66話
静寂が支配していた。
つい先ほどまで暴れ狂っていた瘴気は、嘘のように霧散し、謁見の間の空気が澄んでいく。崩れた石壁から差し込む光が、埃を照らし、舞い上がった粒子ですら煌めいていた。
戦いの余韻だけが、そこに残っている。
「……大したことはなかったな」
レオニスが、わずかに肩の力を抜きながら剣を振るう。刃についた穢れを払うその動作には、勝利を確かめるような緩みがあった。
剣を鞘に戻す。
「まだ、油断はしないでください」
セレナは応じるが、その視線は止まらない。謁見の間の隅から隅へと、空気の流れすら読むように見渡している。
瘴気は薄れている。だが完全に消えたわけではない。
「魔族を斬った。この魔剣……魔族にも通じるらしいな」
レオニスは剣を見下ろす。その刃は、まだ微かに鈍い光を帯びていた。
「はい……正直、驚きました」
セレナもまた、その事実を噛み締めるように頷く。
周囲に、魔族の気配はない。
張り詰めていた糸が、ほんのわずかに緩む。
そのときだった。
「……クリス?」
レオニスの声が、響く。
視線の先。
クリスが床に落ちていた一枚の羊皮紙を拾い上げていた。
返事は、ない。
妙な気配にレオニスの眉が寄る。
「クリス」
再度、呼びかける。
レオニスにクリスが顔を向ける。
異様だった。
口は半ば開き、唾液が糸を引いて垂れている。焦点の合わない瞳は濁り、そこには理性の光が一切なかった。
人ではない、何か。
そう呼ぶほうが正しい。
レオニスの手が、即座に動く。
剣を抜き、距離を取る。
その動きを見て、セレナもまたクリスへと視線を向けた。
「……アメリア」
力がない声。
それはクリスの口から発せられた。
次の瞬間。
羊皮紙が、蠢いた。
内部から濃密な瘴気が噴き出す。
黒紫の煙が、空間を侵食する。
同時に、クリスの身体から何かが抜け落ちていく。
頬は急速にこけ、皮膚は張り付き、筋肉は萎む。
生命そのものが吸い上げられていく。
「っ……!」
声にもならない苦悶を漏らしながら、クリスの身体が崩れ落ちた。
床に叩きつけられる音は、やけに軽い。
その上空で。
羊皮紙だけが、異様な存在感を放っていた。
瘴気は止まらない。
むしろ、そこへ集束していく。
「レオニス様ッ!」
セレナの声が鋭く響く。
「斬って! その羊皮紙を!」
「ああ!」
レオニスが踏み込む。
剣を振り上げ、迷いなく叩き斬ろうとした、その刹那。
キィン。
甲高い音。
紫の半透明の剣が、空間に現れ、その一撃を受け止めた。
「……判断が遅いわね」
声がした。
どこからともなく。
羊皮紙へと、瘴気が、収束する。
渦を巻くように、絡みつき、凝縮されていく。
やがて。
その中心から、形が生まれた。
手。
腕。
肩。
そして、女の輪郭。
羊皮紙を握るその手から、アメリアの身体が、ゆっくりと再構築されていく。
肉が生まれ、血が巡り、皮膚が形を成す。
まるで、最初からそこにいたかのように。
「危ない危ない」
軽やかな声。
完全に姿を取り戻したアメリアが、くすりと笑う。
「ボスがあんなに簡単に死んだら、つまらないでしょ?」
その瞳が、愉悦に細められる。
「でも……その魔剣は、少しだけ予想外だったわ」
興味深そうに、レオニスの剣を見る。
「聖剣でもないのに、魔族に傷をつけるなんて。そんな剣、初めて見た」
レオニスは答えない。
ただ、視線を落とす。
「クリス」
その先にあるのは、動かないクリスの身体。
抜け殻のように横たわる、それ。
「クリス、っていうのね。この男」
アメリアが、楽しげに言う。
「ありがとう、クリス」
くすくすと笑いながら。
「貴方がいなかったら、私は本当に死んでいたわ」
命を弄ぶような声音。
クリスに注がれていた視線が、ゆっくりとセレナへと移る。
空気が、張り詰める。
張り詰めるどころではない。空間そのものが軋み、緊張に耐えきれず裂けてしまいそうなほどに、圧が満ちていく。
瘴気が、蠢く。
音もなく、世界を侵食するように広がっていく。
その圧を前にしても、セレナは、一歩も退かない。
アメリアは、微笑む。
「……もう油断はしないわ」
先ほどまでの余裕とは違う。
強敵に対する、警戒が混じっていた。




