58 獅子は千尋の谷へ落ちる
レオンはその夜、父親に呼び出しを受けていた。
「レオン、非公式ではあるが、ルミエール侯爵家より長女クレール嬢との婚約の打診があった」
「非公式……、とは?」
「ちょっとした会話のなかで出てきた話だ。家の娘がレオンのことを気に入っているようだ。俺もレオンであれば悪くはないと思っている、とな。これは遠回しに打診があったのに等しい」
その話を聞き、レオンは青ざめる。もし家同士で婚約が成されれば拒否権はない。つまり、詰みである。
「僕は、その話を受けたくない。父さん、お願いだ。もう少し時間が欲しい」
「……なにが不満なのだ?」
「それは……」
上手く言葉にできず、レオンは俯いた。握る拳に力が入る。
「ハッキリ言っておこう。ルミエール家からいずれ正式に婚約の打診があるだろう。私はそれを受け入れるつもりでいる。お前が何を考えているのかは聞かん」
「……わかりました」
レオンは頭を下げ部屋を出る。
そして天井を仰いだ。
――もう、時間がない。
レオンはため息をつく。
* * *
次の日の朝、レオンはテアを探す。しかし見つからないまま時は流れた。
テアはその日、3時限目から登校していた。
教室に入るとすぐにアンネが駆け寄り、その変化に気づく。
「あら? テア様髪飾りを変えられたのですか?」
その白い蝶の髪飾りが気になり、アンネはテアに尋ねた。
「うん、気分転換に、ね……」
暗く、沈んだ顔。
アンネは容易くその嘘を見抜く。それでも、アンネはテア至上主義だ。だからこそ、それが面白くなかった。
「ええ、似合っていますテア様。ですが、紅い蝶の髪飾り程ではないです。私はそっちのテア様の方が好きです」
「……!」
その一言がテアの心を苛む。
――忘れようと決めたのに!
「初等部の白い蝶、それがテア様の字名ですから。大半の《《何も知らない人なら》》、そっちの方が似合うと思うでしょうね」
忖度のない一言にテアの心臓が跳ねた。
――お願い、言わないで!
味方のはずのアンネからの言葉にテアは瞬きさえ忘れる。
そのせいで、テアは今日も授業に集中できなかった。
昼休み、1人になりたかったテアはまたもあの茂みに来ていた。
あのとき苦しくて泣いてしまった場所。そして、そんな弱い自分を許してくれた場所。
テアは気づかない。
それは逃げているだけだということに。
それでも、その“赦し”は確実に、そして静かにテアの心を蝕んでいた。
「誰も、私のことなんて理解してくれてないんだ。アンネでさえ……」
絶対の味方だと思ってたアンネの一言が、鋭利な刃物のようにテアの心を傷つけていた。
「誰も、誰もわかってくれない……」
テアは天を仰ぎ歯を食いしばる。泣きたくなんてなかった。
しかしそれを許すほど、突き刺さる棘は短くなかった。
「違う……」
引きつった声。
「違う……違う……」
頭を抱え、振る。
「……嫌い」
ぽつりと溢れた。
「みんな……嫌い……」
それでも、止まらない。
「……っ、違う……!」
また頭を振る。
「一番……一番、嫌いなのは……」
声が更に震える。
「……私だ……!」
涙を溜め、空を見上げて呟く。
――そうだよね、だって私は――
化け物なのだから。そう叫ぼうとして人の気配に気づく。
「テア……さん?」
「アドリアン……様?」
振り向けば、アドリアンがいた。髪を彩る髪飾りが目に入る。
だからこそ、アドリアンは自分でも驚く程大胆になれた。
「泣いているんですね」
「そんなこと……ないです」
テアは否定する。
もし、今優しさという名の毒に侵されたら?
テアは分かっていた。
その先は、越えてはならない一線なのだと。
――それでも。
「いいんですよ、泣いても。そうしないと、人って進めないんですよね」
安らぎという名の毒は、あまりに蠱惑的で、そして残酷だった。
「僕も、そうだったから」
その一言が、遅効性の毒のように侵食を始める。
「うあああああ……!」
テアは耐えきれず涙を流す。
アドリアンがそっと、テアを抱き寄せた。その安寧に、テアは縋ってしまう。
「僕が、許します」
アドリアンはテアの頭をそっと撫でる。
「無理しなくていいんです」
赦される、という甘美な毒は、容易くテアを陥れた。
「僕が、全部許しますから」
アドリアンはテアを抱き締める。強く、それでいて優しく。
それを見ていたレオンは、膝をついて震えていた。
――間に合わなかったのか?
レオンは何も言えず、その場を立ち去る。
空は、皮肉にも青く晴れ渡っていた。




