1 ラスボス廃棄少女テア 1
「テアちゃん! 起きて、テアちゃん!」
誰かが必死に私の名前を呼んでいる。
――私の名前?
ぼんやりした意識の中で、そんな疑問が浮かんだ。
私の名前は牧田莉緒のはずだ。どう考えてもおかしい。
「テアちゃん、お願い、起きて……」
もう一度、声。
今度はすぐ近くから聞こえた。
重たいまぶたをゆっくり開ける。
最初に目に入ったのは、見慣れない石の壁だった。
灰色の石が積み上げられていて、ところどころ黒ずんでいる。湿気のせいか、空気もひんやりしていた。
身体の下も硬い。
冷たい石の床に寝かされているらしい。
「……ここ、どこ?」
かすれた声が出た。
自分の声なのに、妙に高くて幼い声だった。
「テアちゃん! よかった、起きた……!」
慌てたような声とともに、私の顔を覗き込む少女が視界に入る。
ショートカットの髪。
心配そうな大きな目。
年齢は……たぶん、私より少し下くらい。
その子は泣きそうな顔で言った。
「テアちゃん、大丈夫? なかなか目を覚まさないから心配したよ……」
テア。
またその名前だ。
でも、不思議と違和感がなかった。
むしろ、どこかでその名前を知っている気がする。
私はゆっくり身体を起こして周りを見回した。
右、石壁。
左、石壁。
前、鉄格子。
「……牢屋?」
口からぽつりと言葉がこぼれる。
そう、ここはどう見ても牢屋だった。
狭い石の部屋に鉄格子。藁も何もない石の床。薄暗くて、なんだか錆びた臭いがする。
なんで私はこんなところにいるんだろう。
そしてもう一つ、もっとおかしなことに気づいた。
自分の手だ。
目の前にかざした手は、小さくて細い。
指も短い。どう見ても大人の手じゃない。
「……え?」
胸がざわつく。
私は慌てて自分の身体を触った。腕も脚も細い。背も低い。明らかに子供の身体だ。
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
知らないはずの記憶が、洪水みたいに流れ込んでくる。
村。
畑。
優しい母さん。
大きな手の父さん。
笑い声。
そして、炎。悲鳴。血。盗賊。
全部、知らないはずの記憶なのに、全部知っている。
胸が締め付けられる。
涙が勝手にこぼれた。
「……サーラ」
気がついたら、私は目の前の少女の名前を呼んでいた。
少女――サーラは驚いた顔をしたあと、ほっとしたように笑った。
「よかった……覚えてるんだね」
覚えてる?
私は何を覚えてるんだ?
頭がぐちゃぐちゃだ。
牧田莉緒としての記憶と、テアという少女の記憶が、無理やり一つの箱に押し込められているみたいだった。
私は確か、昨日……。
徹夜でゲームをクリアして、仕事に行こうとして、階段を降りて――
「……あ」
思い出した。
階段を踏み外して、落ちて、頭を打って。
「私……死んだの?」
思わず呟いた言葉に、自分でぞっとした。
でも、そう考えると全部つじつまが合う。
子供の身体。知らない記憶。牢屋。知らない世界。
つまりこれは――
「……異世界転生ってやつ?」
小さく笑いそうになる。
いや、笑えない。全然笑えない状況なんだけど。
そのとき、鉄格子の向こうから足音が近づいてきた。
コツ、コツ、と硬い床を歩く音。
「ふん、目が覚めたか」
低くて気味の悪い声。
紫色のローブを着た男が牢屋の前に立った。
フードを深く被っていて顔はよく見えない。
でも、直感でわかった。こいつは絶対にろくな奴じゃない。
「お前たちはこの私が購入した。これから私の実験に付き合ってもらう」
「……実験?」
嫌な予感しかしない言葉だった。
男は背後にいた青いローブの連中に命じた。
「魔神の血を持って来い」
――魔神の血。
その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍った。
私はこの言葉を知っている。
知っているはずがないのに、知っている。
それはゲームの中で、あの少女が打たれた薬の名前だ。
ラスボス廃棄少女、テア。
ゾーア教団に捕まり、魔神の血を打たれ、力に目覚め、そして――
世界を憎んで、魔神になる。
紫ローブの男が、注射器を持って私の腕を掴んだ。
針が肌に触れる。
その瞬間、私は確信した。
ああ、そうか。
私は――
「……テア、なの?」
銀髪赤眼の、救われないラスボス少女。
ゲームの中で、何度も倒したあの女の子。
その少女に、私はなってしまった。
針が腕に刺さる。
薬が体内に流れ込んでくる。
胸の奥が焼けるように熱い。
視界が暗くなる直前、私はぼんやりと思った。
――ああ、これ。
――私の人生、絶対ロクなことにならないやつだ。
異世界転生――
そんな言葉が脳裏に過る。でもそこに希望なんてあるの?
答えは――出ない。
そこで、私の意識は再び闇に沈んだ。




