3. 星空
食事を済ませて満たされた後の帰り道は、いく分か気持ちに余裕がある。
久しぶりに別れた彼女の事を思い出した。
等間隔に照らされた街路樹の横を歩きながら、過去になった恋を思い出す事もなかった自分に気が付く。
先に自分の部屋に帰って夕食を作っていてくれる彼女が、遅くなっては機嫌を損ねるだろうと、やっと仕事を終えた会社を飛び出して家路を急いでいた。
寂しいとかそんな感情よりも、身軽になった気持ちが足取りを軽くさせる気がした。
「あ……」
帰り着いたマンションのエントランスで、長い髪を束ねた男の後姿に思わず声を上げた。
「お疲れ」
「……どうも」
彼が開けたオートロックの自動ドアを一緒にくぐる。エレベーターのボタンを押したのは俺で、彼も一緒に乗り込んで来る。階数は聞かなくてもわかっている。彼は俺の隣人で、右隣の角部屋に住んでいる。
ふと、彼が買い物袋を手にしているのが見えた。
「自炊、するんですね」
「ん? ああ、自己管理だな」
「凄いですね健康志向だ」
「健康って言うより……」
隣に並んだ彼を見上げてみると、目を合わせた彼が言葉を切ってドアのほうに視線を移した。
「と言うより?」
「いや」
一緒に八階で降りて互いのドアに向かう。
「ワインなら貰い物があるけど、来るか?」
「えっ?」
「この前ぶちまけただろ、ボトル全部」
「あ、あれは別に……そんなに飲みたかったわけじゃ……」
「そうか」
僅かに笑った彼は、もう開いたドアの中へと入って行った。
元カノの結婚式の引き出物だったワインなん別に惜しくはないが、酔っ払って他人の家の玄関先で眠ってしまった事のほうが後悔の念に苛まれる。
玄関で革靴を脱ぐと、ネクタイを緩めながらバスルームへ向かう。
「俺ってキス魔だったのかな……」
二八歳ともなれば酔い潰れた事くらいは何度かあるけれど、これはまで酔った勢いで誰かとキスした事なんかない。
ましてや男と唇を合わせた事なんて初めてだ。
シャワーに打たれながら、妙に彼の体温を思い出してしまって、慌ててお湯の勢いを強めた。
ベランダに出て、まだ湿った髪を夜風に晒す。一人の夜は時間がゆっくりと流れるようで、意味もなくベランダに出て風に当たろうとか、そんな事を思って少し軽やかな気持ちになる。
決して強がりでもないはずdだけれど、自分はこうして誰かに合わせたりせずに一人で居るほうが性に合っているのかもしれないと思いながら手摺壁にもたれる。
「お? 珍しい」
「え?」
右隣から声がした。
少しだけ上体を乗り出すと、隣のベランダに長い髪を風に揺らす彼が居た。
「そこに出て来る事あんまりないだろ」
「それは……」
ベランダなんて特に用はない。洗濯物はそのまま乾燥まで回すし、シーツや大物を洗った時くらいだ。
「ここ眺めいいのよ、夜もな高台だから星が見える」
「星……?」
缶ビールを手にした彼の視線の先には、確かに広がる星空が見えた。
「本当だ……」
「な?」
星なんか見上げたのはいつぶりだろうか。今日だって満たされた腹を抱えて、余裕さえ感じて歩いて来たはずなのに、人工的に照らされる街路樹の枝は見上げても、それ以上遠くまで視線を延ばそうとはしなかった。
「別れた女の結婚式で酔い潰れんなよ……」
急に現実に引き戻されて、手摺壁から肘を落とした。
「いや、ちょ……なんでそんな事まで」
「あのワインのラベルの写真、前の女だったろ?」
「そ……れは」
「いい女だったよな良い尻してたし」
「はぁ……」
なんと反応してよいのかよくわからない。
「でも正直言うと」
缶ビールを寄せる唇が見えて目を逸らす。
なんだかあの日のキスを思い出して、落ち着かない気分になってしまう。
「俺はアンタの尻のほうを見てたけど」
「は? え? ちょ……何言ってるんですか!」
「寂しいなら来れば?」
「結構です」
被せ気味の返答は想定内とばかりにニヤリと笑う顔が妙に綺麗で憎たらしい。
「ワイン飲むか?」
「いいですってば」
「つまんねぇなぁ」
「……」
そんな風に言われると、なんだか自分が期待を裏切ってしまった気になってしまう。
「眠……」
「えっ? もう」
「つまんねぇから眠くなった」
スマートフォンは部屋に置いて来たが、たぶんまだ十時を過ぎたくらいだ。
「寝るわ、これやる」
「えっ」
伸ばされた手には缶ビールが握られていて、受け取れと即すように細かく揺らされる。思わず受けとったそれは、半分くらいの重みがあった。
「まだ結構ある……」
「だからだよ、二本目だし」
「自己管理は?」
「それはノンアル、ゼロカロリー」
手の中で銀色に浮かぶ缶には確かにそう書いてある。
「おやすみ」
「おやすみなさい……」
誰かにおやすみを言う夜は久しぶりだ。
窓が締まる音がして、彼の気配が遠ざかった。
広がる星空を見上げる。煌めく星空の下に二人で居る瞬間を知ってしまうと、余裕があったはずの心はたちまちに、寂しさのような感情を滲ませるから不思議だ。
「間接キス……」
手のひらの温度を奪っていく缶を見つめて独りごちる。
あんなキスしておいて今更かと、目の前に広がる星空をみてるとそんな気になって、彼の唇が触れたはずの缶の飲み口に口づける。
彼とのキスとは違う、冷たい液体が口の中に流れ込んで、そして喉で弾けた。




