5. 迷子
珍しい事はやっぱりするもんじゃないと、街路樹の下で人の波を見つめて立ち尽くす。
こんなの着たのはいつぶりだろうかと思いながらクローゼットの奥から引っ張り出したトレーニングウェアで玄関の扉を閉めた。運動不足の毎日と、休日とはいえ部屋で夕暮れまで転がっていては身体がなまる気がしたからだ。
「お祭り……神社の夏祭りか……」
道行く人々は家族連れや恋人たち、学生らしき男女が浴衣姿で初々しく手を繋いて歩く姿も見える。こんな人混みの中を走るなんて事は馬鹿げている。ランニングシューズのままゆっくりと歩き出すと、遠くから祭りばやしが聞こえた。
「何してんの」
「……っわっ」
後ろから肩に手をのせられて飛び上がる。
その声でもうわかってはいたが、想定よりも綺麗な顔なのは、毎度の事でもある。この隣人の男に見慣れていくはずなのに、その都度改めて思ってしまう。
「そんなカッコして珍しい、走るのか?」
「……いや、それが……」
きまり悪く見上げた夕暮れの空まで綺麗で、自分がむなしくなってしまった。
行こうか、そう言われて、なんとなく足を交わしてしまった。どうゆうわけかまた二人でこの街路樹の下を歩いている。先日はコンビニで遭遇した。
なにしろ同じマンションの隣同士であるから驚く事でもないのかもしれないが、いくら何でも隣同士だからというのは、キスした理由にはならない。たとえ自分が酔いつぶれていたとしても。
夜の参道に浮かぶ灯籠が視界に滲む。
賑やかな人通りの中を、束ねられた黒く長い髪を追って進んで行く。どうしてついて来てしまったんだろうか。
「おみくじ引く?」
「いや、いい」
振り返った彼に首を横に振って見せた。
「なんで?」
「別に正月じゃないし、悪いの出たら嫌だから」
そう言うと笑われてしまって、なんだかバツが悪い。
それでも境内に出来た人の流れに沿って列に並ぶ。首を伸ばしてその先に視線を向けると、藁で編まれた大きな輪をくぐってお参りする様子が見えた。
「茅の輪くぐり、健康祈願だな」
そんな様子を見た隣人が諭すように呟いた横顔を見上げる。
「一人でお祭りに?」
なんとなくつられて一緒に来てしまった。
「まさか、今帰って来たとこ」
「え? じゃあ……」
「偶然でも夏祭りデートなら着いて来るかと思って」
何か言おうとしたところで、手首を掴まれて思わず足を踏み出す。大きな輪をくぐって行く彼に手を引かれて、くるくると、作法もわからず引かれるままについて回ると、また後に並んでいた列の人に代わる。気づけば列は鳥居のほうまで延びていた。
「すみません……ありがとう」
「デートに連れ出したのが?」
「違っ……」
「かき氷買って」
「……」
レモン味のかき氷をすくって口の中に運ぶ。蒸すような暑さの人混みの中では、無果汁の黄色いシロップでさえ爽やかな清涼感を全身に染み渡らせる。
「あの、俺ずっとタカられるのかな」
「ははっ、どうしようかな」
ワインをボトルごとぶちまけたのを片付けて貰った上に、そのまま上がり込んで眠ったわけだから相当な迷惑を掛けてしまった自覚はある。何かお礼をと口にした時は菓子折りとか、何かそういった類の品を思い浮かべてはいた。
「じゃ、次は俺が奢るから」
「いや、お金の話とかじゃなくて……」
発光するほど鮮やかな青いシロップをかけた氷を先の割れたストローで崩していく彼が、なんだか楽しそうに見える。
人混みの中を進みながらまた人工甘味料の甘さと清涼感をストローで吸い上げていると、遠くから笛の音が聞こえて来た。立ち止まると、境内にある社の一角で面をつけた人達が神楽を舞っているのが見えた。思わず見入ってしまう。
笛の音に合わさる太鼓の響き、板を踏み込む力強い音だけが耳に響いて身体中にこだまする。
「あ、あれ?」
舞を終えて幕の向こうへと姿を消す幻想と共に、密集していた観客もそれぞれに立ち去って行く。
気付けば彼が居ない。
喧騒が悪戯な騒ぎ声に聞こえてきて、辺りを見回す。まるで知らない土地に迷い込んだような錯覚を、祭りの景色は助長してくるようで俯く。
別に、誘い合って一緒に来たわけじゃない。
たまたまなんとなく歩いていただけで。
彼を探すべきだろうか、先に帰っただけかもしれない。
でももし自分が帰った後も、彼が自分をここで探していたとしたら。
ポケットに入ったスマートフォンを掴んでみても、連絡先も知らない、そうだ名前さえ。ただ隣に住んでいるとしか、互いに知らない関係なのだ。
「……見つけた」
腕を掴まれて振り返る。
「あ……」
「迷子捕まえた」
そう言って溜息をついた彼の額には幾筋もの汗が流れている。
「気付いたら居ないし、どこ行ってた」
「いや、神楽が始まったから」
ああ、とそう言ってさっきまで幻想の舞台だった社のほうへ視線を向けている。
首すじに張り付いた髪が、汗を含んで灯籠の光に煌めいて見えた。ふわりと香るこの彼の匂いが、まるで惑わすように自分から動きを奪う。
「こうしとこう」
掴まれていた腕からするりと下りてきた手のひらが、自分の手に触れて、合わさった。
「ちょっ……!」
繋いだ手を引かれて、参道を下りていく人の流れに加わる。
「ちょっと、離して! 男同士で何して……」
「また迷子になるからな」
振り解こうとしてもまるで離れない。凄い力だ。
「ちょっと焦った」
歩く速度を緩めた彼が、一瞬だけ振り返って、そしてまた前を向いて歩き出す。
「タカったから呆れたのかと思った」
「え?」
少し笑うと、彼も笑った。
手を繋いて歩いても、ひしめき合う人の波の中では、誰にも二人の繋いだ手には気付かれるはずもなく、夜の闇がそれを覆い隠した。




