノでショパンを弾く。

 それが——何になるのか。


 十六万回再生されたのは、顔が映っていなかったからだ。

 顔が映って、「五十五歳の会社員村上誠一です」と分かった上で弾いたら——十六万回再生される理由がなくなる。


 あの夜から三十年経った。

 今さら——。


 誠一はそこで、考えるのをやめた。

 「今さら」という言葉が出てきた時点で、おかしい、と気づいたのだ。


 「今さら家族に話せない」と思って三十三年が経った。

 話したら、久美子は「三十年間、うまく話せなかったの?」と言った。

「今さら」は、ただ時間を止める言葉だ。

 正当な理由ではない。


 それに——先生は「もう一度弾かせてあげたかった」と言っていた。

 先生の言葉は、願いだ。

 宮本はそう言った。

 願いは叶えることができる。

 五十五歳でも。

 三十三年後でも。


 駅ビルの告知が、まぶたの裏に浮かんだ。

「どなたでも参加できます」。

 どなたでも——は、五十五歳の元コンクール三位の会社員も含むだろう。

 少なくとも文字通りには。

 誠一は目を閉じた。


 翌朝、誠一は普通に目が覚めた。

 洗面台で顔を洗い、インスタントコーヒーを飲んだ。

 久美子が「今日は弁当にする?」と聞いた。

「いや、買う」と誠一は言った。


 玄関を出る前に、スマートフォンを確認した。

 何かのアプリを開いたわけではなく、なんとなく画面を見た。

 昨日撮影した告知の写真が、カメラロールにある。


 誠一はその写真を開いて、十秒見た。

 それから、駅ビルのウェブサイトを開き、出演者申し込みフォームを表示した。

 名前を入力した。「村上誠一」。

 年齢。「55」。


 演奏する曲目。

「ショパン 夜想曲第二十番 嬰ハ短調」。

 演奏時間。

「五分程度」。


 申し込みボタンを押した。

 画面に「お申し込みありがとうございます」と表示された。

 誠一はスマートフォンをポケットにしまった。


 なぜ押したのかは、うまく説明できない。

 先生の言葉だったかもしれない。

 翔の「生で聴いてみたい」という一言だったかもしれない。

 麻央の「考えすぎるのもよくない」だったかもしれない。

 久美子の「止めない」だったかもしれない。


 全部だろう、と誠一は思った。

 一つの理由ではなく、全部が重なった。

「行ってきます」と誠一は言った。

「行ってらっしゃい」と久美子が言った。


 今朝の「行ってらっしゃい」には、何かがこもっていた気がした。

 気のせいかもしれない。

 でもそう感じた。

 誠一は玄関を出て、秋の朝の空気を吸った。

 少し、寒かった。

 でも、悪くなかった。

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