2. 返事
重たい頭で目覚めた視界には、いつもの自分の部屋の天井が映っている気がした。
だから普通に起き上がって、そこに居る男に驚いた。
「……っおぁ! えっ?」
窓の横にあるデスクでパソコンに向かっていたその男が振り返る。長い髪から半分だけ、特に表情のない顔がのぞいた。
「あ、あの、すみません」
「まったくだ」
見渡した部屋はキッチンが反対側にある。自分が寝ていたソファーは大きな黒いレザーで、ここが自分の部屋ではないと理解する。
「あー……俺、ワインを……すみません、片付けて頂いて……」
「酔っぱらいの介抱は慣れてる」
そう言って立ち上がった彼がキッチンへと歩いて行く。自分も早く出て行かねばと立ち上がるが、ベルトがなくてスラックスがズレる。
気づけばジャケットもネクタイも無い。そこで、昨夜の記憶が頭の中でフラッシュバックした。
そうだ、キスした。
「襲ってないぞ」
キッチンから戻って来た男がこちらに向かって水のペットボトルを放おった。慌てて両手でキャッチして、その男が同じ水のペットボトルを煽るのを呆然と見つめる。
男はいつも見かける通り、ティーシャツに黒いスウェット素材のボトム姿だ。ただのスウェットパンツかもしれないし、高価なブランドかもしれない。いずれにしても上手く着こなせないとただのだらしないスウェットパンツになりそうなのに、この男は見事に長い脚で格好良く着こなしている。
明るい中でこの隣人を見るのは初めてで、その肌の綺麗さに見入ってしまった。いや、肌というより、整い過ぎた目鼻立ちがその白い肌をより綺麗に映す。自分より年下なのか、年上なのか、年齢がなんとも予想できない。
「服はあっち」
いつの間にかすぐ側まで来ていた男との距離感にハッとする。
指差されたリビングドアのほうを振り返ると、コート掛けに丁寧にジャケットとネクタイ、ベルトまで掛けてあった。
「あの、すみません、ありがとうございま……」
思わず礼を口にしたところで、視界が揺らぐ。やっと立ち上がっていた身体がソファーにまた沈み込んだ。
「……っ、えっと……」
「睡眠姦の趣味はないんでね」
自分の身体の上にのしかかる男の重みで更に身体が沈んでいく。透明感のあるあの香りが、身体から力を奪おうとするのにハッとする。
「えっ……いや、そん……冗談はやめて下さい」
「女連れてる時に誘ってくるから3Pでもしたいのかと思ってた」
「は……はい⁉」
確かに別れた彼女と一緒の時に通路で会う事は何度もあったけれど、会話を交わした事も、ましてや声を掛けた事なんか一度もない。
「喋った事、なかったですよね」
「ない」
「なら……ちょっ」
身体の上に跨った男がシャツのボタンを外していくのを手首を掴んで止めた。
「じっとり見つめて俺の匂い嗅いでただろ? 女連れてるのに」
「……っ!」
そんなつもりは……なかったはずなのに。
「女なんかそこに居ないみたいに俺の事見てたくせに」
「ま……さか、そんな」
「昨日だって誘ってきた、こうしてシャツのボタン外しながら……」
ボタンが外れて、はっとしてまた手首を掴む手に力を込める。身体の上の綺麗な男が小さく笑った。のしかかる重みからゆっくりと解放される。
「無自覚が一番タチが悪い」
立ち上がった男が背中を見せた。デスクに戻って水を煽る姿を見て、自分も直ぐに立ち上がる。
迷惑を掛けてしまった事は申し開きのしようもないが、自分が誘ってきたなんて言われる覚えはないはずだ。
掛けてあったベルトを手にして腰回りに通していく。ジャケットとネクタイを掴むと、ドアのほうへ向かう。
「すみません、お礼は改めて」
「何のお礼してくれるんだ?」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
「そういう意味って?」
「……や、あの」
完全に遊ばれている。
「期待してる」
デスクに座ったままこちらを振り返る男に、苛立ちを隠せない。
「俺はっ! そんなつもりないんでっ!」
そう言ってリビングドアを開けた。
「昨日のキスは良かったよ」
立ち止まってしまった。
足元に延びる真っすぐな廊下の先に、昨夜の自分が蘇る。
腹の奥底に着火したように身体が熱くなる。
重なる男の重みと温度を思い出す。燻り出されるようなあの香りと、耳を塞がれて体中に響いた水音を。
口元を覆って立ち尽くす。
確かに自分はあの熱い舌に応じた。
「……俺はそんなつもり……」
「あんなに熱烈なキスしておいて」
「……っ」
返事に困ってそのまま玄関へと脚を速める。
ジャケットのポケットに自分の部屋の鍵が入っているのを確認して、靴を履きながら振り返る。
「し、失礼します!」
開けたまま来たドアの向こうには、パソコンに向かう男が見えて、返事の代わりに左手を上げた。




