10. 写真
甘辛い家庭料理の香りはいつぶりだろうか。
何かとたくさん並べてあるのに整頓された隣人のキッチンは、家主の几帳面さを表しているようだ。
話した事もない頃、顔を合わせる度に抱いた印象は、整った容姿に加えてなんだかミステリアスというか、不思議な雰囲気を纏っていた。
「肉じゃがは牛肉派?」
「……実家ではそうだった」
インゲンで彩りまで添えてある丁寧な小鉢を、キッチンの対面カウンターの席で受け取る。
また来てしまった。
冷蔵庫に入れておいたカレーの入った鍋を返したら、すぐに引き返すつもりだったのに。
「……暑いな」
「エアコン修理屋、来週になるって」
招き入れられたリビングの窓は明け放されている。窓の側にあるパソコンデスクの辺りには、収納ケースがいくつか重なって、中身が床に広げられていた。
整理でもしていた様子に、なんだか中断させてしまった気まずさもあって遠慮したのに、何故か今日の彼はいつもよりも言葉少なだ。それが妙に有無を言わせない雰囲気を纏っている気がして、言われるがままに席についてしまった。
炊き立ての白米に、たっぷり盛られた肉じゃが、焼き鮭に、茄子の何かの料理が並べられて、味噌汁の碗を受け取る。手際よく片付けて隣に来た彼が、手を合わせているのにつられて自分も手を合わせた。
「一人なのに丁寧な暮らしだな」
「カレーと材料一緒だから」
そう言われてみればそうかと、照りのいい肉じゃがに箸をつける。
「美味しい……」
思えば料理なんて暫くしていない。
毎日自分だけのためにこんなに用意してるなら凄いと思う。なんだかそんな生活のサイクルに入り込んでしまって良かったのだろうか。
「片付けしてたんじゃないのか?」
「ああ、婆ちゃんの写真探してた」
彼がいつもより静かに笑ったように見えた。疲れているんだろうか。
「懐かしくなった?」
「死んだって連絡あったんだ」
甘辛い香りが漂う空間に沈黙が降りた。
「……帰らなきゃだろ」
「血い繋がった親族じゃないから」
この部屋に漂う家庭の匂いと、彼から感じる雰囲気のミスマッチさが、妙にその横顔を儚げに見せた。
「見せて、その写真」
驚いたような顔をして視線を合わせる。それでも立ち上がって収納ケースの側に歩いて行ったから見せてくれるらしい。
しゃがみ込んていると随分小さく見えるのは、彼の脚の長さだけではなく、後姿が見せるどこか覇気のない様子のせいな気がした。
「ごこには無いな、寝室のほう」
背後に来た俺を振り返りながら立ち上がると、廊下へと歩いて行く。思い付きで言っただけなのに、なんだか手を煩わせてしまったのかもしれない。
角部屋で広いこの間取りも、寝室は隣の俺の部屋と同じくらいの広さで、ベッドと観葉植物が置いてあった。
「んー、どこだったかな」
「俺が急かしてるんならいいよ、もう帰るから」
「なんで、ここは暑くないだろ?」
そうだけど、と返事をする自分が立ち上がるのを、シャツを掴んだ彼が止めた。
クローゼットから出した収納ケースの中から出した本や服が床に広がっている。
「離せよ」
「帰るなよ」
いつもなら振り払う手を、今日は跳ねのけられない。
「皿、片付けてくるから」
「いい、そんなのは」
そう言って伸ばした反対の手で、一枚の写真を差し出している。
その写真を手に取って言葉を飲んだ。
「だいぶ小さい時に撮った写真しかないけど」
写真の中には、優しそうに笑うふくよかな女性と、その膝の上で疑うようにカメラを見つめる、おかっぱ頭の子供が居た。その背景は旅館の入口にあるカウンターが映っている。
「静岡?」
「そう、なんで?」
「前にスイカ送って来たって言ってたから」
写真の背景のその先には、お土産屋さんの売店があるんだ。家族がそこでの買い物に夢中になっていて、退屈した俺は長い廊下を駆け出して襖の開いていた大広間に入ってみたんだ。
「ホントは向こうで見つけてた」
「え?」
立ち上がった彼に腕を掴まれて引き寄せられる。
重心を崩して彼の身体の上に倒れ込んだ。
「……ちょっ……おい!」
「帰らないでよ」
二人で倒れ込んだのがベッドだとわかって汗が噴き出る。
「ま……てよ」
起き上がろうとしている身体を羽交締めするかのように背後から絡みつかれる。
「何もしないから居てよ」
「……居てって……」
俺の身体を簡単に抱き寄せて腹に頭をぐりぐりと擦り付けている。子供が甘えるような仕草に、つい笑ってしまったのは不覚だった。
「母親が旅館で働いてたんだよ」
目を閉じたまま呟く彼が横になるベッドの隣に、自分も座っている。ベッドヘッドを背もたれにしながら、その横顔を見おろす。
「寮っていうか社宅みたいなとこに住んでたから、そこの大屋の婆ちゃん」
「そうか」
「婆ちゃんの肉じゃがの味は出せないんだよなぁ」
寝言のような呟きに、胸が軋んだ気がした。
旅館の大広間には、おかっぱ頭の女の子が居た。
自分より小さなその子が、迷い込んだ自分の手を取った。
広い空間を走り回って、座布団を投げて、ただそれだけなのに凄く楽しかったのを覚えている。
ニコニコと笑うその子が綺麗で、たぶん初恋だった。
「……女の子だと思ってた」
首すじにかかる黒くて長い髪を後に流してやる。
静かに寝息を立てる横顔に触れて、そしてその頬に口づけてしまった。




