1. ワイン
緩んでいたネクタイをさらに緩めて溜息をついた。新品の靴はなんだか足の指が痛い。
夜の空に街路樹が並ぶ通りはただ真っすぐで、長く感じる。駅から歩いてこんなに遠かったかなと、ぼんやりする頭で考えてみる。そんなに酔っているのだろうか。
元カノの結婚式に御祝儀持って来るなんて、お前は本当にお人好しだよな。そんな風に同僚たちから酒を注がれては、返す言葉もなくただグラスを煽っていた。
「……今どきカタログギフトだろ普通……」
引き出物の紙袋がやたらと重たい。なんなんだいったい。
開業医の旦那をみつけて玉の輿だと部署で噂になっていたから、老舗ホテルでの豪華結婚式にもかえってイヤミは感じなかった。
やっと着いたマンションのアプローチのいつもと変わらない植栽のライトアップが、自分を嘲笑しているかのように感じた。
私って魅力ない?
そんな事を言われて起きた朝、ベッドの上で別れを切り出された。
「っ……暑っ……」
エントランスで鍵を探しながら、酔っているんだと自覚した。のどが渇く。
こんな気分で帰り着く部屋が、彼女と過ごした部屋だというのが情けなくもある。一緒に住んでいたわけではないが、彼女が部屋に泊まりに来る事は多かったし、そうなるとそんなにいつもいつも身体を重ねたいと思う事もなかった。
目の前のエレベーターの扉が開いて、また重たい脚を交わす。八階を押して壁にもたれると、ふわりと透明感のある香りが鼻に触れた。
乗り込んで来た気配に顔を上げる。
黒く長い髪を結んだ男の後姿が視界に映る。
この香水の匂い、隣の部屋の住人だ。
スーツで出勤する姿を見たことが無いし、そんなに長い髪なら、会社務めでもなさそうだとは思っていたが、顔を合わせても言葉を交わした事はない。ただいつもすれ違うたび、その香りに振り返りそうになる。
「……暑っ……」
酔いが回ってきたのかなと、シャツのボタンを外して、ふと感じた視線に顔を上げると、男がこちらを振り返っている。こんな狭い箱に閉じ込められて初めて、彼との体格の差を感じた。見下ろしてくるような黒い瞳は、逸らされる事もなく自分を見据えて動かない。
何だろう、もしかして酒臭かったかな。
早く八階についてくれと願った通りに機械音が高く響いてドアが開いた。
逸らされた視線と緊張から解放されて、角部屋の男の後姿を見ながら歩く。ドアの前で止まった彼と同じように、自分もポケットから取り出した鍵でドアを開けた。
「っ……あ!」
腕に引っ掛けていた紙袋が下に落ちて、玄関のタイルの上にぶつかって割れるガラスの音が響いた。
「……っわ、最悪……」
引き出物の紙袋から滑り出たワインボトルが粉々に割れて赤い液体をぶちまけている。
「あー……もう」
何からしていいのか分からずに、でもなんだかもうどうでもよくなって片手で顔を覆って天を仰いだ。
「……何やってんだよ……」
後から声がして肩を跳ねさせながら振り返る。
隣の彼が、ドアに手を掛けてこちらを見下ろしている。
「あ、すみません……お騒がせして」
「いや……」
そう言って隣の自分の部屋の方へと戻って行った。
音をたてないように片付けなければ、としゃがみ込むと、スーツの足元にまで跳ねたワインのシミが見えてげんなりした。
焼き菓子の箱にも染み込んでいくワインのシミと鼻をつくアルコールの匂い。
「悪趣味だなぁ……」
新郎新婦の写真がハート型のラベルになっていたようで、その笑顔も割れたボトルと一緒に歪んでいて、思わず笑ってしまった。
「何笑ってんだ、どけ」
声がして振り返ると、腕を掴まれて引き上げられる。
隣の男がどうして。
後ろに下がる形になって呆然としていると、彼の手には段ボール箱と、デッキブラシ? 風呂掃除のブラシが握られていた。
「だいぶ酔ってるな」
そう言いながら段ボール箱にワインの液体ごとブラシで掃き込んでいく。
ようやく彼が自分の部屋へ掃除道具を取りに行って戻ったのだと気が付いた。
「あ、そんな! いいです! 自分で……」
「いいから、ケガするからやめとけ」
静止も聞かずに外にまで飛び地ったボトルの破片を拾い上げる。
「……痛っ」
「ほらぁ、お前、こっちに居ろ」
指に血を滲ませて破片を落とした。そのまま肩を抱かれるようにして連れて行かれる。
「えっ……あの」
隣の彼の部屋の玄関にぺたりと座らされる。
「うぁ……」
手を取った彼が血のにじんだ俺の指を口に含んだ。
「そこに座ってろ」
見下ろす彼の唇を舐める舌が暗闇でも見えた。
閉まったドアの向こうの彼を追いたいけれど、身体がふにゃふにゃになったみたいに力が入らない。
瞼まで重くなってきた。
「……寝たか」
寝落ちしていた。彼の声だ。身体を起こしたいのに、もう眠くて……。
廊下のフローリングに身体を投げ出している自分に歩み寄る気配がある。
頬に大きな手が触れた。
叩き起こされると身構えたのに、その手はゆっくりと輪郭をなぞる。
「……んっ」
なんだか甘ったるい声が自分の鼻を抜けて驚く。
彼の香りが近づいて、溜息に変わる。
「あんなに誘うように見つめられるとな……」
なんの事だろうかと、瞼を持ち上げると、目の前に彼の長いまつ毛が見えて、唇が塞がれた。
どうして、いったい今、何が……。
頭は回らないのに、自分の身体が熱く火照っていくのだけはわかる。
口の中に入り込んで来た熱い舌を拒めない。
フローリングの冷たさと、彼の透明感のある香りがこれが現実だと告げてくるのに。




