6. 初恋
思ったより大きく響いた音に、肩を震わせてしまった。
自分がテーブルにジョッキを置いた音なのに。
「珍しいですね、先輩がそんなに飲むなんて」
「……君は結婚式、来てないもんね」
聞き返しながらのぞき込む後輩の女子社員から差し出されたおしぼりを受け取ると、いや、と首を横に振って自嘲を浮かべる。
誰もが話に夢中になって笑い合っている。久しぶりの部署での飲み会は、相変わらずのチェーン店居酒屋だった。
差し出された烏龍茶を受け取って礼を言うと口に含む。苦味を含んだ冷たさが喉を冷やして気持ちが良かった。
「やっと飲み会来たな! 元カノも居なくなったしな!」
「……別にそういうわけじゃ」
普段ならもっと気遣いの出来るはずの同期に遠慮がないのは酒のせいだろうと聞き流す。そろそろお開きのテーブルの様子に財布を手にするが、事前に集めていた事を思い出してまたポケットにしまう。確かに自分は酔っているようだ。
「えっ? 先輩そうだったんですか?」
笑って見せて立ち上がる。やっぱり同じ会社で付き合ったりするもんじゃないなとつくづく思う。
二次会に行く流れに引っ張り込まれないように手洗いに歩き出す。暫く時間を潰せば、みんな次の店に向かうだろう。
「大丈夫? 酔った?」
背後に来た同僚に、鏡越しに視線を合わせる。
「あのさ」
「うん」
「男同士で手ぇ繋いだりする?」
「は?」
酒に酔ったのは別に元カノを思い出してグラスを煽ったからじゃない。どうしてこんなに思い出してしまうんだろうか、隣に住んでいるだけの関係の男の事を。
「俺ら手ぇ繋いで出て行ったら爆笑されるだろ」
「いや、そうじゃなくてさ……で言うかお前と手なんか繋がないよ」
気持ち悪い、そう続けると同僚は笑い出した。
店の外に出ると、いっきに湿り気のある暑さが纏わりついて汗で張り付く前髪を掻き上げる。
ネクタイを緩めて駅のほうへと歩き出すと、背後からまた同僚の声がして振り返った。
「帰るんならさ、駅まで彼女送ってあげてよ」
その隣に視線を動かすと、さっきの女子社員が俯きながら上目遣いにこちらを見ていた。
そういえば元カノとのはじまりもこんな風だったなと、そんな事を思いながら駅までの狭い歩道を歩いて行く。
会社の飲み会の帰りに二人で歩いて、気付いたら彼女の部屋に居て、しかも朝だった。
二車線しかない道路の脇に申し訳程度に引かれた白線の際を、彼女を内側に押しやるようにしながら歩いて行く。後ろを歩いてくれたほうが進みやすいと思うのに、ずっとその上目遣いで隣に追いついて来る。
ふと、周りを見ればそんな男女の二人連ればかりなのに気が付いた。大通りに出るまでは、大きな看板に短時間の利用料金がデカデカと表示された入口が軒を連ねてライトアップされていた。
肩のあたりでゆれる巻き髪からフローラル系の香りが舞う。女性らしい華やいだ甘い香りだ。なのにどうしてか、もっと違う香りを思い出してしまう。
通り過ぎるバイクの音で視線を上げる。その先に見えた人影に、足を止めた。
向こうも気が付いてこちらを見た。
いつもは結んだその長い髪を掻き上げるしぐさに、その香りを思い出して身体の奥底が熱を持ったのがわかった。
ホテルから出て来た彼の後には、細い身体に密着させた短いスカートの女の子が居る。
目を逸らした。
速足になる自分に、後輩の女性が必死に着いて来るのに気が付いて歩幅を狭めた時には、もう駅の側まで来ていた。
「どこの駅?」
名前、何だったかなと記憶を辿る。思い出せないのは酔っているからでもなかった。
「あ、私の部屋あのビルの後ろです」
てっきり電車に乗るものだと思っていた。それじゃあと駅の改札に向かおうとしたところで、シャツの袖を引かれた。
「先輩、酔ってますよね……お茶、飲んで行きませんか」
思わず見おろしたその顔は暗闇でもわかるくらいに紅潮していて、視線を彷徨わせている。
