9. 中止
キスなんてただの触れ合いだと思っていた。
女性の、小さくて薄く柔らかい唇を食むのとは違う感覚に、自分の中のスイッチが誤作動したみたいに止まらない。
彼の髪が頬に触れて清涼感のある香りが、理性を手繰り寄せようとする思考を停止させる。
自分より大きな舌が入り込んで来た口の中は熱く滾る。絡み合う舌はどちらも譲らない。主導権を取り合うかのようにぶつかって舐め合って水音をたてる。
このキスを中止させたのは彼の一言が気に入らなかったからだ。
「キスが上手いって言われるだろ」
滴るほど濡れた唇を離してそのぶ厚い胸を押す。
「……うるさい」
キッチンを後にしてリビングドアに向かう俺の腕を彼が掴んだ。
「離せよ」
「もっとしたい」
抱き寄せられそうになるのを素早く身をかわして逃れた。
「誰か呼べばいいだろ」
彼が笑った気配を感じながら、振り返らないまま部屋を出た。
何も考えたくない。思考を停止させたい。
周りが驚くほど仕事に熱中した。残業して職場の同僚と食事して帰り着いたらシャワーに打たれて泥のように眠った。
「……運行中止か……」
この無茶なルーティンを止めたのは都市に訪れた台風だった。
会社が休みでも電車さえ動けばオフィスに行って仕事しようと思っていたのに。
とりあえず昼まで寝て目が目が覚めた。
仕方なく部屋着でソファーの前に座り込むと、テレビボードから数か月ぶりにゲーム機を取り出す。空腹も感じるがスナック菓子くらいしかなかったなと思いめぐらす。思考したくない。オンラインで対戦相手でも見つけようかと電源を入れたところでインターフォンが鳴った。
誰かなんてもうわかっている。
「何のご用ですか」
「俺」
「知ってる」
「カレー、作って持って来た」
「……」
ドアガードの隙間からでも充分に漂ってくる香りに、腹が鳴った。
「綺麗にしてんじゃん」
そんな事はないはずでも、物が少ないとそういう印象になるのかもしれない。
自分が隣の彼の部屋での印象と同じように、反転した間取りが面白いようで、そんな事を口にしながら鍋を抱えて部屋を見渡している。炊き立ての白米までタッパーに入れて鍋に重ねて来られては、思わず礼を口にしてしまう。
「うまい……どうもありがとう」
「暇だったから」
窓の外は昼間だというのに薄暗くて照明を灯している。時折ガラスに打ち付ける雨風が、外の様子を伝えてくる。
キッチンの対面カウンターに並んで男二人で皿とスプーンがぶつかる音を響かせる。
「すごいなこんなの作れるなんて」
「料理しないの?」
「しない」
自分の部屋が味気なく感じるのは、生活の気配がないからかもしれない。彼の部屋にはそれを感じたと気付く。
「何してた? 」
「ゲーム……かな」
言わなければ良かった。
「もう帰れよ……」
テレビに映し出される鮮やかな画面に視線を向けたまま、隣に座る男に小言を漏らす。
二時間は過ぎたはずだ。ソファーの前に座り込んで、なぜか二人でゲームをしている。並ぶと腕が触れ合いそうな距離に、落ち着かない。
「無理、エアコン止まった」
「は?」
停電はしてないだろ、と確認すると、停電ではなくテラスの植栽が倒れて室外機にぶつかって停止してしまったらしい。
この外の様子だと、修理を呼ぶにも明日になってしまう。
口の中に唾液が溜まる。
並んだこの距離と触れ合いそうな腕から、体温が伝わってくるような感覚に目を逸らしてしまう。
「このステージ俺が勝ったらキスする」
「は? 」
「負けたら帰る」
画面から目を逸らさないままの彼の横顔に、画面の光が映り込んでいる。
「……ちょっ」
「勝ったし」
のしかかる大きな身体を避けて後退りする。床についた手のひらの上に重なった大きな手が俺の動きを封じた。
「アンタとのキス、やっぱりいい」
「……誰と比べてるんだよ」
「ほら、妬いてる」
「……! ちがっ……」
重なる唇に抗えない。
身体が勝手に動いてしまうように。彼の背中に回した手がシャツを掴む。
だから何も考えたくなかったのに。
こんな感覚は知らないんだ。
シャツに入り込んで来た手のひらに、ハッと意識を浮上させる。
「ちょっ……まっ……待てよ! 」
「……なんで」
止まる気がない気配に、ぶわりと汗がにじみ出た。
男同士でのそんな流れに、抵抗しないほうがおかしい。
「……ほん……本気かよ……」
思考を止めたくなったのはこういうことを考えたくなかったからだ。
「ベットに行こう」
このまま彼に呑み込まれてしまいそうで、抗う言葉を探す唇をまた塞がれて吐息だけが漏れる。
男同士の交わり方なんて知らないのに。
「……寝室に入れてよ」
「……しん……」
ふと過った。この間取りはリビングとは別に部屋が一つある。
「寝室のエアコンならつくんじゃないのか…?」
「あ、バレた? 」
その額に手を打ち付けようと思ったのを止めたのは、彼が被写体になる仕事をしているのを思い出したからだ。そうでなければ一発では済まなかった。
「もうちょっとだったのに」
「……何がだ!」
玄関から追い出したはずの男が閉めようとしたドアに靴を挟みこんでその綺麗な顔を寄せてきた。
「何だよ! 」
「カレー、冷蔵庫に入れといてね」
はっとして思い出す。キッチンにはまだたっぷりとカレーが入った鍋が据えられてる。
「また明日」
そう言って笑う顔が憎たらしいのに綺麗で、ますます腹が立った。