アルコールで火照った肌が、人肌恋しさを助長させる。
なのに今こんな時に頭に浮かぶのがなんであの男なんだ。言葉を紡げずに引き結んだ唇に、額から離れ落ちた汗がつたった。
「おーい」
車道を挟んだ向こうから声がして振り返る。
もう一度同じように声を上げると、長い髪をまとめながら、車道を走る車のほうに目を凝らしている。どうやらこっちに渡って来るらしい。
いつも通りに親しげなその様子が見えて、頭が沸騰しそうになる。この感情は何だ。
華やいだ香りがまた鼻をかすめて見おろす。
「酔ってたらなおさら、そんな男を部屋に上げたりしちゃダメだよ」
そう言って笑って見せて、ライトが灯った改札のほうへと足を踏み出す。
「おーいって、聞こえてんだろ」
「どちら様ですか」
「何怒ってんだよ」
確かに言われてみればその通りではあるのだけど。
「ついて来ないで下さい」
「家一緒だろ」
改札機にかざそうとしていたスマートフォンを引き寄せて振り返る。
「俺は歩いて帰ります」
「は? このクソ暑いのに」
ひと駅ですからと言い残すと、また暗がりの歩道のほうへと足を速める。
「やっぱりついて来てるじゃないですか」
「もしかして妬いた?」
大きく息を吸ったその仕草に、揶揄って覗き込もうとした長身の身体が仰け反る。
――そんなわけないじゃないですか! ――
その言葉はすぐ間際の線路を駆け抜けて行った電車の騒音にかき消された。
プリプリと歩き出すその様子に笑いを堪えながらまた長身の身体が楽しげに揺れながらついて行く。
「だいたい貴方、ゲイなのかと思ってましたよ」
「なんで? 」
だって、と口ごもる様子に、隣に並んで覗き込む。
「何て言った? 」
「だから……」
俺の尻触ったりするでしょう。と、微かに聞きとれる囁きに笑った男の手が、速足で揺れるその尻に触れた。
「……! ちょっ……また、そうやって……」
「どっちかじゃなきゃダメってのはないだけだ」
「……あぁ……」
バイセクシャル。多様性と言われる世間でも
自分で公言している人には初めて会った。
「まぁ、でも初恋は男だったな」
「その人とも今日みたいに? 」
何を言っているんだ自分は、これじゃぁまるで彼の言うように妬いているみたいじゃないか。
「残念、五歳の時」
「……マセてる」
「そっちは? 」
初恋がいつだったのか、はっきりとした記憶はない。
「……たぶん小学生」
あれが恋だったのかもわからない。
「変わらないじゃん、男? 女? 」
「座敷童」
「は? 」
「家族旅行して行った旅館で見た」
「コワッ! 何? 夏の会談? 」
家族の誰も見ていない。食事処には、夜も、朝もそんな子は居なかった。
ただ到着したその日の夕方、家族が売店で買い物する間に退屈して入った大広間の和室で、おかっぱ頭のその子に会った。とても綺麗な子だったのを覚えている。
「女の子ですよ、て言うより、さっきの彼女は送らなくていいんですか」
「彼女? ああ、さっきの? 家知らないし、今日初めて撮影で会った女だよ」
「……初めて会ってその日のうちに⁉ 」
「あるだろ? そういうの」
ある。
だが、そのまま別れたりはしない。前の彼女だって自分は責任を感じて付き合いが始まった。
「随分と奔放なことで」
「人の事言える? 」
「は? 」
立ち止まった。
そんな風に自分が咎められる理由はない。
「まぁ、俺たちはキスしたけど、初めて会った日ってわけでもないか」
「何か関係がはじまってるみたいに言わないで下さい! 」
また歩き出す足取りの強さに革靴がアスファルトを鳴らす。
「だいぶ仲良くなっただろ? 」
「ついて来ないで下さい! 」
「また今日は敬語に戻ってる、それやめろよ」
「……ついて来るなよ! 」
「やだ」
足を速めて進む後ろを、笑いながらついて行く。
二人の声が、すぐ側の線路を通り過ぎる電車の音に搔き消されて、その影も爆風に揺れた。




